あれは、確か、4度目に氷河に会った時。
面白いものを見付けたと言って、待ち合わせていたカフェに、氷河が旅行会社のパンフレットを持ってきたことがあった。
トルコ、ルーマニア、ハンガリーと、ドラキュラ公のモデルになったヴラド・ツェペシュの足跡を辿る旅行プランが記されたパンフレット。
「まったく誰が考えたんだか……。ルーマニアのホテルの食事がふるっている。ニンニクのフルコースだ」
笑いながら そう言ってテーブルにパンフレットを広げた氷河が、そのパンフレットで指を切ってしまったんだ。

彼の指先に小さな赤い液体の玉が浮かんでくる。
僕は、自分の血を見たことはないけど、自分以外の人間の血は見慣れていた。
それは争いや戦いを暗示するもので、どちらかといえば僕は嫌いだった。
――氷河の血が、普通の人の血と違っていたわけじゃない。
でも、僕は、その赤い小さな玉に見とれたんだ。
その深紅の美しさに。
そして、悲しくなった。
僕はとても悲しかった。
僕が氷河とは違う生き物なのだということが。

「血を見ても平気か?」
「え?」
僕がじっと氷河の指の先に載っている命を見詰めているのを、怪訝に思ったのだろう。
氷河はナプキンに その命を吸わせてから、僕に尋ねてきた。
「え……あ……うん、そう……」
僕が曖昧な答えを返すと、氷河は微かな笑みを その目許に浮かべた。
楽しい思いつきを人に話そうとして、でも その前に言葉を笑いで遮られてしまった――そんなふうな笑みを。

「瞬が あまりに綺麗だから、時々 俺は、瞬こそが、それこそ老いることを知らない不死の者なんじゃないかと思うことがある。天使とか、月の世界から来た天女とか、吸血鬼とか」
「まさか」
僕はすぐに氷河の楽しい思いつきを否定したけど、氷河はそんな僕に探るような目を向けてきた。
おそらく氷河は、わざと そんな目をしたんだろうけど、氷河の青い瞳に凝視された僕は落ち着いてはいられなかった。
「綺麗っていうなら、氷河の方こそ。氷河の方が僕なんかより、ずっと綺麗だよ。吸血鬼の黒の夜会服を着こなす貴公子然としたイメージも、僕より氷河の方に重なるし、様になるよ」

氷河の疑いから逃れるために、僕は疑惑の矛先を逆転させたんだけど、それは咄嗟に作った嘘やジョークなんかじゃなく、半ば以上 本心から出たものだった。
僕と氷河を並べて、『どっちが吸血鬼に見える?』と人に問うたなら、問われた人は10人中10人までが、氷河の方を指し示すだろう。
陽の光の色の髪を持った吸血鬼なんてものには、ちょっと矛盾を感じないでもないけど。
氷河が軽く左右に首を振る。

「造作のことではなく――いや、もちろん、おまえは顔や姿の造形も美しいが、それ以上に、肌が尋常でなく綺麗なんだ。なめらかで、色に全くむらがなく、肌理が細やかで、生きている人間のものとは思えない」
そう言って、氷河は僕の頬に右の手を伸ばしてきた。
氷河の手に触れられて、僕は内心で びくびくしていたんだ。
僕の頬は、普通の人のそれより冷たすぎたり、熱すぎたりしているんじゃないかと。
実際、僕の頬はかなり冷たかったんだろう。
触れられた氷河の手を、僕はとても熱いと感じたから。
でも、その冷たさは かろうじて普通の人間の範疇に入るものだったらしく、氷河は僕の頬の冷たさに関しては特に何も言わなかった。
彼は、代わりに、もう一度、
「おまえは、本当に綺麗だ」
と言った。

そして、僕の頬に触れていた手を離す。
僕は、血の通った氷河の手が 僕の上から取り除かれたことに ほっとして――ほっとすると同時に、寂しい気持ちになった。
生きて血の通った氷河の熱い手。
氷河の手にずっと触れていてもらえたら、僕の冷たい頬も いつかは温かいものに変われるんじゃないかと、そんなことを考えて。

それは夢――見果てぬ夢だと、僕には わかっていた。
でも、人は――僕が“人”なのかどうかは非常に怪しいけど――人は、実現しそうな夢はいつかは忘れたり諦めたたりするものだけど、叶わないとわかっている夢は決して忘れないものだ。
だから、僕は、この夢を永遠に――真の意味で永遠に――忘れないだろうと思った――ほとんど確信していた。

「吸血鬼というのは冗談だが、人並み外れて綺麗だから、おまえは不死に憧れ 調べているのだろうとは思っていたな」
多分 僕が目の前のお茶に全く口をつけずにいたからだろうけど、笑いながらそう言うと、氷河は僕に外に出ようと言ってくれた。
氷河は、僕の好物が 緑の多いところの空気だということを知っていてくれてるみたいだった。

