体内に他人の身体の侵入を許したのも初めてなら、感極まって意識を手放すというのも、生まれて初めての経験だった。 ぼんやりしている意識と記憶。 僕が目を開けると、氷河が、険しい顔をして、あの青い瞳で僕を見詰め、見おろしていた。 僕の覚醒に気付くと、氷河はすぐに その目許に微笑を浮かべてくれたけど――これが最後と覚悟を決めていた僕には、氷河が無理に作った微笑が つらかった。 一度 目を閉じてから、僕は勇気を振り絞って、氷河に訊いたんだ。 医者にも誰にも訊いたことのないことを。 「僕、どこか変じゃなかった?」 「少し感じやすすぎるような気はしたな」 「好きな人に抱きしめられて、触れられて、見詰められて、それで過敏になるのは当然のことでしょう。そんなことじゃなく」 「おまえは、少し 清潔に過ぎるようだ」 「どういうこと」 「おまえには 汚れたところが一つもない。綺麗すぎる。人間という不完全な器の中で細胞分裂を繰り返し成長してきたのではなく、細胞の一つ一つを神の手によって創られた生き物のようだ。不純物がない。綺麗すぎる」 「それだけ?」 「もっと褒めてほしいのか?」 「……」 綺麗すぎるとか、清潔すぎるとか――そういう言葉は、普通の人間にとってだけの褒め言葉だ。 僕にとっては褒め言葉じゃない。 それは氷河にもわかっていたらしく――僕に重ねて沈黙で尋ねられると、彼は彼が無理に作っていた微笑を消し去った。 そして、再び険しい顔になって――重い口調で氷河は言った。 「俺を受け入れて歓喜することはできても――あんなに乱れ、我を忘れて錯乱してさえいるようだったのに、おまえの身体は実は何の反応も示していなかった。真の意味で無反応だ。汗や涙や精液を分泌することもない」 「……それは、人間として異常なことだよね」 「……そうだ」 ごまかせると思っていたわけじゃない。 もちろん、自分が普通の人間でないことを失念していたわけでもない。 僕は、僕が異分子だということを氷河に知られることを覚悟していた。 それでも、氷河に抱きしめてもらいたかった。 それでも、氷河を抱きしめたかった。 それだけだったんだ。 「どうするの? そう、僕は普通の人間じゃない。自分がどこから来たものなのか、僕は知らない」 「人は皆そうだ」 「でも、普通の人は、自分の両親が何者なのかは知っているものでしょう? 僕は、僕を生んだ親がいるのかどうかということさえわからない――知らない。僕は歳をとらない化け物なの。もう200年以上 この姿で生きている」 「おまえの10分の1しか生きていない俺は、おまえにとっては ただの若造か」 「そんなふうには思わないけど」 僕は、何も知らない状態で この世界に放り出された。 僕には、親とか教師とか――人が自分の人生を生きることの意味を教えてくれる先達もいなかった。 15、6歳の姿にふさわしい知識を得るのに100年はかかったと思う。 人との接触を避けていたから、普通の人が経験する悲喜こもごもも知らない。 本に記されている知識だけを持っている子供と大差ない。 情緒面では、氷河より はるかに幼い子供だと思う。 だから僕は今、氷河が次に僕に告げる言葉を、ただ震えて待っていることしかできないんだ。 氷河がそんな僕の冷たい頬に手で触れてくる。 温かい手。 血の通った温かい手。 その温かさが切なくて、苦しくて、僕は泣きたい気持ちになった。 200年、涙なんか一度も流したことがないのに。 僕は泣きたくても泣けない 氷河が僕の目を見詰めている。 そして、彼は、今にも泣き出しそうな子供を慰めるように温かい笑顔を作った。 「人はどこから来てどこへ行くのか――か。俺は、日本に留学してきてまもなく、出雲にある父方の実家を訪ねたんだ。そこで、手紙でしか交流したことのなかった父の祖母――俺の曽祖母に 初めて会った。もう90歳近い刀自だ。彼女が、俺には普通の人間にはない ある力が備わっていることを教えてくれた。本当かどうかは確かめようもないが、父の家は、日本神話の 「月読尊……?」 月読神は、日本神話の三貴神の一人だ。 若返りの霊水を持つ神。 氷河が月読尊の子孫で、“ある力”を持っているというのなら、それは――。 「ある力というのが どういう力なのかを知らされた俺は、正直、あっけにとられた。その力を、何の役にも立たない力だと思ったんだ。なぜ そんな力が俺に備わっているのか、いったいその力は誰のためのものなのかが わからなくて、ずっと悩んでいた。俺がネフスキーに興味を持ったのも、その力のせいだ」 僕が氷河の瞳の色を懐かしいと感じたのは、もしかしたら氷河が その力を持っているからだったんだろうか。 もしかしたら、氷河も不死の――。 僕が何を考えているのか――期待しているのか――を察したらしい。 氷河はすぐに、僕の推察を否定してきた。 「残念ながら、不死の力じゃない。全く逆だ。俺には、不死の人を不死でなくする力があるんだ。出雲の刀自は、永遠の命を持つ月の世界の住人を 人の世界の住人に変える力だと言っていた。そんな力が何の役に立つのだと、俺が呆れたのも当然のことだろう。その時には、俺は、まだおまえに会っていなかった。不死人なんているはずがないと思っていたし、いたとしても、せっかくの不死の身体を 死すべき身体に変えたいと願うような奇特な不死人などいるはずがないと思っていた」 「僕が……!」 