アテナの聖闘士は“諦める”ということを知らない。 不撓不屈の精神の持ち主といえば聞こえはいいが、それは潔さに欠ける性向でもある。 ヒヨコで緒戦に敗れた氷河は、もちろん 潔く己れの敗北を認め受け入れることをしなかった。 雪辱に燃える氷河は、翌朝には再び瞬の兄に正々堂々と(?)挑んでいったのである。 「貴様は本当に瞬の兄なのか !? 瞬は優しくて、気配りができて、基本的に控えめで、基本的に大人しくて、基本的に人を立てることを知っていて礼儀をわきまえた、極めて上質な人間だ。なのに、貴様ときたら、まるで優しくないし、気配りもできないし、死ぬほど図々しくて自分勝手。自分が この世でいちばん偉いと思い込んでいるような顔をして、いつもは瞬を放ったらかしにしているくせに、瞬の誕生日に狙いを定めたように帰ってきて、俺の立場をなくそうとする。俺は この地上に貴様ほど不愉快な男を知らんぞ!」 朝からパワー全開の氷河に、星矢はすっかり呆れていた。 氷河はよく、鳳凰座の聖闘士や天馬座の聖闘士の顔を暑苦しいと評するが、それも 氷河の無駄に攻撃的な言動に比べれば はるかに涼しいものだと思わずにいられない。 「“基本的に”ってとこが苦しいよな」 星矢がわざと茶々を入れてやったのは、氷河のこれほどの努力奮闘を、瞬の兄が、まるで こたえた様子もなく涼しい顔で受け流しているからだった。 言ってみれば 巨人に見立てた風車に一人で突進していくドン・キホーテのような氷河の姿に哀れを催したから。 が、ドン・キホーテは彼自身の言動を滑稽とは思わず、むしろ気高い騎士道の実践と信じているところが偉大な男。 氷河も、その点ではドン・キホーテに勝るとも劣らない偉大さを有している男だった。 「瞬はこんなに可愛い。貴様は全く可愛くない。だから、貴様と瞬が血のつながった兄弟のはずがないんだ。ありえんだろう。貴様と瞬には、何一つ似たところがない。いいか、子供ってのは、父親由来の遺伝子と母親由来の遺伝子が混じり合い、そのいずれかが発現して出来上がるものなんだ。父親だけに似た子供とか母親だけに似た子供なんてものは 天文学的確率でしか発生しない。そんなものは絶対に存在し得ないと言っていい。なのに、貴様と瞬には似たところが ただの一ヶ所もない。ゆえに、貴様と瞬が血のつながった兄弟であるはずがないんだ!」 氷河が、帰還するたび兄に絡んでいくのは、仲間たちから離れていることの多い兄を 場に溶け込ませるためのことと認識している瞬は、“基本的に”氷河の口の悪さを容認していた。 だが、こればかりは――『貴様と瞬が血のつながった兄弟であるはずがない』という言葉ばかりは――その瞬の寛大さをもってしても、笑って聞き流せることではなかった――瞬は、笑って聞き流せなかった。 「氷河。確かに僕は、兄さんみたいに男らしくないし、泣き虫だし、いくら鍛えても細腕って馬鹿にされるような不甲斐ない聖闘士だけど、でも、だからってそんなこと言わなくても……」 「俺はおまえを責めているんじゃなくて、一輝がおまえの兄だと言い張る無謀を責めているんだ! おまえは、こんな暑苦しい顔をした男が おまえの兄だと主張することに違和感を覚えないのかっ」 「違和感……って……」 物心ついた時には兄として側にいてくれた人に 今になって『実は兄ではなかった』と言われたなら、それは違和感を覚えることにもなるだろうが、その逆はありえない。 にもかかわらず、違和感を覚えるのが当然と言いたげな氷河の口調の方にこそ、瞬は無謀と違和感を覚えていたのである。 かといって、その違和感を氷河に告げれば、氷河は次にはどんな無茶を言い募ってくるか わからない。 瞬は、無意味に熱血している氷河の前で沈黙を守ることしかできなかった。 それは、瞬の兄が城戸邸に帰還するたびの恒例行事。 氷河は一向に飽きる気配を見せないが、彼の仲間たちは すっかり この恒例行事に飽きていた――というより、健気と言っていいほどの氷河の執念に呆れ果てていた。 「氷河が言いたいことを言っているぞ。いいのか」 紫龍が言外に言っているのは、『氷河が哀れだから相手をしてやれ』。 しかし、氷河より はるかにクールにできている瞬の兄は、紫龍の助言(?)を華麗に無視した。 氷河ではなく紫龍に対して肩をすくめてみせてから、掛けていた肘掛椅子の背もたれに上体を預ける。 