沙織が東シベリア直行のジェットヘリを用意してくれたのは、その2日後。
正規ルートで行くと、飛行機の乗り換えに時間がかかり、最寄り空港からの地上の移動も風雪のせいでどうなるかわからないというので、沙織はそれをわざわざ瞬のために手配してくれたのだった。

シベリアは冬になろうとしていた。
例年より暖かく、雪も少ないということだったが、日本に比べれば はるかに気温は低い。
本格的に冬になる前に氷河を連れて帰らなければならないと、すっかり冬の色をした空の中を南に向かって去っていくヘリを見送りながら、瞬は固く決意したのである。

瞬が降り立ったのはコホーテク村の東の外れの雪原だった。
最初に出会った村人が、氷河が特に懇意にしているという老人の家を教えてくれたので、瞬はまずその老人の家を訪ねてみたのである。
同じ印欧語として、ロシア語はギリシャ語に似たところもないではなかったので、簡単な会話なら瞬にもどうにか使いこなすことができた。
もっとも、瞬が訪ねた家の老人は、瞬が氷河の名を口にしただけで――瞬が詳しい事情を説明する前に――瞬がシベリアにやってきた用件を察してくれたのだが。

「家にいなかったら、浜に出ているだろうから、海の方に行ってみるといい」
そう言って老人が指し示した方向にひたすらまっすぐ20分ほど進むと、雪原の中に小さな一軒家が姿を現わした。
その建物の影を認めてから、建物のドアの前に辿り着くまで、更に20分。
目標物を隠すものがないので迷うことはなかったが、村から氷河の家までは4、5キロの距離があった。
聖闘士がその気になって駆ければ5分とかからない距離ではあるし、聖闘士になるための修行には、人目につかず 人に迷惑がかからない場所が適していることはわかるのだが、それにしても こんなところに――と、瞬はその一軒家の孤独な風情を見て思ったのである。

家の周囲には防風のための樹木も壁もなく、いかにも頼りなく寂しげなログハウス。
最初に遠目に見た時の印象より、それは実際は はるかに大きく頑丈な造りの建物だったが、瞬はその家の寂しい印象を拭い去ることができなかった。
『それにしても こんなところに』と思ってしまってから、瞬自身の修行地も、シベリアの雪の代わりに砂と海があるだけのようなところだった事実を思い出し、瞬は自分の抱いた感懐を皮肉に小さく苦笑することになったのだが。

「ごめんくださいー。氷河、いないのー」
ドアに施錠のための器具がないので、そうすることに意味はないような気もしたが、とりあえずノックをして氷河の名を呼んでみる。
家の中から応答はなく、瞬が重い木のドアをそっと押すと、それはあっさり開いてしまった。

ドアを開けた その場が この家のダイニングルームを兼ねたリビングルームのようだった。
中央に頑丈そうな樫の木のテーブルが置かれている。
収納に優れているというより、もともと物自体が少ないのだろう。テーブルと暖炉の他には目立った家具も調度もない。
その家の外観は寂しい印象が強かったが、家の中の印象は“寂しい”というより“素っ気ない”だった。
ごちゃごちゃと たくさんの物がある家よりは、氷河には向いた家なのかもしれない。
建物の大きさからして、台所や風呂等の他に2、3室は個室がありそうだった。
泊めてもらうことはできそうだと安堵して 聖衣ボックスをそこに置き、瞬は海に向かったのである。
どちらの方角に海があるのか、村の老人には聞いてこなかったのだが、雪の積もり方と音で察しはついた。






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