兄君の庇護の手の外に出るのは、瞬王子には初めてのことでした。 それどころか、一人で王宮の外に出るのも初めてのこと。 帝国の宮殿はそれ自体が一つの大きな町のようなものでしたから、瞬王子は、都のどこかで行なわれる公式行事に出席するために、年に一度 その町を出ることがあるかないかくらいだったのです。 その上、兄君に見付からないようにするために、瞬は馬を出すこともできませんでした。 本当に着の身着のままで、瞬王子は宮殿を抜け出すことになったのです。 けれど、瞬王子は恐くはありませんでした。 宮殿を出て北に進めば進むほど、氷河に近付いていることが、瞬王子にはわかっていましたから。 瞬王子は、外の世界には、反乱分子や悪漢・凶漢と呼ばれるような人たちがいることも(知識としては)知っていました。 けれど、瞬王子は護身術には長けていましたので、あまりそういう人たちによって被害を被ることを心配してはいませんでした。 なにしろ、その技は瞬王子が何をさておいても身につけるべきものと、珍しく一輝国王と氷河の意見が一致していて、瞬王子は毎日 剣術弓術柔術と武芸十八般の特訓を受けていたのです。 実際、瞬王子は不埒な者たちに隙を見せるようなことはしませんでした。 それでも、瞬王子の旅は 一見したところでは無防備な子供の一人旅。 瞬王子が身に着けている衣類は、飾りボタンは金や宝石、刺繍糸さえ高価な絹糸で、かなり価値のあるもの。 瞬王子自身も、ある種の人間には とんでもない価値を持つ貴重な商品でした。 世の中には、欲に目がくらんでいるのか、瞬王子に隙のないことに気付けない無謀な輩が少なからずいて、瞬王子はそういった人たちに出会った時には、彼等に丁重にお引き取り願うための立ち回りを演じなければなりませんでした。 そんな立ち回りを幾度か繰り返したあとで、瞬王子は、自分の身なりや姿が、そういった人たちを無謀に駆り立てているのだということに気付き、服の装飾を取り除いたり、泥を塗りつけて顔や白い腕を隠すことを覚えました。 兄君の宮殿を出た瞬王子を驚かせたものは、ですが、そういった悪漢凶漢の類ではなく、善良でありながら生活に困窮し、また虐げられている民が、都を離れるほどに目につくようになったことでした。 もちろんこの国は大帝国ですから、兄君の統治が方向性としては正しいものであっても、取りこぼしはどうしても生じてしまう――ということは、瞬王子も理屈としてはわかっていました。 役人だって欲のある一人の人間、王の命令通りに清廉潔白に働くものとは限らないでしょう。 瞬王子が帝国の歴史を勉強するのに用いた歴史書は、平和な時代の記述は1行だけ。逆に、戦争や内乱、暗殺事件や大獄事件の記述には何十何百のページが割かれていました。 それらの事件がなぜ起こったのかを学べば、人の世・人の心がどんなふうに動くものなのかは、王宮を出たことのない瞬王子にも察しがつきます。 人の心は必ずしも清らかで善良とは限らず、また、たとえ清らかで善良な人間であっても間違いを犯すことはあります。 瞬王子は、そういったことを知識としては知っていました。 ですが、知識として知っていることと、現実にそれを見ることとの間には大きな隔たりがあります。 歴史書を読んでいる時には、そういった人々を救ってやれないことに無力感を感じることはありませんでしたが、現実に そういった不幸を目の当たりにした瞬王子は、まず何よりも我が身の無力を思い知ることになったのです。 帝国の統治者としての兄君の視点。 一地方の支配者としての氷河の視点。 瞬王子は、それより更に下方下流の人々の立場に立った視点を持つ者が国政に関わる必要性を ひしひしと感じることになったのです。 ひたすら氷河に向かって逸っていた瞬王子の心と足は、帝国の現実を見るほどに 知るほどに、重く遅くなっていきました。 まるで瞬王子の心の中に生まれた迷いを天が見通しているかのように、瞬王子が、氷河と北に向かう足を止めざるを得なくなったのは、瞬王子が兄君の宮殿を出てから半月が経った頃。 瞬王子は、帝国を東西に横切っている大河の氾濫に出会ってしまったのです。 それは、瞬王子はもちろん瞬王子の兄君にさえ防ぎようのない自然の力によるものでした。 途轍もなく大きな嵐が帝国の北方を襲い、氾濫を起こした河の流れが、船も橋も すべてを押し流してしまったのです。 船や橋だけではありません。 近隣の畑や人家も甚大な被害を受け、嵐の去った大河の岸には、僅か一日のうちに数百人の被災者から成る難民村ができてしまったのです。 河と言っても、小さな湖ほどの幅のある大河。 しかも、手漕ぎの小舟で渡れるような穏やかな流れに戻るのは、早くても雨季が終わる1ヶ月先というのが、事情通の見立てということでした。 