翌日、シュンが朝いちばんにしたことは、昨夜自分が起こした騒ぎの件をアテナに報告することだった。 「他言無用と口止めしてくれた人がいましたし、僕みたいな子供に手もなくあしらわれた不名誉を吹聴してまわる者もいないとは思うんですけど、一応ご報告だけ」 アテナにきつい叱責を受けることも覚悟していたのだが、アテナに昨夜の事件を報告するシュンの胸は不思議に軽やかだった。 「あなたのお兄様は、私が捜してあげると言ったのに」 アテナは、シュンがそんな無謀に及んだ事情を察しているらしく、シュンを責めることはせず、ただ短い吐息を洩らしただけだった。 アテナの手を煩わせるつもりなど毫もなかったシュンは、眉を曇らせてしまったアテナの様子に慌てて、すぐに話題を逸らしたのである。 「でも、おかげで、スパルタにも話のわかる人がいることがわかりました」 「お友だちができたの?」 「ええ。ヒョウガという名の、とても綺麗な人。アテナイでも、あんなに綺麗な人は見たことがありません。綺麗なだけでなく、とても親切で――そして、冗談が通じる人のようでした」 「冗談が通じるというのは、素晴らしい美徳ね。でも、ヒョウガというのは、確か……」 アテナが一度 その名を舌の上で転がすことになったのは、シュンの言う“冗談が通じる人”に関する自身の記憶を確かめるためだったらしい。 その記憶に間違いがないという確信を得たらしいアテナは、少し険しい顔になって、シュンにヒョウガの正体を教えてくれた。 「シュン、それはスパルタの五百人隊長の一人よ」 「えっ」 アテナに知らされたヒョウガの正体――に、シュンは尋常でなく驚くことになったのである。 兵の数 十万以上と言われているスパルタ軍は、スパルタの成人男子五百人から成る二つの五百人隊を基幹部隊として構成されている。 その五百人隊の五百人は、それぞれに市民10人から20人の部下を持ち、その部下たちが更に数人の奴隷兵を抱えている。 その五百人隊の隊長となると、それはすなわち、彼がスパルタ軍の半数を掌握している人物である――ということ。 アテナイの無位無官の子供が対等な立場で冗談を言い合える身分の人物ではないということだったのだ。 「で……でも、ヒョウガは まだとても若くて、いっていても20歳そこそこの……」 「なら、間違いないわ。2年前に、スパルタ史上最年少の18歳で就任した五百人隊長のはずだもの。スパルタでは、歳が若くても、強ければ高い地位に就くことができるの。スパルタは強さが法律の国よ。彼は、18歳になって民会に成人の承認を受けたその日のうちに、五百人隊長に任命されたはず。軍事ではもう一人の五百人隊長と並んで、スパルタの二大実力者よ」 アテナに偉そうに外出禁止を命じてくれた長老会の面々も、市民に対する監督権と司法権を持つ監督官も、五百人隊長の意向は無視できない。 スパルタ軍五百人隊の隊長の地位と権力がどれほどのものなのか――それは、シュンにもわかっていた――知っていた。 だが、シュンにはやはり すぐにはその事実――事実なのだろう――を信じることはできなかったのである。 昨夜 シュンを野卑な兵たちの手から救い出してくれたヒョウガは、どちらかといえば反体制的な、見ようによっては 強さにいきがった“若造”と言うこともできなくはないような青年だったのだ。 「ほ……本当ですか? 確かに かなりできる人物だとは思いましたし、それなりの地位に就いていてもおかしくはない人だとも思いましたけど、でも、あんなに若くて――」 「ええ、間違いなく本当。幸い、ヒョウガは穏健派よ。というより、反戦非戦論者。もう一人、アテナイとの戦いを主張している強硬派の五百人隊長がいて、スパルタ軍はその二人が牛耳っていると言っていいわね。スパルタの現在の王は、王家の血を引いているから かろうじて海に流されずに済んだような虚弱な人物なの。スパルタで弱いということは致命的な瑕疵だから、彼は国民の尊敬を得られず、軍の指揮権も決定権も持たない有名無実の王。スパルタがアテナイになかなか攻め込んでこないのは、二人の五百人隊長の意見が真っ向から対立しているせいなのよ。大きな戦では、やはり二つの五百人隊の連携が成っていることが絶対必要だもの」 「スパルタに反戦派がいるという話は聞いていましたが――」 せいぜいそれは、民会の若手の幾人かとか、5人いる1年任期の監督官の一人とか、シュンはその程度のことを考えていた。 ヒョウガがスパルタの五百人隊長の一人だということは、言ってみれば、スパルタ軍の半分が実は反戦派だったということである。 その事実に、シュンはあっけにとられることになった。 「でも、あんなに若くて、あんなに綺麗で……」 なぜか異議を唱えるように言い募ってしまったシュンに、アテナがふいに、悪いいたずらを企んでいる子供の顔をして尋ねてくる。 「そのヒョウガという隊長さん、そんなに綺麗なの?」 「あ……ええ。それは神と言っても通りそうなほど――」 仮にも女神アテナの意思を宿した女性の前で――つまりは神の前で――そんな発言をすることは神への不敬になりかねないということに、シュンはまるで思い至っていなかった。 アテナが、そんなシュンを見て、神の怒りを発動するどころか、妙に楽しそうな笑顔を作る。 そうしてから、彼女は、シュンに命じてきた。 「今日から夜の一人歩きを許可するわ。シュン、あなた、その綺麗な隊長さんを誘惑しちゃってくれる?」 「は?」 「アテナイとスパルタの全面戦争は 両国に不利益しかもたらさない。漁夫の利を狙う他のポリスや マケドニア、ペルシャが、アテナイとスパルタの共倒れを今か今かと待ってるのだと、その隊長さんに こんこんと説いてみてちょうだい。五百人隊長の一人をアテナイ側に取り込めたら、それだけでも今回の遠征には大きな意義があったということになるわ」 「ア……アテナのご命令とあらば」 「ご命令、ご命令。人生には戦いよりも素敵なことがあるってことを、スパルタの隊長さんに教えてあげて、彼の人生を豊かにしてあげましょう。彼は、あの兵舎のいちばんいい部屋にいるでしょ。スパルタの兵舎はどれも基本的に構造が同じのようだから、どこが彼の部屋かはわかるわね?」 「おおよそのところは」 「では、うまくやってちょうだい。あなたのお兄様のことは私に任せて」 そう告げるアテナの瞳は、新しい遊戯に挑戦しようとしている子供のそれのように 明るく輝いていた。 屈託のない笑顔と、やわらかな口調。 シュンが彼女に何らかの指示や命令を受けた時、『なぜ?』や『でも』を言うことができないのは、神である彼女を畏れるからではなく、これまで彼女の判断や命令に ただの一度も ただの一つも誤りがなかったことを知っているからだった。 彼女の命令の意図を理解できなくても、得心できなくても、彼女の命令を遂行すれば、それは必ず良い結果を生む。 そういう事態をこれまで幾度も見聞きし、自分でも経験してきた。 であればこそ、シュンは、速やかにアテナの命令に従ったのである。 |