僕が氷河に会ったのも図書館だった。
場所は日本。
僕は、飲めば若返る“若水”と 死を得ることのできる“死水”の伝説が日本にあることを知って、それを調べるために極東の島国にやってきていた。
氷河は生粋の日本人じゃなく、日本人のお父さんとロシア人のお母さんとの間に生まれたハーフで、生まれたのもロシアだと言っていた(これは、あとになってから氷河に聞いたことだけど)。

僕と氷河は、ある図書館の書棚にあったニコライ・ネフスキーの著作『月と不死』に同時に手を伸ばして――それが知り合ったきっかけ。
ちなみに、ニコライ・ネフスキーは、日本の民俗学や言語学に膨大な研究成果を残したロシアの東洋学者だ。
日本で15年に及ぶ研究生活を続けたあと、ロシアに帰国し、大粛清時代に国家反逆罪期で銃殺されている。
あとになって彼の名誉は回復されたけど、ロシアでは彼の著作は手に入れにくいのなのかもしれない。

「そんなに綺麗だと、やっぱり歳をとりたくないものですか?」
「君こそ」
僕は、日本語で尋ね、彼も日本語で答えてきた。
僕が氷河に話しかけていったのは、その本を先に読む権利を僕に譲ってほしかったから。
僕は日本国籍を持っていないし、図書館に提示できる住所もホテルの住所くらいしかないから、図書館で本の貸し出しを受けられないんだ。
『旅行者なので』と僕が言うと、氷河は その本を先に読む権利を僕に譲ってくれた。
手持ちの携帯スキャナーで必要なページをスキャンするには1時間あれば十分。
だから、1時間後にラウンジで会おうと約束して僕たちは別れた――はずだったんだけど。

氷河はネフスキーの別の著作を手に取って、僕がスキャニングしている席の隣りに陣取り、その本を読み始めたんだ。
僕が作業を終えて『月と不死』を氷河に渡すと、彼は その本と彼が読んでいた本を二冊とも書棚に戻して、帰り支度を始めていた僕のところにとってかえしてきた。
そうして、
「一緒にお茶でもどうですか」
と、僕を誘ってきた。
「ネフスキーに興味を持つような人と話をしたいから」って言って。
そして、僕は、
「僕も」
って、氷河に答えたんだ。

僕は、氷河の外見が綺麗だから 彼に惹かれたんじゃないと思う。
ただ彼は 本当に不思議な――懐かしい色の瞳の持ち主で、『懐かしい』なんていう感情、初めて経験する感情だったから、このまま別れてしまいたくないって、僕は思ったんだ。
多分 僕は、出会った その瞬間から氷河に惹かれていた。
その日以降、僕は ほとんど毎日のように氷河と会うことになったんだけど、一緒にいる時間を重ねるほどに、僕の心は氷河に傾いていった。

僕は、おそらく、氷河の上に一つの幻想を重ね見ていたんだ。
氷河が 生きている人間とも思えないほど綺麗で、氷河を見ていると、僕の中には とても懐かしい気持ちが生まれてくる。
しかも、彼は僕と同じように不死に興味を持っている。
だから、僕は、もしかしたら彼は僕と同じ生き物なんじゃないかって夢想したんだ。

でも、彼は、僕なんかと違って、とても確かな身分と経歴の持ち主だった。
両親の名、生まれた場所、正確な生年月日もわかっていて、国籍もロシアと明白で明確。
ご両親は既に亡くなっているそうだけど、ロシアにはお母さんの親族が、日本にはお父さんの親族がいるそうだった。
氷河の亡くなったお父さんはネフスキーとは逆にロシアの民俗学を研究するためにロシアに渡った日本人で、ロシア語での著作もあるらしい。
しかも、氷河は 国費で日本の大学に留学しているという、国家が保証する身分を持つ身。
自分の身分や住所を証明することができなくて図書館の本を借りることもできない僕とは大違いの、確かな出自を持つ――つまりは、普通の人間だった。
「氷河が不死に興味を持ったのはなぜ?」
と、僕が訊いたら、
「不死ならざる人間が不死に興味を持つのは当然のことだろう」
という答えが返ってきた。
要するに、氷河は、僕とは真逆の動機で不死に興味を持ったということだ。

氷河は僕の同族ではないということがわかってからも、僕は氷河に懐かしさを感じ続けた――“特別な感じ”を感じ続けた。
その思いは消えなかった。
氷河と一緒にいる時間は心地良く、温かい。
だから、僕は、氷河から連絡を受けるたび、喜んで彼の待つ場所に飛んでいった。

僕は物を食べなくても平気だけど、食べたり飲んだりする真似はできる
不要なものを体内に取り入れるわけだから、飲食したあとは すごく気分が悪くなって、時には立っていることが困難になったりもする。
それは、氷河と一緒にカフェで飲む たった一杯の お茶ですら例外じゃなかった。
食事なんかしたら、その害毒の効果は覿面。
でも、氷河と一緒にいるためなんだもの、僕は死ぬ思い・・・・で その不快を我慢した。

僕が、馬鹿みたいに力持ちなこと。
自動車より早く走れること。
三段跳びの世界記録保持者が三度に分けて跳ぶ距離を、たった一度で跳べること。
水の中に何時間いても平気なこと。
刃物で刺されても、銃弾を撃ち込まれて死なないこと。
そんなことを全部ひた隠しに隠して、僕は、氷河の前で懸命に普通の人間を装った。

氷河は、僕の関心がどういう方向に向いているのかってことには興味があるみたいだったけど、僕自身の出自には興味がないらしく、僕の家はどこにあるのかとか、両親は何をしているのかとか、どこの学校に通っているのかとか、そんなことを根掘り葉掘り訊いてきたりはしなかった。
おかげで、僕は何とか普通の人間の振りができていたと思う。

行きずりの人になることは わかっていた。
僕は成長しない化け物なんだから、どんなにうまくごまかしても、氷河と一緒にいられるのは せいぜい1年がいいところ。
でも、僕は氷河と一緒にいることが楽しくて幸せで、そんなふうに感じることが初めてで――200年生きてきて初めてで――僕は、氷河の懐かしい色をした瞳の中にいる自分の姿を見るたびに、『時間よ、止まれ』と祈り願っていた。






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