腰の低い家令――彼は、館の主の倍以上 歳を重ねているようだった――が、瞬を案内してくれた部屋は、おそらく この館の中ではかなり上等の部屋だった。 夏の短い北の国で、南に面した部屋というだけでも、そこが貴人賓客のための部屋だということがわかる。 もっとも、それとても 館の主の指示ではなく、親切な家令の判断だということがわかっていたので、瞬が この館の主に特に強い感謝の念を抱くことはなかったのだが。 短いからこそ、貴重で愛すべき季節。 瞬が案内された部屋のバルコニーから見える館の周囲の野や山は、緑色の宝石で描かれた絵のように鮮やかで美しかった。 小さな館には不釣合いなほど広い庭は ただの更地にすぎなかったが、その庭の向こうに続く風景は、野も農耕地も林や山も素晴らしく美しく、乾燥地帯にある聖域では望みようもないみずみずしさをたたえていた。 この領地の主は彼の美しい領地をすら愛していないのかと思うと、美しい風景に向けられた瞬の感嘆の溜め息は、やがて 少々寂しい吐息へと変わることになったのである。 「そんなに戦いが好きなら、もっと大きな城を手に入れて、強大な軍を持てばいいのに」 どう考えても、この小さな館の主人が強大な軍を持っているとは思えない。 いったい彼はどういう戦いを好み、望んでいるのかと、瞬は、鮮やかで巨大な緑色の絵の前で疑うことになった。 その戦いの中心には一騎当千の聖闘士が立つとはいえ、聖域も、実際に戦いに際したときには組織として動く。 個人の力には限界というものがあるのだ。 その戦士が どんなに強くても。 「強い武人や戦士の評判を聞いたら、一人で出掛けていって、一騎打ちを申し込むのかな……?」 彼が愛する“戦い”とは、そういう戦いなのだろうか。 だとしたら、彼は彼の戦いの相手を憎んではいないことになる。 彼は、戦いに勝利することで何らかのものを手に入れようとすることはないと、アテナは言っていた。 憎しみや欲心の介在しない戦いなら、やめさせることも容易なのではないか――と、瞬は考えた――期待した。 そんな瞬の独り言を聞きとめたらしい家令が、部屋の家具を覆っていた掛け布を取り除いていた手を止めて、瞬の誤謬を正してくる。 「大きな軍を持つ国と戦う時には、兵を集めます」 「それは兵を雇うということ?」 「いいえ。勝手に兵が集まってくるのです。ご領主様が戦いを始めるという触れを出すと、近隣の領主や国王が協力を申し出てきます。王たちが彼等の軍を率いて、この館に集結します」 「要請しなくても?」 だから、この館の庭は広く、花すらも咲いていないのかと、瞬は思うことになった。 初老の家令が、控えめに頷いてくる。 「うちのご領主様の指示通りに動けば、その軍は必ず勝つのです。しかも、ご領主様は、戦いに勝っても何も求めない。求めるのは、せいぜい敵軍の最も強い者との一対一の戦いだけです。ご領主様に付き従った者たちは、本来ならご領主様のものになっていたはずの財や土地を 好きに手に入れることができる。ご領主様は直属の兵は持ってはいませんが、それは言ってみれば、この辺りの多くの領主や国王が、うちのご領主の家来のようなものだからです。ご領主様と戦って負けた者たちも、次の戦いからはご領主様の配下につくことが多い。もちろん、敵にまわる者もないわけではありませんが」 「彼の指示通りに動けば必ず勝つ? この辺りの領主たちは皆、そう信じているの?」 それはどういう信仰なのか。 神ならぬ身の人間に、“必ず”ということがあるはずがない。 にもかかわらず、敵だった者たちにまで そういう信頼を抱かせる氷河の戦い振りに、瞬は些少でない興味を持った。 「信じるも信じないも、ご領主様は これまで一度も負けたことがありませんから。兵を指揮する戦いでも、一対一の戦いでも。規模の大小はありますが、これまでの百度を下らない戦い すべてで、ご領主様は勝利をおさめてきました」 「負けたことがない? 一度も?」 疑うわけではないが、それは瞬には にわかには信じ難いことだった。 なにしろ、瞬が氷河に抱いた第一印象は、“異様に綺麗な、ただの優男”だったのである。 が、氷河の家令は、疑念を含んだ瞬の言葉に いとも気軽に首肯してみせた。 「ご領主様には、戦いの女神アテナの隠し子なのではないかという噂もあるくらいです」 「アテナは処女神です……!」 「もちろん、証拠も根拠もない ただの噂――冗談ですよ。本当にそう信じられているわけではない。私は、あの噂は、ご領主様が 粗暴なアレスの子ではなく、知恵の女神であるアテナの子と言われているところに意味があるのだと思っています」 「つまり、彼は、力で押す戦いではなく、知略を用いた戦いをするということ?」 「ご領主様は、戦いということに関して、天賦の才をお持ちなのです。そういうご領主様の許に 聖域からアテナの使者がいらしたというので、この辺りの町村では、あの噂は真実なのではないかと囁かれ始めているそうですよ。もっとも、そういう噂に興じている者たちが、アテナの使者がこんなに可愛らしい方だと知ったら、彼等は これから どういう噂を語ればいいのかを悩むことになるでしょうが」 そう言う彼は、瞬の姿をその視界に映して、実に楽しそうだった。 