母を知らない瞬には、たとえ亡くなった人であっても、母親に向けられる氷河の強い思慕の念は 憧憬に値するものだった。 これほど深く人を愛し求めることのできる人が、“永遠”を求める必要などあるだろうかとさえ思う。 彼なら、一瞬の思いを永遠の思いにすることも 容易にできてしまうだろう。 母を慕い愛したことを悔やんでいないのなら、彼は“永遠”など求めるべきではないのだ。 愛するものを失うことを恐れる氷河の気持ちは わからないでもないのだが。 彼が実際に この地上に存在し 手応えのあるものを愛したいと望む気持ちもわからないではないのだが。 瞬は、『それでも』と思わずにはいられなかった。 それでも、彼の心は戦いなどという悲しいものに向けられるべきではない――と。 「氷河は軍の指揮だけでなく、一対一の戦いでも 思い悩み、氷河を見詰めていることしかできない数日を過ごしたあとで、瞬が氷河にそう言ったのは、勝利しか知らない男が敗北を経験したら、その心に何らかの変化が生じるのではないかと思ったからだった。 「ははは」 わざと氷河を侮る言葉を用いた瞬の挑発を、しかし、氷河は一笑に付してくれた。 子供のいきがりになど付き合ってはいられないと言わんばかりの氷河の空笑いに、瞬もまた、表情には出さずに乾いた微笑で応えることになったのである。 仮にもアテナの聖闘士である者に、普通の人間である彼が勝てるわけがない。 わかりきった勝負に彼を誘い、彼に敗北の味を味わわせることは、あまり楽しい作業ではない。 それでも瞬は氷河を挑発し続けなければならず、そんな自分を気の毒な人間だと、瞬は思っていた。 「戦いの女神の命を受けた者に負けるのが恐いんですか? 勝てない相手と戦うのを避けていたら、確かに常勝の将、負け知らずの闘士でいられますね」 氷河の負けを決めてかかっているような瞬の物言いに、氷河がさすがに むっとした顔になる。 「こっちは、アテナの使いがいるせいで、戦いを求めて外に出ることもできず苛立っているんだ。おまえの馬鹿げた冗談にまで付き合ってやる親切心はない」 「あなたが僕に勝てたら、僕は今日のうちに この館を出ていってあげますよ」 “馬鹿げた冗談”に一度だけ我慢して付き合えば 厄介払いができる。 当然、氷河は喜んでアテナの使者の挑発に乗ってくるだろうと瞬は思っていたのだが、氷河はよほど“馬鹿げた冗談”が嫌いなのか、瞬の要求を重ねて拒否してきた。 「俺は、勝てるとわかりきっている者とは戦わない。戦っても詰まらないからな」 そうまで言われると、瞬も実力行使に出るしかなくなる。 できれば聖闘士としての力は使わず、剣か槍の得物を選び、技術の次元で勝負をつけてしまいたかったのだが、氷河の頑なな態度は、瞬に“力”を使うことを余儀なくさせた。 「楽しませてあげますよ」 「どうやって」 「こうやって」 言うなり、氷河の周囲の空気を操って、彼の身体の動きを封じる。 氷河は、一瞬、なぜ自分が身動きできなくなっているのかがわからない――というような表情を浮かべた。 驚いたことに一瞬だけ。 彼は、すぐに戦いに臨んだ者の目になった。 だからといって、普通の人間が聖闘士の作り出した気流を はねのけることなどできるわけもなかったのだが。 「アテナの加護を受けていない普通の人間には、逃れられません。そのうち、息もできなくなりますよ。死にたくなかったら、負けを認めてください。あなたより強い人間は、この地上に五万といるんです。戦いだけを求めていたら、あなたはいつか その者に倒されます。あなたが生まれて生きた証を、この世界に何ひとつ残せないまま」 「戦いをやめても、人は この世界に何も――」 『何も残すことはできない』と、氷河は言おうとしたのだろう。 なぜ彼が その言葉を最後まで言ってしまわなかったのか、その理由が 瞬にはわからなかった。 場所が室内ということもあって、瞬の作り出す気流の力は微弱で、まだ彼の肩から下の自由をしか奪っていなかったというのに。 