氷河を黙らせる方法も、ぐうの音も出ないほど、二度と立ち上がることができなくなるほど 氷河を打ちのめす方法も、それどころか瞬と氷河を確実に引き離す方法すら知っている。
にもかかわらず、それをせず、ルーツ探しなどと称して二人のいないところに行こうとしている自分。
いったい俺は何をしているのだろうと自嘲しながら、一輝は、母を亡くしてから彼と彼の弟が引き取られた教会付属の養護施設に向かったのである。

一輝と彼の弟が その小さな施設を出たのは、既に7、8年前のことになる。
母を病で亡くし、天にも地にも二人きりの兄弟になってから城戸邸に引き取られるまでの数年間を過ごした場所。
8年振りの訪問で、一輝は初めて そこがプロテスタントの教会だった事実を知ることになった。
一輝は、道理で飾り気のない教会だったと、今更ながらなことを思い、施設の園長が教会の訪問者たちに“神父様”ではなく“牧師様”と呼ばれていたことを思い出した。

教会と養護施設 両方の受付を兼ねているらしい窓口で“園長先生”に会いたい旨を伝える。
通された客間で待つこと5分。
一輝の前にやってきた園長は、一輝の記憶にある通りに、穏やかな表情をたたえた小柄な男性だった。
とうに60は過ぎているはずなのに、ほとんど白髪がない。
彼は、昔 この施設に預けられていた子供のことを憶えていたらしく、一輝が名を名乗る前に、
「一輝くん。大きくなりましたね」
と、懐かしそうな目をして一輝を見詰めてきた。
それで、一輝は、“園長先生”はほぼ記憶にある通りなのに、施設の建物の印象が大きく変わってしまったように感じられていた訳に気付いたのである。
小さな子供が大きくなったから、幼い頃よりも 部屋は小さく狭く、廊下は短く細く感じられるようになったのだと。

「一人ですか? どうしました」
“質素”としか言いようのない椅子を一輝に勧め、彼自身も着席しながら園長が尋ねてくる。
彼は、“一輝くん”に弟がいたことも憶えてくれていたようだった。
「自分と弟のルーツを探ってみようという酔狂を起こしまして。兄弟にしては似ていないと言われ続けているうちに、つい そうかもしれないと馬鹿な考えを起こしてしまったんです」
一輝が訪問の理由を正直に告げると、園長は、
「それでは二人でやってくることはできませんね」
と言って微笑した。

「あなたと瞬くんは一緒に こちらに預けられてきました。その時から、二人は本当に仲のいい兄弟でしたよ。瞬くんは心からあなたを慕い頼っていた。あなたがそんな考えに囚われていると知ったら、瞬くんが悲しむことになるのではないですか」
「……」
園長の推察は正しい。
兄が氷河のたわ言を真に受け、こんなところにまできていることを知ったら、瞬は傷付き悲しむだろう。
それがわかっていながら、なぜ自分はここにやってきたのか―― 一輝は自分の心がわからなかった。

「瞬くんは元気にしていますか」
「はい。おかげさまで。ここに来る前、どこかのアパートで母と暮らしていた記憶があるんですが、その住所はわかりますか」
「記録は残っているはずですが、もうどなたも住んではいないでしょう。住人はほとんど入れ替わっていると思いますよ」
「それでも、行って見てきたいのです」
「それは、馬鹿な考えに囚われたというより、郷愁のようなものでしょう」
一輝の言葉に心を安んじたのか、園長はそう言いながら、古いファイルに記されていた住所を一輝に教えてくれた。
園長の言う通りなのかもしれないと、一輝は思ったのである。

彼が彼の小さな弟と この施設にやってきたのは夏の終わり――秋の始まる頃だった。
あれから15年が経っている。
瞬の誕生日が巡ってくるたびに一輝は、『あれから5年』『あれから10年』と、小さな弟と二人きりで生き始めた頃のことを思い出すことを繰り返してきた。
瞬の誕生日は一輝にとって、兄弟が二人きりで生きることを始めた記念の日でもあった。

母親の記憶は、かなり明瞭に一輝の中に残っていた。
小柄で線が細く、いつも穏やかで滅多に声を荒げない。
息子の腕白が過ぎて悪さをすると、叱る代わりに静かな涙で息子の乱暴を嘆くようなひと。
一輝は、そんな母と二人で小さなアパートで暮らしていた。
その間取りも憶えている。
アパートの近所に世話好きな50絡みの女性がいて、昼の間は彼女の家に預けられていることが多かった。
夜には勤め帰りの母が迎えにきて、手をつないで一緒にアパートに帰る。
それが母子の日課だった。