「人はどこから来て、どこへ行くのか」
都会の真ん中に人工的に作られた緑地帯。
“哲学の道”とまではいかないけど、両脇に緑をたたえた日の暮れかけた公園の小道で、氷河はふいに そのフレーズを口にした。
氷河の口から出てきた その言葉を聞いて、氷河の隣りで、僕は少し身体を震わせた――と思う。
それは、僕が、この200年間、考えまいと思うほどに考えずにいられなかった、命と存在の謎を示す言葉だったから。

「それは、考えちゃいけない問題でしょう?」
僕が氷河に そう応じたのは、氷河はその答えを知っているのではないだろうかという期待を抱いていたから。
そんなはずはないんだけど。
人は絶対に その謎の真の答えには行き着けないはずだから。
その答えがわかってしまったら、人は その答えに添った生き方しかできなくなってしまうもの。
氷河は――氷河も――やはり その答えは知らないようだった。

「そう言われているが、考えずにいることもできない」
「うん……」
「ある事情があって、ずっと そのことを悩んでいた」
「人は その答えに至ることはできないでしょう」
「他の人間は。だが、俺は その答えに行き着いてしまったんだ」
「え……」

氷河が歩みを止めるのと、僕が歩みを止めるのと、どっちが先だったのか――。
ともあれ、僕たちは歩くのを止め、互いに互いを見詰め合うことになった。
氷河が行き着いた その答えを聞くために、僕は氷河の青い瞳を見上げ、氷河が その答えを語るために、僕の瞳を見おろしている。
そうして、氷河は、ゆっくりと唇を動かした。
「俺はどこから来て、どこへ行くのか。それは、おまえに会うためだったとわかった」
「氷河……」
「俺はおまえを愛していると思う」
「あ……」

氷河の行き着いた答えは、人の命と存在の謎の答えではなく、彼個人の心の謎の答えだったらしい。
でも、全人類に有効な答えじゃないから、その答えには価値がない――なんてことはないと思う。
少なくとも、それは、僕には、僕という異質な存在の謎を解き明かす答えなんかより ずっと価値のあるものだった。

僕は、氷河に抱きしめられ、そして 彼にキスされた。
この人と一緒にいられるなら、命が永遠であっても構わないと思える人に そんなことを言われ、そんなことをしてもらったら、普通は嬉しくて胸がどきどきするものなんだろう。
なのに、僕ときたら。
氷河に抱きしめられ、キスしてもらっているのに、僕ときたら。

僕は、普通の人間の口中があんなに湿っているものだということを知らなかった。
自分がそうではないことを氷河に奇異に思われることを恐れて、僕は、氷河の胸の中で恋のときめきではないものに身体を震わせていたんだ。
僕が普通の人間でないことを氷河に疑われるかもしれないっていうのは、幸い 杞憂だったけど、氷河の唾液を少し飲み込んで、僕は具合いが悪くなった。

立っていられなくなるほどじゃなかったし、その時は氷河が 倒れることも許さないくらい強く僕を抱きしめていてくれたから、もし僕が立っていられなくなるほど具合いが悪くなっていたとしても、何とかごまかすことはできただろうとは思うけど――氷河の胸の中で、僕は悲しくてならなかった。
どうしてこうなるの。
僕の不死の身体はどうしてこんなふうになってしまうの――って。

僕は僕の身体を医療機関で調べたことはない。
そんな危険なことはできなかった。
だから僕は、僕の身体が普通の人間と違うのか、違うとしたらどう違うのかも知らない。
図書館の資料で調べた限りでは、外見は普通の人間――男子のそれ。
死ぬことを試して、自分の身体を刃物で傷付けてみたこともあるけど、あんまり早く傷口が ふさがるんで、僕は僕の身体に血が流れているかどうかということも知らない。

僕が人間でないというのなら、それはそれでいいんだ。
犬が人間でなく犬に生まれたことを悲しまないように、鳥が人間でなく鳥に生まれたことを憤らないように、僕も悲しんだり腹を立てたりはしないだろう。
でも、それは、犬には犬の、鳥には鳥の心が備わっているという前提があってのことだ。
なのに、人間ではない僕の心には、(おそらく)人間と同じ心が備わっている。
それが、僕を苦しめる元凶だった。

普通の人間のものでない身体に、普通の人間の心。
氷河のキスをさえ びくびくしながら受けとめなければならず、あまつさえ 具合いが悪くなってしまう僕の身体。
そんな自分が悲しくて、ひとり戻ったホテルの部屋で――僕は帰るべき家さえ持っていないんだ――僕は、その夜 眠れなかった。
眠る必要がないことも悲しかった。
こんなに悲しいのに、涙を流すことすらできないことも悲しかった。
そして、もし氷河がキス以上のことを求めてきたらどうすればいいのかと、そんなことを考えて恐くなった。

氷河がそこまで僕を求めてくれるなんて うぬぼれもいいところだと思うそばから、おそらく その時は必ずくるって、僕は思っていたんだ。
だって、そうじゃなかったら、200年間 誰とも個人的に親しくなったことのなかった僕が、こんなに短い間に氷河に惹かれ、しかも氷河までが僕に好意を抱いてくれていることに説明がつかない。
恋をしている人間は誰もが――それが初恋なら なおのこと――そう思いたがるものなのかもしれないけど、これは運命の恋なんだと、僕は感じていたんだ。






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