僕は思わず叫んでいた。 僕が――僕こそが、氷河のその力を必要としている ただ一人の人間だと。 もしかしたら、本当は、僕以外にも氷河の力を必要としている不死人は何人もいるのかもしれない。 でも、今 いちばん氷河の側にいて、今 いちばん氷河の力を必要としているのは、この僕だ。 氷河は、僕の答えを半ば察し期待し、半ば疑っていたらしい。 “せっかくの不死の身体”を放棄したいと願う奇特な不死人が本当にいることを。 「おまえは本当に普通の人間になりたいのか」 「うん」 「老いるんだぞ。その綺麗な姿を、おまえはいつか失うことになる。そして、やがては死ぬ」 「それでも! もう一人はいやなの!」 ううん。そうじゃない。 『もういや』なんじゃなく、『これからはいや』なんだ。 これまで200年、まがりなりにも僕は一人で生きることを続けてこれた。 僕がいやなのは、僕が氷河と一緒にいられなくなることなんだ。 今のままだったら、氷河が老いて死んでも、僕は一人で生き続けなければならない。 一人だけで生き続けなければならない。 そんなのはいやだ。 氷河に出会い、氷河を好きになる以前ならともかく、僕は氷河に出会ってしまった。 これから先の時間を、僕はもう一人では生きられない。 僕の心はもう、一人でいることに耐えられない――! 「俺を愛して、歳下の若造でも俺を同等の人間とみなし、そして、ずっと俺の側にいると約束してくれたら、おまえを普通の人間にしてやる」 「約束する!」 僕の答えが即答だったから、氷河はかえって不安になったのかもしれない。 その答えが熟考の末に導き出された答えではないのじゃないかと。 「本当にいいのか。俺がその力を使った瞬間から、おまえの身体は――その細胞は劣化し始めるんだぞ」 あんまり氷河が心配そうな顔をするものだから、僕は――僕まで不安になってきた。 氷河がそんなに心配に思うってことは、それだけ氷河が“不死”を価値あるものと考えているってことだもの。 「氷河は……僕が不死の者でなくなっても、僕を抱きしめてくれる? あの……僕があんまり綺麗じゃなくなっても」 「200歳の老人になっても抱きしめてやる」 僕の即答には心配そうな顔をしたくせに、氷河の答えも即答だった。 なら、僕の中には もう不安も恐れもないよ。 僕は、氷河の瞳を覗き込んだ。 懐かしい色の温かい氷河の青い瞳――。 「こんな時、嬉しくて泣けたらいいだろうなって思うの。氷河に好きだよって言って、真っ赤になったりできたら、どんなに嬉しい気持ちになれるだろうって思うの。氷河、僕の夢を叶えて」 それに、もし僕が普通の身体を持つ者になれたらきっと、具合いが悪くなることを恐れずに、氷河とキスすることもできるようになるだろう。 そうなったら素敵だ。嬉しい。 ――さすがに、氷河とキスして具合いが悪くなっていたことを氷河に知らせることはできなかったけど、僕がそう言うと、氷河はやっと その心配顔を笑顔に変えてくれた。 「それは、200歳の老人が考えることじゃないな」 「見かけの年齢が及ぼす影響は大きいよ。僕は大人しか入れない場所には入れないし、大人しか読めない本は読めないし、大人しか観れない映画も観れないし――あ、大人しか観れない映画っていうのは、Hな映画のことじゃなく恐い映画のことだよ!」 僕の補足説明がおかしかったのか(僕は真面目に言ったのに!)、氷河が声をあげて笑う。 僕が唇をとがらせると、笑いを噛み殺しながら、氷河が僕の髪を撫でてくれた。 「恋をしたこともなかった?」 「なかったよ」 「それは確かに、大人にはなりにくいな」 「氷河が僕を大人にして」 「それは実に光栄な役目だ」 氷河の指が、僕の(まだ)冷たい唇をなぞる。 「どうするの?」 僕が尋ねると、氷河は その裸の肩を少し すくめてみせた。 「それが……実にオーソドックスなやり方で――魔法の呪文もアイテムもないんだ。俺の血を少しだけ、おまえに飲ませる」 「え……」 氷河のその答えを聞いて、僕は少し不安になった。 氷河にキスされて ちょっと唾液を飲んだだけで、僕は具合いが悪くなるのに、血だなんて。 でも、氷河と同じものになるためだもの。 どんなことだって耐えられないはずがないよ。 氷河が自分の歯で その唇を噛み切る。 彼の命の証である赤い血が氷河の唇ににじんで、その赤い色が恐くて、僕は少し――ううん、かなり――身体を強張らせた。 「大丈夫だ。おまえがどうなっても、必ず 俺が守ってやるから」 「氷河……」 氷河の名を呼ぶために開かれた僕の唇に、氷河の唇が重なってくる。 それは僕の一生(!)を変える神聖な儀式で――そのはずなんだけど、氷河の儀式はこれまでのキスと同じように官能的で、あんまり神聖な感じはしなかった。 氷河の舌が僕の口腔をまさぐり、さまよい――本当に これまでのキスと同じ。 でも、僕が一度 こくりと喉を鳴らして何かを嚥下した途端、僕の舌が『苦い』っていう信号を僕の意識に送ってきた。 それが鉄の味だということを、あとになって僕は知った。 生まれて初めて知覚した味覚が血の味だなんて、それこそ吸血鬼みたいだ。 でも、人間のお母さんが赤ちゃんに飲ませる母乳はヘモグロビンを含まない血液のようなものだっていうから、氷河は僕の恋人であると同時に、僕のお母さんでもあるのかもしれない。 |