やがて雨季が終わり、河の流れは元の穏やかさを取り戻しました。
もうどんな小さな舟でも容易に向こう岸に渡ることができるだろうとアルビオレ先生に教えてもらった時、瞬王子は、その知らせを心から喜んでいない自分に衝撃を受けることになりました。
河を渡った向こうには氷河がいるというのに、瞬王子は、一刻も早く河の向こうに行きたいという気持ちになれなかったのです。
瞬王子の心の中には、氷河に会いたいという気持ちと同じくらい、ここにいてアルビオレ先生を頼ってくる人たちの力になりたいという気持ちが、強く確かなものとして生まれ根づいてしまっていました。

瞬王子がすぐにでも旅立つものと思い込んでいたらしいアルビオレ先生に、『これまでどうもありがとう』と言われた時、瞬王子は彼に『もうしばらく ここにいさせてください』とお願いしてしまっていました。
そうして、そのまま、『もう一日』『あと一日』――。
河を渡る決意ができず、瞬王子は その時をずるずると先延ばしにし続けたのです。
神は、そんな瞬王子に焦れたのか、あるいは責めようとしたのか――。
アルビオレ先生の許を去ることができずにいた瞬王子の前に、氷河が姿を見せたのは、河が穏やかな流れを取り戻してから10日が過ぎた頃でした。


その時、瞬王子は、凝った装飾の施された絹の上着ではなく、簡素で動きやすい綿のシャツを一枚着ているだけでした。
年長の子供たちと畑からジャガイモを掘ってきたところだったので、そのシャツも土や埃で汚れていました。
「瞬!」
そんな自分を ためらうことなく抱きしめてくれた氷河の腕の中で、瞬王子の心は千々に乱れたのです。
この人にこうして抱きしめてもらうためになら、自分は、兄の愛情も、自分を頼ってくれる診療所の患者さんたちも、不運な境遇の中で健気に生きている子供たちも、すべて捨ててしまえるかもしれない――と。
それは不幸なことなのか、あるいは、それこそが最高の幸福なのか――。
瞬王子には、それがわかりませんでした。

「瞬、捜したんだ。おまえが一輝の城を出たと知ってからずっと。まさか、こんなところにいたとは……。必ず迎えに行くと言ったのに、どうして信じて待っていてくれなかったんだ……!」
「ご……ごめんなさい……でも――」
大人しく氷河の迎えを待っていられなかった恋人をたしなめる言葉を、氷河の胸の中で聞いている間、おそらく瞬王子は幸せな人間でした。
その幸せの中には 迷いやためらいや悔いが かなりの割合で混じっていましたが、瞬王子は、確かにその時 幸せな人間でした。――その時までは確かに。

「おまえの兄が、おまえを連れ戻した者に この国の半分を与えると言っているそうだ。知っているか」
「あ……はい……」
「あれは、俺に対する妥協案の提示だ。おまえも兄に心配をかけ続けているのは心苦しいだろう。二人で、あの男の許に戻ってやろう」
「え……」
「おまえの兄は、王の言葉は何よりも重いと考えている男だ。おまえを連れて帰ったのが俺でも、約束を守るだろう。いや、俺だからこそ守るだろう。おまえは、こんなところで そんな粗末な服を着ていることはない。おまえは以前のように大きな城の贅沢な部屋で、何不自由のない暮らしができるようになるんだ。俺と一緒に」
「氷河……」

瞬王子が泣きたい気持ちになったのは、ほんの ふた月前までは、それが瞬王子の望むことでもあったからでした。
兄君と氷河に愛され、兄君と氷河を愛し、共に暮らしていられること。
兄君の城を出るまで、瞬王子の望みはそれだけでした。
今はそうではないことが、瞬王子を悲しい気持ちにさせたのです。
あんなに大好きだった氷河に、今も誰よりも大好きな氷河に、
「僕は、氷河と一緒には行けません」
と答えるしかない自分が、瞬王子は悲しくて苦しくて仕方がありませんでした。
でも、それが瞬王子の本心でした。
氷河が帝国の半分を手に入れようとしていることを知らされた時、瞬は氷河と自分の求めるものがまるで違うものだということに気付いてしまったのです。

「僕は、氷河と一緒にいられるなら、贅沢な暮らしなんかできなくてよかったの。僕に不自由な暮らしをさせたくないっていうのが 氷河のプライドなのだということはわかっています。でも、僕は、あの時、氷河にプライドを捨ててほしかった。連れていってほしかったの」
「瞬……おまえは何を――」
「ごめんなさい。きっと変わってしまったのは僕の方なの。兄さんから離れて、氷河から離れて、一人でいろんなものを見て――変わってしまったのは僕の方なの。でも、僕たちの道はもう分かたれてしまって、一つになることはないのだと思います。僕が本当にほしいものを、氷河がわかってくれない限り。僕がほしい国は、そんな国じゃないの。僕は本物の領土なんかほしくないの。僕がほしいものは、ほしかった国は、もう氷河の心の中にはない――」
「瞬……」

氷河は、瞬王子にそう言われて初めて、自分の愚かさに気付きました。
あの一輝が折れた――自分の前に膝を屈した――という事実に浮かれて、氷河は周りの物事が――瞬王子の心さえ――見失ってしまっていたのです。
兄にそんなことをさせて、瞬王子が喜んでいるはずがありません。
自分の世話を自分でできるようになったことを喜んでいた瞬王子が、多くの召使いにかしずかれる贅沢な暮らしを望んでいるはずがありません。
そんなことは、考えるまでもないことだったのに――。

「瞬……俺はおまえのために……」
言いかけた言葉を、氷河は途中で途切らせました。
氷河には、それが嘘だということが わかっていましたから。
「いや、やはり、俺のプライドを守るためだった……」
苦しげに呻くように そう言い 唇を噛みしめた氷河を、瞬王子は、氷河より更に苦しそうな目で見詰め、それから微かに左右に首を振りました。

「さようなら。離れていても、僕は ずっと氷河のことを思っています。でも、僕たちはもう、一緒に生きることはできない」
瞳に涙をためて そう告げる瞬王子の前で、氷河は呆然としてしまったのです。
瞬王子が泣いているのですから、氷河はもちろん、瞬王子を抱きしめてやりたかったのです。
けれど、そうするためには、氷河は彼の野心とプライドを捨てなければなりませんでした。
それらを捨てなければ、氷河は瞬王子を抱きしめることができません。
ですが――それらのものは、国も身分も失ってしまった氷河を これまで生かし続けてくれていたもの、氷河にとっては命より大切なものだったのです。
それらのものがなかったら、氷河は、統治すべき国を失い、統治すべき民を奪われ、他国の王の家来にさせられた時点で、自身の存在意義を見失い、死んでしまっていたでしょう。

それは、氷河が生き続けるために、どうしても捨てられないものでした。
捨てられない自分がわかっていたので、氷河は瞬王子に背を向けることしかできなかったのです。






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