彼は――彼もまた彼の主人同様――今日この館には、戦いの女神の使者にふさわしい豪傑がやってくるものと信じていたのかもしれない。 そして、彼は、彼の主人とは異なり、そんな事態に不安を抱いていたのだろう。 神が神以上の才を持つ人間を、『その思いあがりを罰する』という大義によって 不遇の身に落とすことは よくあることだったから。 とてもではないが豪傑とは言い難い華奢な子供の来訪に、彼は安堵したのかもしれなかった。 だから、彼は、自分にこれほど優しく親切なのかもしれないと、瞬は思ったのである。 それもこれも、彼が彼の主人の身を案じればこそ。 瞬は、アテナの使者を どんな力も持たない子供と侮っているらしい彼を責める気にはなれなかった。 代わりに、話題を違う方向に逸らす。 「彼は、10代の頃からずっと戦い続けてきたと言っていましたが、それは本当?」 主人思いの家令は、瞬にそう尋ねられると、それまで その顔に絶やすことなく浮かべていた微笑を、初めて ふいに消し去った。 暗い瞳で、瞬に頷いてくる。 「母君が亡くなってからずっと、ご領主様は戦ってばかりです」 「母君が亡くなってから?」 「はい」 10年前に彼の身に起こった出来事というのは、どうやら 瞬は そう察して、胸に 明るい高鳴りを覚えたのである。 今は 戦いだけを愛している男が、戦いだけを愛するようになる前の 人間らしいエピソードに触れられることを期待して。 「あの人のお母様なら、とても お綺麗な方だったんでしょうね」 「それはもう、お美しくて、お優しくて、この館に今も残る家令や兵は、奥方様に特に恩義を感じている者たちばかりです。可愛かった頃の若様を知っている者ばかり。ですが、我々も歳をとりました。兵としてはもちろん、下男としても、私は お役に立てなくなりつつある。若様は、ご自分の身のまわりのことには全く頓着しない方で、代わりの若い者を雇い入れようともしない。ですから、我々は、若様の将来が心配で――」 「あなたは彼が好きなの? 彼は、戦い以外のものを愛さない人物だと聞いてきましたが」 親切な家令の『ご領主様』が『若様』になった。 彼は、氷河が小さな子供だった頃からずっと――おそらくは、優しく美しい母親と幸福な少年期を過ごしていた頃からずっと――彼の主人を見守り続けてきたのだろう。 そして、老いた自分が彼に仕えることができなくなった後の主人の身を案じている。 彼が、彼の若い主人を愛しているのは、疑いようのない事実だった。 そう確信できるからこそ、瞬は、主人のことを これほど親身に心配している家臣すらも、この館の主は愛していないのだろうかと、そのことを残念に思ったのである。 「愛していないということは憎んでいることと同義ではありませんし――今の若様が戦いしか愛していないような人間になってしまったのも、一つの愛を失った衝撃が大きすぎたゆえのこと。若様は我々家臣に決して理不尽なことはなさらない方で、ですから我々は若様に従うのです」 老いた家令はそう言って、少し寂しげに笑った。 憎まれているのではないにしても、愛してくれているわけでもない彼の主人を、それでも彼は 心から愛しているようだった。 戦いしか愛していない この館の主は、美しい領地だけでなく、忠義な家臣にも恵まれているらしい。 彼は若い頃には 強くたくましい兵だったのだろう。 今は老いて かさついた手の持ち主となっている彼を、瞬は、氷河の絵のように美しい緑の領地よりも美しいと思った。 その美しい家令が、彼の主人に対するアテナの使者の心象を悪くしないよう気遣ったのか、氷河の振舞いを弁護してくる。 「ぶっきらぼうに振舞っておいでですが、若様はアテナのお使いの方に敬意は払っているのです。気に入らない客なら、私の裁量に任せたりせず、日の射さない物置部屋にでも案内しろと命じるはずですから」 瞬は、彼の説明を、彼のために信じることにした。 「ここはとても気持ちのいい部屋です。ありがとう」 「とんでもありません。小さな館で、使用人も少なくて――快適にお過ごしいただければいいのですが」 多分快適に過ごせるだろう。 館の主の不機嫌な顔を見ずにいられたなら。 ――と、主人思いの家令に本音を言ってしまうわけにもいかず、瞬はベランダの向こうに広がる緑の絵に視線を転じた。 「この館を最初に見た時に、言ってみれば よそ者である僕を拒絶している感じが全くなくて、少し不思議な気持ちになったんですが、それは あの方のお母様のお心が、今も この館を包んでいるからなのかもしれませんね」 「そうかもしれません。大きな城に移った方が何かと便がいいのに、若様がこの館を出ようとしないのも、ここが母君と暮らした思い出のある館だからですし」 「ああ、それで――」 戦いしか愛していない男は、だが、戦いしか愛したことのない男というわけではないらしい。 もしかしたら、今もそうなのかもしれなかった。 戦い以外の愛する対象が 今この地上には存在しない――失われてしまった――というだけで。 そう考えると、この館の主人の愛想のない無礼な態度も 愛し哀れむべきものであるような気がしてくる。 氷河の不機嫌で綺麗な面差しと瞳を脳裏に思い浮かべ、瞬は ひどく切ない気持ちになった。 |