だが、瞬が止めなければ、瞬の小宇宙によって生まれた気流は勝手に その渦を大きくしていく。 まもなく氷河は、上方に向かって力を増していく気流によって、その呼吸が困難になってきたようだった。 「氷河。早く負けを認めて」 瞬の敗北の勧告を、氷河がその目で拒絶する。 瞬に向けられた彼の目は、既に、瞬を侮った男のそれではなく、瞬を敵と見なしつつある男のそれになりかけていた。 氷河にそんな目を向けられるのは つらい。 結局、絶対的に不利な状況にありながら あくまでも挑むように瞬を凝視し続ける氷河の眼差しに 先に負けてしまったのは、瞬の方だった。 「氷河……氷河、意地を張らないで」 それ以上 氷河の身体を痛めつけることに耐えられなくなった瞬が、命を奪うことなど思いもよらない人の動きを封じていた気流を止める。 彼に倒れることも許さずにいた気流が消え去ると、氷河は 崩れるように その場に片膝をつき、懸命に肺に酸素を取り込み始めた。 「氷河……氷河、ごめんなさい。大丈夫? ぼ……僕、こんなにひどくするつもりは――」 おろおろして氷河の許に駆け寄った瞬の手首を、ふいに氷河の手が掴んでくる。 「確かに、俺には勝てない相手かもしれない。楽しめそうだ。庭に出よう」 とても弱った人間のそれとは言えない力が、彼の手には込められていた。 いったい彼はどういう気力と回復力の持ち主なのかと、氷河のその不敵な言葉に 瞬は驚嘆し、同時に、少しばかりの気後れを感じたのである。 そして、瞬はふと、彼が戦いを求めることは、彼が死を求めていることと同義なのかもしれないという思いに囚われたのだった。 もっとも、瞬を“戦っても詰まらない相手”ではないと認めてくれた氷河は、館の庭に出て瞬と正面から対峙した時には、ひどく楽しそうな目を瞬に向けてきたが。 生きていることを楽しんでいる人間の目を、彼は瞬に向けてきた。 結局、アテナの聖闘士と 徒手で戦うことになった氷河は、同じ轍を二度と踏まなかった。 ひとつところに留まってさえいなければ、瞬の気流に捕えられることはないことに、氷河は気付いたらしい。 彼は、そういう技を使う相手にふさわしい戦い方で 瞬に相対してきた。 そうなると、瞬も、体技で氷河の攻撃に対抗することしかできなくなり、そういう戦い方では、二人の力はほぼ互角だった。 敏捷性、跳躍力では瞬の方が勝っていたが、膂力は圧倒的に氷河の方に分がある。 そんな二人の戦いは、一向に決着がつかなかった。 聖闘士でもない ただの人間が、仮にもアテナの聖闘士である者に伍する力を有していることに、瞬は驚嘆したのである。 戦いだけを愛していると言うだけあって、氷河は強かった。 それが一向に勝負のつかない戦いだったせいか、瞬は、人と戦っていることを、生まれて初めて、『楽しい』と感じていた。 「おまえ、力任せの豪傑気取りより、はるかに強いぞ」 氷河が、瞬の手刀をかわしながら、弾んだ声で言ってくる。 「氷河も。楽器でも奏でて、女性に囲まれているのが最も似つかわしい姿をしているのに」 すかさず攻撃に移った氷河の拳を 後方に飛びすさって避けながら、瞬も言い返した。 「そんな へらず口を叩けるということは、まだまだ力が残っているということか」 「少しも力を消耗している気がしないの。逆に力が増してきてる。こんなの初めて」 「奇遇だ。俺も全く同じ状態だ」 瞬には、それは、本当に初めての経験だった。 氷河より はるかに弱い敵と戦った時でも、瞬の心身は尋常でなく疲れるのが常だったのに、氷河と拳を交えていると、逆に力がみなぎってくる。 このまま二人で永遠に戦い続けていたいとさえ、瞬は思った。 もっとも、瞬のその夢想は、あの親切な家令の、 「お二人とも、いい加減にしてください。せっかく用意した晩餐を無駄にするつもりですか!」 の一声で、あえなく破られてしまったのだが。 |