「あ……」 子供じみた我儘を氷河に聞かれてしまった――。 その事実に蒼白になり、次に己れの未熟に赤面して、瞬は その顔を伏せたのである。 聖闘士になっても全く成長していない仲間に呆れ果てているのだろう氷河の目を見るのが恐くて。 瞬には それは致命的な失態だったのだが、ヤコフはそう考えてはいないらしく――彼が氷河に向かって発した声と言葉は至極軽快だった。 「瞬って、氷河が言ってた通り、女の子より可愛いな。帰って、いつも側にいたら、襲っちゃいそうだから、氷河は帰るに帰れずにいるのかな?」 「ナマを言うな」 氷河の短い叱責に、ヤコフが口をとがらせ、両の肩をすくめる。 そうしてからヤコフは、また瞬の顔を覗き込んできた。 「瞬。滅茶苦茶暑苦しいって噂の瞬の兄さんも日本に帰ってきてるのか?」 「え……? あ、うん」 『暑苦しい』というのは、氷河が用いた形容詞なのだろうが、その点には言及せず、瞬は『兄が日本に帰ってきている』部分にのみ頷き返した。 瞼を伏せたまま、氷河の視線が 自分にではなくヤコフに向けられていればいいと願いながら。 「ほら、意地を張って帰らずにいると、ライバルに瞬を取られちゃうぞ。氷河はそれでもいいの?」 「ヤコフ!」 「そんなに怒鳴らないでよ。僕は、氷河のために忠告してあげてるんだから。氷河は僕の親切がわからないの?」 「余計な世話だ」 「氷河は感謝の気持ちが足りないと思うなあ」 氷河に怒鳴られても一向にこたえる様子を見せないヤコフの挫けない性格を、瞬はひどく羨ましく思ったのである。 もう泣き虫ではなくなったつもりでシベリアにまで乗り込んできたというのに、氷河の不機嫌な言葉ひとつ、素振りひとつに落ち込んでいる瞬には、ひるむことを知らないヤコフの明るい胆力は、驚嘆すべきものだった。 ヤコフのように軽快に気安く氷河に話しかけていけたなら どんなにいいだろうと思う。 自分が泣き虫の子供だったことを思い出してしまった今の瞬には、それは到底できないことだったが。 今の瞬にできるのは せいぜい、伏せていた顔をあげて、何とか氷河に尋ねてみることだけだった。 「氷河……。氷河が日本に帰ってきてくれないのは、僕のせいなの? 氷河は僕が嫌いだから帰ってきてくれないの?」 ヤコフと氷河のやりとりから察するに、氷河が日本への帰国を渋る理由の一つに、自分という存在があるらしい。 ヤコフはまるで氷河が泣き虫だった子供に好意を抱いているようなことを言っているが、彼の言葉を言葉通りに受け取ることはできなかった瞬は、氷河に恐る恐る お伺いを立ててみた。 そんな瞬に焦れたように、ヤコフが今度は瞬を責めてくる。 「瞬、僕の言ったこと、ちゃんと聞いてた? ここは、『ボクが好きだから帰ってきてくれないの』って訊くところだと思うんだけど」 「そ……そんなこと言えないよ……!」 もし氷河が本当に自分に好意を持っていてくれるのなら、どんなにいいだろうと思う。 だが、昔とは打って変わって素っ気ない氷河の今の態度を思えば、そんな うぬぼれを抱くことは、瞬には とてもではないができることではなかった。 氷河が自分に好意を抱いてくれているのなら どんなにいいだろうとは、心から思うのだが。 「どうして言えないの」 「だ……だって、僕は……」 重ねて尋ねてくるヤコフの前で、瞬はどもり、頬を真っ赤に染めることしかできなかったのである。 そんな瞬を見て、ヤコフはくしゃりと顔を歪めた。 「これは、氷河は帰らないでいるのが正解かも。帰って、いつも側にいたら、瞬が危険だ。なんたって、氷河は瞬が大好きなんだもんね」 「え……」 言葉でヤコフを大人しくさせることを断念したらしい氷河が、無言でヤコフを掴まえようとする。 その手を するりと すり抜けた次の瞬間には、ヤコフはもう氷河の家のドアの前に立っていた。 そして、元気な声で瞬に忠告を垂れ、家の外に飛び出ていく。 「瞬、氷河に襲われないように気をつけてねー!」 「あ……」 小さな台風が駆け抜けていったあとの部屋の中で、瞬は しばし呆然としていたのである。 やがて気を取り直し、ヤコフの言葉の真偽を確かめるくらいのことをしても 「氷河……あの……」 が、瞬のなけなしの勇気は、 「子供の戯れ言を真に受けるな」 という氷河の短い叱責で すぐにしぼんでしまったのだった。 「はい……」 氷河の言う通り、あれは戯れ言にすぎない――のだろう。 胸のときめく、嬉しい戯れ言。 だが、事実ではない。 ただの戯れ言に、それでも瞬は、その日一日を心臓をどきどきさせながら過ごすことができたのである。 『氷河が僕と口をきいてくれないのは、氷河が僕を嫌っているからなんだ』とは考えずに、『氷河は僕を好きだから、僕と口をきいてくれないんだ』と考えていれば、氷河に無視され続けていることも 幸福と感じることができる。 そんな自分を、瞬は、哀れで滑稽で幸せな人間だと思った。 それは幻想の一種にすぎず 事実ではないので、その日一日が終わる頃には、ヤコフが瞬にかけてくれた魔法の力は、空に飛んだしゃぼん玉のように儚く消えてしまっていたのだが。 「氷河、氷河が日本に帰国しないのは、本当は僕のせいなんかじゃないんでしょう? 僕も戦いが嫌いだからわかる。氷河は、戦って 人を傷付けて生きるのは違う生き方をしたいんだよね……。ここにいれば、氷河はそれができる。そういうふうに生きていける」 その夜、魔法の解けた瞬は、就寝前に、現実を見詰めた上で、彼が辿り着いた答えを 氷河に告げてみた。 そして、それでも――氷河の真の望みがわかっていてもなお――消し去ることのできない自分の願いを。 「でも、僕は氷河がいないと寂しいよ……」 それが、偽り飾ることのできない瞬の心。 何か言ってほしいのに、氷河は何も言ってくれない。 氷河は、無言で瞬を見おろしているだけだった。 子供だった頃のように泣きたくなって、瞬は懸命に唇を噛みしめたのである。 「我儘言って、ごめんなさい……。僕、明日にでも沙織さんに連絡して、日本に帰る」 『僕ひとりだけで』――つい口にしてしまいそうになった その言葉を喉の奥に押しやるのが、聖闘士になっても子供のままの瞬できた、唯一の大人らしい対応だった。 |