翌日、瞬が、
「お母様がとても美しい方だったと聞きました」
と氷河に告げると、彼は いわく言い難い表情を瞬に向けてきた。
好戦的でも挑戦的でもない表情。
怒っているようでも悲しんでいるようでもない表情。
突然 死んだ人の話を持ち出されたことを彼が喜ぶはずはないのだが――実際、彼の口許はきつく引き結ばれていたのだが――彼の青い瞳が妙に明るくなった――のだ。
人の唇は偽りの言葉を吐き出すことがあっても、瞳は嘘をつけないものなのだとしたら、彼はおそらく喜んでいる――。
そう判断せざるを得ないほど、彼の瞳は明るく輝いていた。

もしかしたら、この館には、主人の気持ちをおもんぱかって、彼の母親の話題を出す者がいなかったのかもしれない。
だが、実は、彼の中には、誰かに――あるいは、誰かと――母を語りたいという気持ちがあったのかもしれない。
十中八九 不機嫌に拒絶されるだろうという予想に反して、氷河は驚くほど素直に瞬の持ち出した話題に応えてきた。
「この北の国の短い夏に咲く白い薔薇の花のように」
あまりに素直な氷河の答えに、瞬は少々面食らい、一瞬 返す言葉を失ったのである。
もしかしたら、彼の心は、母を失った時のまま――美しい母を慕い愛する子供のままでいるのではないかとさえ、瞬は思った。

「昨日、僕を部屋に案内してくれた家令の男性もそう言っていました。美しくて、優しくて、この館の人たちは皆、お母様を慕っていた。そのお母様を失ってから、あなたは変わってしまったと」
「……」
瞬の告げた言葉を肯定すべきか否定すべきかを、氷河はしばし迷ったようだった。
だが、彼は、彼の母への愛を否定することはではなかったらしい。
母のことを、誰かに語りたかったらしい。
短い逡巡のあと、彼はゆっくり頷いた。

「母を失った喪失感は大きかった。あんな思いは二度と経験したくない。だから、俺は、母を失った時、これからは決して失われないものだけを愛そうと思ったんだ。いくら考えても、それは戦いだけだった」
低く つらそうな声で そう言い、氷河が瞬を見詰めてくる。
明るい青色だった彼の瞳は、今は灰色のカーテンがおりたように沈んだ色に変わっている。
それは、『他に永遠に失われないものがあるのなら教えてくれ』と、瞬に訴えかけているようだった。

永遠に失われないもの――戦い以外の永遠なるもの。
それを氷河に知らせれば、彼はすぐにでも 戦い以外の何かを愛する人間になってくれるのだと、瞬は確信したのである。
だが、それが何なのかが、瞬にはわからなかった。

瞬が永遠のものであってほしいと願っている平和は、他でもない戦いによって破られることが多かった。
人の命はもちろん、いかなる権力、武力、財宝、名誉、この世界ですら、永遠のものではない。
神ですら消えることはある。
戦いは、確かに――少なくとも、人類が地上に現われた時から絶えたことのない永遠のものだった。
だから、聖域は存続している。
だから、聖闘士は戦い続けているのだ。

戦いが永遠のものであるのなら、人が人を愛する心も永遠のものだろうと、瞬は思っていた。
戦いだけが永遠のものであるならば、人は打ち続く戦いの中で とうに滅んでしまっていただろうと。
だが、人は 愛を愛することはできない。
氷河は、彼の母と母の愛を失い、自分の愛を向ける対象を失ったことで、戦いを始めた。
氷河が求めているのは、彼の愛を向ける対象が永遠であることなのだ。
そして、氷河は、愛を向ける永遠なるものとして、戦い以外の答えを見付け出せなかったのだろう。
氷河の辿り着いた答えが悲しく切なくて、瞬は胸が締めつけられた。
永遠なるもの――今は自分も知らないそれを、氷河のために必ず見付け出さなければならない、必ず見付け出すのだと、瞬は決意した。

「氷河は恋をしたことがないんですか。奥方を迎えて、あなたの力や その美貌を子孫に受け継がせることを考えたことはないの? 一人の人間の命は有限だけど、血脈として考えたら、それで永遠を望むことはできるかもしれないでしょう?」
「ないな。子孫? それすらも、いつかは消える」
「氷河には恋人はいないんですか」
「おまえにはいるのか」
「い……いませんけど……」
「いなくても困らないからな」

『必要性がない』という あまりにも無味乾燥な理由で、氷河が瞬の思いつきを却下する。
確かに瞬自身、恋人がいないことで不自由を感じたことはなかったが、それは、自分が まだそういう人を必要としない子供だからなのだと思っていた。
あるいは、自分が、戦うことが義務である聖闘士だからなのだと。
しかし、氷河はそうではない。
瞬は食い下がった。

「でも、たとえば……あの……大人の人は欲望を持つものだと聞いています。それは、望むと望まぬとに かかわらず、身の内から生まれてくるもので、意思の力では抑え難いものだと。氷河は――あの、そういうものを感じたことはないの」
確かめなければならないことを確かめているだけだと思うのに、なぜか 頬に血が集まってくる。
なんとか その質問を最後まで言い終えてから、瞬は我知らず両の瞼を伏せることになった。
まさか そんな瞬を揶揄しようと考えたわけではないだろうが、瞬の質問に対する氷河の答えは、瞬には想定外のものだった。
彼は、
「強い敵と戦っている時には、心身が高揚し、興奮することはあるな。それで肉体の欲望は発散できる」
と、答えてきたのだ。

「そ……そんなものなの……?」
虚を衝かれた思いで、瞬は氷河に反問することになった。
そして、この人の心身が高揚し興奮したら どんなふうになるのだろうと考え、こんな時にそんなことを考えている自分に戸惑い驚き恥じ入る。
氷河は、永遠に愛することができる何かを求めているのだ。
刹那的な欲望など、彼が最も欲していないもののはず。
そもそも彼の母の話から始まったことが、どうしてこんな話になっているのかと、瞬はそんな話を俎上に載せる不首尾をしでかしてしまった自分に、困惑し呆れていた。

それは、氷河も同様だったらしい。
やはり呆れ困惑したような声で、氷河が瞬に尋ねてくる。
「おまえは、俺に女をあてがうために来たのか。俺の心がほしいというのは、そういうことか」
瞬は、急いで首を横に振り、彼の言葉を否定した。
「い……いいえ! 僕はただ、氷河に 戦い以外のものを愛する人になってほしいと思っているだけです。そうしたら、氷河はどんなに幸せになれるだろうかと思うだけ。そんな氷河を見てみたいと……あの……」
『そんな氷河を見てみたい』は、アテナの指示にはなかったことである。
自分は本当に何を口走っているのかと、瞬は、自分の混乱振りに泣きたい気持ちになった。






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