「その人の笑顔を見ると嬉しくなって、その笑顔が俺に向けられでもしたら 天にも昇る心地になる。その人が泣いていると、その人を泣かせたものを憎まずにはいられなくて、一生その人の側にいて、その人を悲しませるもの すべてを俺の手で払いのけてやりたいと思う。こういう心境を何と言うか、おまえに わかるか?」 去年は、梅雨明け宣言が出された2日後に 日本列島は全国的に――梅雨がないはずの北海道までが――大雨に見舞われた。 そのせいかどうか、今年の気象庁は堂々と梅雨明け宣言を出すことをためらっているようである。 気象庁がいかに明言を避けようと、世間の学校が夏休みに入ろうとしているのだから、当然既に梅雨は明けたものと(星矢が勝手に)決めつけていた7月のある日。 気象庁の煮え切らない態度は やはり正しかったのかもしれないと思わずにいられないほど、某白鳥座の聖闘士の半径1メートル圏内は どんよりと空気が澱み、雨が降っていないのが不自然に思えるほど じめついていた。 バックに灰色の雲を背負っている氷河に 突然そんなことを尋ねられた星矢は、当然のことながら、仲間が運んできた重たい梅雨空を 訝ることになったのである。 「おまえ、んなこと本気で訊いてんのか?」 「冗談で訊いているように見えるか」 「……見えない」 梅雨空を背負っているからというわけでもないのだろうが、氷河は正しく真顔だった。 というより、彼の顔は暗く沈んでいた。 到底、その手のことに無知無関心な仲間をからかおうとしている男の顔には見えない。 だが、それが仲間をからかうことを目的とした発言でないというのなら なおさら、星矢には氷河の意図がわからなかったのである。 「でもよ、そういう心境を何て言うかなんて、俺にでもわかるぜ?」 星矢の発言の意味するところは、 『天馬座の聖闘士にもわかるような明々白々なことを、なぜ おまえは あえて 訊いてくるのか』 あるいは、 『おまえはなぜ、その手のことに最も つまびらかでない人間を選んで、そんな質問をするのか』 もっと端的に言えば、 『冗談でないのなら、それは嫌味か。それとも皮肉か』 星矢の疑念は至極尤もなものであり、彼には、氷河に そう尋ねる権利があっただろう。 しかし、氷河は、星矢の疑念を晴らすための いかなる説明も答えも、星矢に与えてはくれなかった。 氷河が欲しいのは、あくまでも自分の質問への星矢の答えであり、彼はその答えを得るための当然の手順を踏むつもりはないらしい。 「もったいぶらずに、さっさと言え!」 日本国の気象庁を見習っているわけではないのだが、結果として気象庁と同じことをしてしまっていた星矢を、氷河は いらいらした口調で怒鳴りつけてきた。 求めることばかりして、与えることをしようとしない氷河に、星矢が全く不快にならなかったといえば、それは嘘になる。 が、氷河が欲しがっているものは さほど高価なものではなく、与えることが困難なものでもなかったので、星矢はとりあえず(親切にも)氷河の求めに応じてやったのだった。 「そりゃあ……恋だろ」 「やっぱりそうか……」 『やっぱり』と言うところを見ると、氷河は その答えを 薄々(?)察してはいたものらしい。 星矢から与えられた答えを聞いた氷河が、がっくりと肩を落とす。 そして、氷河は、そのまま仲間の前で踵を返そうとした。 「おい、恋がどうしたってんだよ!」 氷河は、彼の馬鹿げた質問に親切に答えを返してやった仲間に、『ありがとう』を言わないどころか、彼が その馬鹿げた質問を発するに至った事情の説明すらしないつもりなのか。 星矢は、さすがに、氷河の礼を失した振舞いに明瞭に腹を立てることになったのである。 だが、氷河は、自分が仲間に対して無礼を働いたという事実を 自覚してすらいないようだった。 「何でもない。訊いてみただけだ」 抑揚も力も覇気もない声で そう言うと、彼は、彼が背を向けた相手に右手を軽く上げ、これ以上 この話題を続けるつもりのない意思を星矢に知らせた。 そして、そのまま、夢遊病患者のように ふらふらした足取りでラウンジを出ていく。 氷河の後ろ姿がドアの向こうに消えて見えなくなると、星矢は、その場に居合わせていたにも関わらず、完全に氷河に無視されていた某龍座の聖闘士と顔を見合わせたのである。 「なんだ、あれ」 「『なんだ、あれ』と問われれば、『無礼者だ』と答えるしかないな」 氷河の言動は全く理解できないが、その振舞いが無礼なものであることは、第三者にも認めることのできる確かな事実であるらしい。 その事実に安心して(?)、星矢は、 「ほんと、なんなんだよ!」 氷河の姿を飲み込んだラウンジのドアに もう一度 視線を投じ、忌々しげに舌打ちをした。 |