半月ほど(もしかしたら、もっと長い時間だったかもしれないが) その日課が途絶え、いつも預けられていた家での寝泊まりが続いたことがあった。
一輝が預けられていた家の“おばさん”は賑やかなご婦人で、彼女の“亭主”(と、彼女は呼んでいた)は磊落な江戸っ子。
彼等の家に預けられていた間、一輝は 決して退屈することはなかったのだが、長く母に会えない日が続くことに さすがに不安を感じ始めていた頃、その家のおばさんが一輝を茶の間に呼んで言ったのだった。
「一輝ちゃん、長いこと、よく一人で辛抱したね。明日、お母さんが、一輝ちゃんの弟を連れて帰ってくるよ」
と。

「母さんが?」
その時、一輝は、また母と一緒にいられるようになるという喜びより、母は無事だったのだという安堵の思いに囚われた。
そんな子供に、おばさんは、菓子入れに入ったカリントウを勧めながら真顔で忠告してきた。
「いいかい。生まれたばかりの赤ちゃんっていうのは、真っ赤な顔をしたカエルみたいな様子をしているもんなんだよ。でも、絶対にカエルみたいだなんて言っちゃだめだよ」
「カエル……」

母が無事だったという安堵と、明日になれば母に会えるという嬉しさと、母が赤い顔をしたカエルのような弟を連れてくるということへの不安。
一輝はその夜、どんなカエルがきても、『カエルみたい』と言っちゃだめなんだと自分に言いきかせながら眠りに就いたのだった。


翌日の昼過ぎ、おばさんが言った通り、小さな赤ん坊を抱いて、母は一輝の許に帰ってきた。
母の両手が赤ん坊に奪われているせいで、いつものように『母さん!』と母の手に飛びついていくことができない。
そんな一輝の前にしゃがみこみ、母は彼女が抱きしめているものを一輝に見せてくれた。
母の腕の中には赤いカエルがいるのだと覚悟を決めていた(?)一輝は、白いケープに包まれたそれを 恐る恐る覗き込んだのである。
そこに赤いカエルはいなかった。

瞬は可愛かった。
大きな目と小さな手。
瞬はにこにこ笑いながら、初めて会う兄の方に両手をのばそうとしているように、一輝には見えた。
想像していたものとは全く違うものに出会ってしまった一輝は、しばらく息を呑んで その小さな命を見詰めることになったのである。

「嘘みたいに綺麗な赤ちゃんだね!」
脇から赤ん坊を覗き込んだおばさんが素頓狂な声をあげても、一輝は我にかえることができずにいた。
「男の子ってほんとなの? ほんとにほんと?」
念を押してくるおばさんに笑って頷いてから、母は弟を見詰めたまま身じろぎもせずにいる一輝に、
「お兄ちゃん、赤ちゃんに『こんにちは』って言ってあげて」
と言った。
母に『お兄ちゃん』と言われて我にかえり、そして、一輝は自分が何者になったのかを知ったのである。
カエルに似たものを弟と呼ばなければならないのだと覚悟していたのに、その覚悟は不要のものだったことにも。

「可愛い」
『こんにちは』の代わりに一輝の口を衝いて出てきた言葉がそれだった。
「まあ」
“お兄ちゃん”のその呟きを聞いて、母が口許をほころばす。
一輝は特段面白いことを言ったつもりはなかったのだが、母は いつも通りに優しく、だが 彼女にしては珍しく弾むような声で告げた。
「可愛いでしょ。まだ小さくて弱いのよ。だから、守ってあげてね。一輝は瞬のお兄ちゃんなんだから」
「わかった」
こんなに可愛い弟なら、言われなくてもそうする。
“お兄ちゃん”としての使命感と誇らしさに わくわくしながら、一輝はそう思ったのだった。

「こんなに可愛い子の顔も見ずに死んじゃうなんて……!」
やたらと『ほんとに綺麗な赤ちゃん』『ほんとに男の子なの』を繰り返していたおばさんが、突然 声を詰まらせて おいおい泣き出したのは、一輝が“ウチの亭主”にもらった竹トンボを取りに おばさんの家の中に戻りかけた時。
だから、瞬が生まれた時には、兄弟の父は既に死んでいたのだ。






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