おそらく、氷河は、この大河の向こうにいます。 だというのに、瞬王子は、そこで足止めされることになってしまったのです。 瞬王子が宿のある町まで後戻りするしかないかと考え始めた時でした。 一人の男性が一日でできた難民の群れの中を飛びまわり、怪我人や病人の世話をしているのに、瞬王子が気付いたのは。 瞬王子がその人に目を留めたのは、その人が氷河に似た金色の髪の持ち主だったからでした。 もしや まさかと思いながら彼に近付き、その人の横顔を見て、瞬王子は軽い失望を味わうことになったのですけれど。 彼は、瞳の色も氷河のそれと同じでしたが、氷河よりずっと年上で、その印象も氷河とは全く違っていました。 氷河が 痛みを伴うほど冷たい氷なら、彼は暖かい春の小川。 氷河が鋭い切れ味のナイフなら、彼は優しい花。 それくらい、二人の印象は違っていたのです。 泣きたい気持ちになって その場に立ち尽くしてしまった瞬王子に、彼は、 「君もどこか怪我をしているのかい?」 と気遣わしげに尋ねてきてくれました。 まさか、『あなたが僕の氷河じゃなかったのが悲しくて』とも言えず、瞬は無言で首を横に振ったのです。 「しかし、具合いが悪そうだよ。横になれる場所を作ろうか」 「ありがとうございます。大丈夫です」 お礼を言って、でも、涙が止まらなくて――結局、瞬王子は その人のお世話になることになったのでした。 その人の名はアルビオレさんと言って、瞬王子が逆戻りしようかと考えていた町で、診療所を開いているお医者様ということでした。 河の氾濫で家を失った人や怪我人が多く出たと聞いて、力になれることがあればと思い、この難民村にやってきたのだと、彼は瞬王子に言いました。 河を渡ることができるようになるまで ここで足止めを食うことになり途方に暮れているという、瞬王子の話を聞いて、彼は瞬王子に宿の提供を申し出てくれたのです。 アルビオレ先生の診療所には、親を亡くした子供たちが暮らしている施設が併設されていて、そこで子供たちの世話をしてくれたなら宿代もいらないと、彼は瞬王子に言ってくれたのです。 瞬王子は、アルビオレ先生の厚意に甘えることにしました。 アルビオレ先生の診療所は小さな診療所で、併設の養護施設にはたくさんの子供たちがいました。 診療所にやってくる患者さんもたくさんいましたが、アルビオレ先生はかなり お人好しのお医者様らしく、診療所はあまり儲かっているようには見えませんでした。 ただ、以前アルビオレ先生のお世話になったという人たちが、毎日入れ代わり立ち代わりやってきて、食べ物やお金を少しずつ置いていってくれるので、それで診療所も養護施設の方も何とかやっていけている状態のようでした。 毎日ささやかな善意を持ってやってきてくれる人たちも、決して裕福な暮らしをしているようには見えず、そのことが瞬王子の胸を打ったのです。 瞬王子も、自分の服を飾っていた宝石のボタンや上等の絹のハンカチをアルビオレ先生に渡そうとしたのですが、アルビオレ先生は困ったような顔をして、 「こんな高価なものは受け取れない」 と言って、瞬王子の善意を受け取ってはくれませんでした。 それで、瞬王子は、アルビオレ先生の診療所が古くて小さい訳がわかったような気がしたのです。 瞬王子の宝石という善意は受け取ってもらえませんでしたが、アルビオレ先生は、瞬王子のお手伝いには大層感謝してくれました。 アルビオレ先生の診療所にやってくる怪我人や病人は、瞬王子の兄君が社会資本整備と雇用促進のために各地で進めている公共事業の現場で怪我をしたり病を得たりした人たちがほとんどでした。 そして、アルビオレ先生の養護施設にいる子供たちは、その工事現場の事故等で親をなくした子供たちがほとんど。 ですから、瞬王子は心を込めて彼等の世話をしたのです。 もしかしたら、瞬王子が込める“心”の半分は罪悪感でできていたかもしれません。 兄君が推進している事業が間違っているとは思わない――思えない――のですが、国が豊かになり、多くの人に職とお金をもたらす事業の陰に こんな弊害があったなんて、瞬王子はこれまで考えたことがなかったのです。 瞬王子は、人をどう世話をすればいいのかを、世話をしてもらっていた身として よく心得ていたので、怪我人や子供たちを入浴させるのも着替えさせるのも上手でした。 子供たちには読み書きを教えることもできましたしね。 たくさんの人たちが瞬王子に『ありがとう』と言ってくれる毎日。 そんな経験は初めてのことでしたので、アルビオレ先生の許で過ごす日々は、瞬王子にはとても充実したものだったのです。 |