その日一日を、氷河は、村から離れた一軒家には戻らず、コホーテク村で瞬と過ごした。 ヤコフの家で、ヤコフやヤコフの祖父と食事をとり、村の若者たちと共に 囚われのクマを北の浜に運び、ヤコフの遊び相手を務め――それは なかなかに忙しく充実した一日だったかもしれない。 そして、氷河は、終日、それまでの無愛想の埋め合わせをするべく、瞬に愛想を振りまいてやったのである。 瞬は一向に機嫌を直す気配を見せてくれなかったが、瞬が怒りを長く持続させることのできない人間であることを知っている氷河は、瞬のつんけんした態度に不安を感じることはなかった。 瞬は、基本的に、人のミスや罪を責める人間ではなく、許す人間なのだ。 であればこそ、氷河は、幼い頃から瞬に好意を抱いていた。 機嫌の悪い瞬に 媚びへつらい 美辞麗句を並べ立てる作業は、氷河には実は非常に楽しい作業でもあった。 「氷河、逃げるのはやめたの?」 ヤコフが氷河に そう尋ねてきたのは、多忙で充実した一日が終わりかけた頃。 瞬は、ヤコフの祖父と一緒に、彼の家の裏手にある燻製小屋の見物に出て、席を外している時だった。 氷河が、瞬のために作っていた機嫌取り用の笑顔を消し、小さな子供に頷いてみせる。 「ああ。瞬に実際に会ってしまったら、離れていることに耐えられないようになってしまったようだ。紫龍の奴がこんなものを送りつけてくるから、懸命に自制していたのに」 そう言って、氷河がヤコフに指し示したのは、沙織が送ってよこした携帯電話のディスプレイ。 『瞬が可愛くなって帰ってきているぞ』というタイトルのメールに添付されていた、瞬の笑顔の写真だった。 このメールを受け取り、タイトルに偽りなしの添付ファイルを見た時、氷河は、それでなくても乗り気でなかった日本への帰国に、明確な危機感を抱くことになったのである。 仲間と離れて過ごした6年間は、幼い子供だったなら 一種の擬似恋愛で済んでいただろう同性の瞬に向かった氷河の好意を、見事な“恋”に熟成させていた。 コホーテク村はもちろん、モスクワやペテルスブルク、 それらのどの国でも、どの場所ででも、氷河は、“瞬より可愛い女の子”に出会うことがなかった。 『日本には、瞬より可愛い女の子はいないのか』という氷河の疑念は、6年の時を経て、『この世界に瞬より可愛い女の子はいない』という確信に変わっていた。 同時に、氷河は、6年の時間をかけて、『男子が男子に恋をするのは、どうやらマイノリティの嗜好らしい』という知識をも身につけることになった。 その知識が、日本への帰国を 氷河にためらわせていたのである。 だが――。 「だが、嫌われることを恐れて瞬を避けているより、瞬が俺を好きになってくれるよう努める方が建設的だ。逃げているのは、やはり俺の性に合わない。瞬が、この地上に存在する誰より可愛いというのは変えようのない事実なんだ。事実は受け入れるしかない」 「うん。その方が ややこしくなくていいよね。でも、僕が聞いてたのより、瞬はかなり強くなってるみたいだけど、氷河、大丈夫なの?」 「瞬より俺の方が強い」 「それはどうかなあ……」 わざとらしく疑ってみせるヤコフを、氷河が軽く睨みつける。 ヤコフは氷河の睥睨に臆した様子は見せず――むしろ、ヤコフは氷河の睥睨を楽しんでいるようだった。 笑顔で、 「でも、頑張って、ものにしてね」 と、氷河を激励してくる。 小さな子供の激励に「ああ」と短く頷いてから、氷河は、小さな友人の前で溜め息をひとつ洩らすことになったのである。 「しかし、ヤコフ。おまえは少々 マセすぎだぞ」 氷河の指摘に、ヤコフは二度ほど首を横に振った。 「そんなことないよ。氷河は、僕の歳の頃には もう瞬に目をつけてたんでしょ? 僕にはまだ好きな子はいないし、だいいち僕は、いくら可愛くても男の子を好きになるヘンタイじゃないもの」 「この!」 「実際に瞬を見るまでは そう思ってたっていうだけのことだよ。今はちゃんと、あれじゃあ氷河が好きになっても仕方ないなーって思ってる。顔もだけどさ、瞬って、なんか、やることなすこと素直で可愛いくて、全然嘘をつけない子供みたいなんだもの」 素直で可愛くて嘘をつけない(はずの)子供にそう言われてしまっては、瞬の“大人”としての立場がない。 氷河は胸中で瞬に同情したのだが、それこそが瞬の最大の美点であり、魅力でもあることを、氷河は知っていた。 「それに、瞬は奥手というか、純というか、かなり鈍感みたいだよ。氷河、ほんとに大丈夫なの」 瞬よりは大人のヤコフが、同輩の氷河の恋を案じてくれる。 氷河は、この利発で小さな友人に、にやりと いやらしく笑ってみせた。 「そこに つけ入る隙がある」 ヤコフはそんな氷河に、 「僕が心配する必要はなさそうだね」 という、絶大な信頼と期待と、そして祝福の言葉を賜与してくれたのだった。 |