その夜、氷河が瞬の部屋に赴いたのは、特殊な思惑や下心に突き動かされてのことではなかった。
それでなくても日中ずっと元気のなかった瞬が、夜になって本格的に泣き出したことがわかったから――悲しみに暮れている瞬の小宇宙を乗せた夜の空気が、氷河の部屋に忍び込んできたから――だった。
とはいえ、氷河が瞬の部屋のドアを開けた時、瞬は実際には その瞳に涙をたたえてはいなかった。
その頬が、涙を流すことのできない死人のそれのように 青ざめているだけで。
瞬は、涙を流さずに泣いていたものらしい。

「小宇宙が――おまえが泣いているような気がして……」
言い訳を言う必要はないはずなのに、言い訳めいた響きを帯びていると、氷河は自分の声を聞いて思ったのである。
仲間に心配をかけてしまったことを悔やみ、戸惑ったように、瞬が力なく首を横に振ってみせる。

「……ごめんなさい。でも、心配しないで。僕が泣いているのは、単に 自分の鈍感さに呆れ果てているだけのことだから。好きな人に――他に好きな人がいるって知ってから、僕がその人をどんなに好きだったのかに気付いたの。僕は、気付くのが遅すぎて――」
一度 顔を俯かせてから顔を上げ、瞬が仲間に笑顔を見せる。
それは、無理に作ったものではなく――瞬は本当に笑っていた。
その笑みは、自嘲と後悔の涙でできた笑みではあったが。
「こんな鈍感で愚図だから――僕こそ、それこそ一生童貞でいることになるのかもしれない」
これまで口にするのを避けていた単語を、瞬が特にぎこちなさもなく自然に口にする。

その時、氷河は、“瞬の好きな人”が誰なのかということを全く考えていなかった。
それが誰であっても、瞬は瞬らしく、瞬がこうあるべきだと信じている愛し方で その人を愛するのだろうことが、氷河には わかっていたから。
二人の視線が出会い、絡み合い、そして逸らせなくなる。
「おまえは、それでも、その人の代わりを探そうとはしないんだな? その人を100年でも待つのか」
「待つよ。100年でも200年でも」

当然のことのようにそう答える自分を、瞬は奇妙だとは思わなかった。
自分は、氷河のように待つことはできないし、そんなにも長い苦しみに耐えることはできない――。
つい数時間前までは そう思っていたはずなのに、実際に氷河の青い瞳に出会ってみたら、待てるような気がして、いつまでも待つことが自然なことのような気がして、瞬は特段の気負いもなく、氷河に『待つ』と答えていた。
100年でも200年でも待つことはできる――容易にできてしまう――と、瞬は今では思っていた。

だが、それが悲しく つらい試練であることに変わりはない。
瞬は、待ちたいから待つのではなく、待つしかないから待ち続けるのであるから。
その つらい事実に気付いた途端に、瞬は、その瞳から、それまでなんとか自分の身体の中に押し込めておくことができていた涙を ひと粒、外の世界に向かって 零し落としてしまっていた。

強く複雑に絡み合ってしまった視線は、瞬自身にも氷河自身にも解くことができない。
氷河の手が瞬の頬に触れてきた時も、瞬は、氷河の瞳から目を逸らすことができないままだった。
視界の端で、氷河の唇が物言いたげに動くのが感じられる。
だが、氷河の唇が実際に何事かを言う前に、瞬の身体は氷河の腕に抱きしめられてしまっていた。

「泣かないでくれ」
信じられないほど近くから、低い呻きにも似た氷河の声が聞こえてくる。
その声は どこか苦しげで、氷河が何かに苦しんでいることは疑いようのない事実だというのに、瞬には氷河の その低い呻きが ひどく心地良く、不思議な甘さを含んでいるようにさえ感じられたのである。
「俺をなじってくれ。100年でも200年でも待つと言ったのに、もう待てそうにない」
「あ……の……」
瞬を混乱させたものは、氷河の苦しみを甘く快いものに感じてしまっている自分自身だったのか、それとも、言葉以上に甘い氷河の腕と胸だったのか、あるいは、『もう待てそうにない』と告げる氷河が 彼の仲間を抱きしめていることだったのか――。

もしかしたら自分は、氷河の“代わりの人”にされかけているのかと疑った瞬は、だが すぐに、そうではないことに気付いた。
氷河は、“代わりの人”を求めたりせず、100年でも200年でも その人を待つと言ったのだ。
彼は、確かに そう言った。
「氷河の好きな人って、もしかして――」
答えを言葉で作る代わりに、瞬を抱きしめている腕に、氷河が更に強い力を込める。
その強い力の中で、瞬は初めて、自分の胸中に生まれた混乱の理由が何であったのかを理解したのだった。
それは、一言で言うなら、『僕は氷河に愛されていると うぬぼれていいの?』という疑念と戸惑いだった。
瞬を抱きしめている氷河の腕が、『うぬぼれていい』と、瞬に訴えてくる。
「あ……」

では、そうなのだ。
氷河が100年でも200年でも待つと言った、彼の恋人は、他の誰かではなかったのだ。
そう確信できた瞬間に、それまで瞬の中にあった『僕は100年でも200年でも氷河を待ち続ける』という つらく厳しい覚悟と決意は、灼熱の太陽が たったひと粒の涙を一瞬で蒸発させてしまうように消え失せてしまっていた。

「僕も、もう待てない……!」
叫んで、両腕で氷河の首にしがみついていく。
瞬は、次の瞬間には、自分が氷河を抱きしめているのか、自分が氷河に抱きしめられているのかが わからない状態になっていた。
絡み合っているのは、視線や言葉だけではない。
自分が氷河から もし今 引き離されることがあったなら、自分の心と身体は おびただしい血を流すことになるだろうと 疑いもなく信じてしまえるほど、瞬は氷河の側にいた。






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