「ああいう性格の悪さを平気で瞬の前にさらけ出せるほど、瞬と氷河の馴れ合いは進んでいるわけか。兄というのは、実に詰まらん商売だ」 「ほう」 涼しい顔をして氷河の話を聞き流しているように見えていたが、一輝は一応 氷河の言いたい放題の内容を把握してはいたらしい。 本当に詰まらなそうな顔をして ぼやく一輝を、紫龍は意外の念をもって見やることになった。 その上、いつもなら氷河の勝手な放言は許すにしても 必ず鋭い皮肉を放って 騒がしい毛唐をやりこめる一輝が、今日に限って、真顔で、 「まあ、確かに 俺の弟がこんなに可愛いはずがないな」 などと殊勝なことを言うのである。 「おい、一輝……」 紫龍だけでなく星矢までが意外そうに――むしろ心配顔で――瞬の兄を見詰めることになったのも、当然のことだったろう。 もっとも、星矢の心配顔は、 「俺の弟なら、せいぜい星矢レベルのはずだ」 の一言で、すぐにどこかに消え去ってしまったのであるが。 「俺レベルってどういうことだよ!」 「兄さん! 兄さんまで なんてこと言い出すんですか!」 星矢は、『妥当なレベルだから』という理由で一輝の弟になりたくはなく、瞬は瞬で、一輝の弟の座を星矢に譲るつもりはなかったらしい。 センターテーブルを挟んだ向かい側の席から飛んできた弟の叱責に、一輝は僅かに口許を歪めて 場を取り繕った。 「あ、いや。俺たちは何があっても兄弟だぞ。もちろん」 「何もなくても、兄弟です!」 「瞬! おまえは本気でそんなことを言っているのかっ! 「氷河、 「だいたい、おまえは こいつが帰ってくるたびに俺を二の次三の次にして、そのたび俺がどんなに寂しい思いをしているのか、おまえはわかっているのかっ」 「氷河……なに子供みたいなこと言ってるの」 「どうせ俺は馬鹿な子供だっ」 「誰もそんなことは言ってないでしょう」 「言ったじゃないか、今!」 「それは氷河の 駄々をこねる氷河をなだめるのに四苦八苦し始めた瞬を横目に見ながら、一輝が掛けていた椅子から立ち上がる。 そのままラウンジを出ていく一輝を、星矢は慌てて追いかけた。 エントランスに向かっている一輝を、廊下の端でつかまえる。 「おい、おまえともあろうものが、まさか氷河のたわ言を真に受けたんじゃないだろうな。今日は ちゃんと夜までいてやれよ。沙織さんも夜には戻って、ささやかだけどバースディ・パーティーしようってことになってるんだから。おまえが消えると瞬が寂しがるし、そうなったら氷河も立場がなくなる」 氷河は、瞬の兄が自分の嫌味程度のことで尻尾を巻いて退散することがあるとは思っていないから、言いたい放題ができているのである。 もしここで瞬の兄が弟の前から姿を消してしまったら、氷河は 瞬のために瞬の兄を捜し連れ戻す旅に出なければならなくなるのだ。 そのあたりの事情は、一輝も承知しているようだった。 「ああ。夜には戻る。あの毛唐の我儘振りを見ているのも、瞬があの馬鹿を甘やかしているのを見ているのも不愉快なだけだし、それまで その辺をぶらついてくる。俺と瞬が本当に兄弟なのかどうか、兄弟のルーツを探って時間つぶしでもするさ」 「だから、氷河のたわ言を本気にするなって」 「しかし、俺と瞬に似たところが全くないのは事実だしな」 「そりゃまあ、そうだけど……」 しかし、そんなことは100年も前から わかっていたことである。 今更 そんなことに頓着し始める一輝の真意が、星矢にはわからなかった。 「でも、似てない兄弟なんて いくらでもいるだろ。俺の星華姉さんは、俺とは似ても似つかない美人だけど、俺は姉さんを自慢に思ったことしかねーぞ」 「その自慢の姉さんに好きな男ができたら、おまえにも俺の気持ちがわかるようになるさ。相手の ろくでもない男をさっさと この地上から抹殺してしまいたいのに、それができないジレンマとか苛立ちとか――」 「……」 ろくでもない男を抹殺したくなる心を抑えるために、一輝は氷河と弟から離れている必要があるのかもしれない。 一輝にとって、氷河は、弟の男というだけでなく、アテナの聖闘士という点で抹殺するわけにはいかない同志でもあるのだ。 「ま、おまえの気が済むようにしろ」 瞬の兄の気持ちは、今はまだ理解できない。 だが、いつか理解できてしまう時がくるのかもしれない。 そう思いながら、星矢は、兄弟のルーツを探ってくるという瞬の兄を送り出してやったのだった。 |