うぬぼれの美徳に恵まれる代わりに鈍感の美徳に恵まれてしまった瞬は、自分が正しいと信じたことには、頑固なまでに執着する人間でもあった。 でなければ、瞬は、人と人が傷付け合うことのない世界の実現という夢や理想を捨てぬまま アテナの聖闘士などという商売を続けていることはできなかっただろう。 決して曲げられず、捨てられない自身の夢と希望のために、瞬は邁進する。 その夢や理想を 人に強く押しつけることはせず、あくまで控えめに、多くの場合は 推奨の形で。 星矢たちに 氷河のままならぬ恋を知らされた瞬は、もちろん、氷河の恋の清らかさを守るための行動に出たのである。 いつもの通りに。 人と人が傷付け合うことのない世界の実現を願うのと同じだけの情熱をもって。 「あ……あのね、氷河。氷河は、氷河の好きな人のことを諦めない方がいいと思うんだ。無理強いはよくないけど、誠意をもって氷河の希望を伝えて、待てるなら待った方がいいと、僕は思う。代わりの人で自分の、その……衝動を静めようとするなんて、その人に失礼だし、氷河が好きな人を貶めることでもあるでしょう? そんなことをしたら、氷河の綺麗で一途な恋が汚れてしまう。氷河がそんなにその人のことを好きなのなら、自分で自分の恋を汚すことはないと思うんだ。僕は、氷河にそんなことはしてほしくない」 綺麗な恋を汚すようなことを、氷河には してほしくない――それが、この問題における 瞬の夢と理想だった。 瞬の切なる願いをこめた訴えに、氷河が 少々諦観が混じっているような反駁を返してくる。 「待っていたら――俺は100歳を過ぎても童貞のままだ」 「それは――氷河がその人を待てなくなるっていうことは、氷河がもうその人を好きじゃなくなったってことでしょう。そうしたら、その時に初めて、氷河は別の好きな人を見付けて、その人と……その……そういうことをしたらいいと思うの」 清らかな恋を一つ終わらせてから、また別の恋に身を任せる。 それならば、氷河は誰かを裏切ったことにはならず、誰かに偽りを強いることにもならず、氷河の恋は清らかさを保ったまま存在し続ける――というのが、瞬の考えだった。 それならば、氷河は、氷河の心を裏切り欺くことにはならない――というのが。 が、現実の恋というものは、清らかな夢や理想の通りに実践できるものではない。 恋の当事者である氷河は、瞬の提言に首を横に振った。 「おまえは、恋と肉欲を同次元で考えすぎている。心因性の不能というのもあるんだから、心と肉体の間に全く相関関係がないとは、俺も言わないが、性欲というものは、基本的には心とは別に肉体から生じるものだろう」 「じゃ……じゃあ、氷河は性欲を満たせるなら、相手は誰でもいいっていうの!」 氷河の言っていることは、そういうことである。 そして、それは、瞬には断じて受け入れられないことだった。 瞬は、自分の仲間に汚れてほしくなかったのだ。 らしくなく気色ばんで仲間に噛みついていった瞬に、氷河が抑揚のない声で答えてくる。 「俺にも好みはある」 「その好みの範疇の内にいて、妥協できる人なら誰でもいいの!」 「俺の好みに合う人は、一人しかいない」 「あ……」 我知らず激してしまっていた瞬は、穏やかな声音でできた氷河の その答えに接して、はっと我にかえった。 思い通りにならない恋に、実際に苦しんでいるのは氷河なのである。 氷河の心を無視して自分の理想を押しつける残酷に――自分がいかに残酷なことをしているのかということに――瞬は、その段になって初めて気付いたのだった。 氷河が、瞬の夢と理想に屈したように、その瞳に寂しげな微笑を浮かべる。 「……そうだな。悪かった。俺は、俺の思い通りにならない恋に苛立っていたのかもしれない。俺は、100年でも200年でも待つことにする。おまえの言う通り――どうせ、俺は、あの人の代わりになれる人など見付けることはできないんだから。おれがもし童貞のままで死んだら、神も俺の忍耐を立派なことと認めて、天の国に俺のための特等席を用意してくれるだろう」 「氷河……僕は……」 瞬は、決して、氷河に苦しみを強いるつもりはなかった。 むしろ瞬は、氷河に自分の恋を後悔してほしくなかったからこそ、氷河の恋を綺麗なままにしておくことは“正しいこと”だと思い、その思いに従って行動したのである。 しかし、それは、氷河に苦しい忍耐を強いることだった――らしい。 苦渋をたたえた氷河の声に、瞬の胸は、心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚えることになってしまったのである。 「氷河は、その人を――100年でも200年でも待てるの……?」 「そうだな……。多分、待てるだろう。俺は卑俗な男で、報われない恋に耐え続けることなど とてもできないだろうと思っていたが――あの人を泣かせるくらいなら、どんなに苦しくても待っている方がましだ。おまえに言われて気付くことができた。俺は、思い通りにならない恋のせいで、まともな判断力を失ってしまっていたらしい。不愉快な思いをさせて悪かったな」 「氷河……ぼ……僕は……」 氷河に苦しんでほしくはないのだ。 瞬は、そんなことは、絶対に望んでいなかった。 いなかったのに――。 氷河に後悔をさせないために――氷河の綺麗な恋を守るために――結果として、仲間に苦しみを選ばせてしまったことに、瞬は今 後悔を覚えていた。 そして、その後悔とは別に――そんな苦しみに100年でも200年でも耐えられるほど 氷河が好きだという その人に、氷河にこれほどの苦しみを強いる その人に、瞬は怒りに似た思いを抱き始めていたのである。 |