園長に教えてもらった住所に、一輝が母と(あとからは瞬と3人で)暮らしていたアパートは 既に存在していなかった。 そこには 20階はありそうなマンションが建っていて、近隣にあった一般の住宅も ほとんどが商業用のビルか別のマンションに変わってしまっている。 街の人の流れも、以前とはかなり違ってしまっているようだった。 以前は平日の午後にこの通りを歩いているのは授業が終わったあとの小学生や主婦、隠居した老人くらいのものだったのに、今はその大半を勤め人らしき者たちが占めている。 これでは、親を失った兄弟のルーツを探るどころか、郷愁に浸ることもできなさそうだと、一輝は苦く笑うことになったのである。 どうやら昔に遡っていく道は ここで途切れることになるらしい――。 そう考えて、一輝が踵を返そうとした時だった。 彼が昔 暮らしていたアパートが変貌したマンションのエントランスから、 「ったく、話にならないったら! ほんと、このマンションのどてっぱらに でっかい穴を開けてやりたいよ!」 という女性の悪態が響いてきたのは。 サンダル履き、白髪混じり。どう見ても60は過ぎている女性が、その口から出る悪態よりも勢いのある足取りで、一輝が立っている方に一直線に歩いてくる。 彼女は、マンションの前に 電柱のように何をするでもなく立っている男を不審に思ったのか、じろじろと遠慮のない視線を一輝の上に投じてきた。 やがて、はっとしたように、その瞳を大きく見開く。 「一輝ちゃん?」 「あ」 「一輝ちゃん! 一輝ちゃんでしょう。まー、大きくなって! いい男になっちゃって!」 もう この辺りに昔を偲ぶ建物や昔を知る人はいないのだと思っていたのに、どうやらそうではなかったらしい。 それは、母と弟以外では最も鮮烈な印象を一輝の記憶に留めている あの女性――“おばさん”だった。 彼女は、今もこの街で暮らしていたのだ。 それも、どうやら かなり元気に暮らしているらしい。 とうに還暦を過ぎているはずの“おばさん”は、一輝を一輝と認めると、学校帰りの小学生もかくやと言わんばかりの駆け足で 一輝の目の前に飛んできた。 「おばさん」 とても“おばあさん”とは呼べない健脚。 だからというわけでもないのだが、一輝は、以前彼が彼女に用いていたのと同じ呼称で、彼女を呼んだのである。 「一輝ちゃん、聞いてよ! あんたたちがいなくなってから建った この忌々しいマンションのせいで、ウチに陽が当たらなくなっちゃってね! それだけならまだしも、このマンションのせいで、ウチに地デジの電波が届かないのよ。何とかかんとかっていう特別のアンテナをつければテレビも見れるようになるらしいけど、そんなのウチで立てなきゃならないものじゃないでしょ。それで、日に一度は、どうにかしろって直談判に来てるのに、ここの奴等、そういうことは お上に言ってくれの一点張りなのよ!」 彼女の家は、細い路地を挟んで、一輝たちの暮らすアパートの裏手にあった。 してみると、彼女と彼女の家は街の再開発の波に逆らって、今も以前の場所で頑張っているらしい。 10数年振りの再会だというのに、『お久し振り』も『こんにちは』もなく、今現在の不都合を大声でまくしたて始めた“おばさん”の変わりのなさに、一輝は “昔”と“今”が一気につながったような気分になったのだった。 その“おばさん”が、一輝の身辺をきょろきょろと見まわしてから、少々不満げな顔になる。 「瞬ちゃんは? 瞬ちゃんは一緒じゃないの?」 「今日は一人で」 一輝の返事を聞くと、彼女は、“今日は一人で”来た一輝への落胆を隠しもせず、大きな溜め息をついた。 「あらあ、残念。今度 連れてきてちょうだいよ。さぞかし綺麗になったんでしょうね」 「おかげさまで」 「そうでしょうねえ。あの子は 赤ちゃんの頃から、ほんとに綺麗な子だったもの。いずれ お大尽の奥方様に望まれるか、アイドル歌手かモデルになるだろうって、この辺りのみんなで噂してたんだよ。瞬ちゃんが口もきけないうちから、今のうちにサインをもらっておいた方がいいかもしれないって 言い合ったりしてね。で、今日はどうしたの」 アイドル歌手やモデルになら今からでもなれないことはないだろうが、いくら瞬でも“お大尽の奥方様”にはなれないだろう。 どうやら彼女は、瞬が綺麗な子供だったことは憶えていても、瞬の性別までは憶えていないらしい――あるいは、忘れてしまっているようだった。 「事情があって、ルーツ――いや、昔を懐かしむために、ゆかりの場所を訪ね歩いているんです」 「やだよ。昔を懐かしむだなんて、年寄りくさい! そんな今にも死にかけた年寄りみたいなこと、あたしだって あと20年は考えないよ!」 この女性なら おそらく、今から20年後にも 同じことを同じ調子で元気に言ってのけるに違いない。 彼女に比べれば確実に年寄りくさい己れを認め、一輝は苦笑した。 「しかし、今のうちにまわっておかないと、街が変わりすぎて、昔を懐かしむこともできなくなりそうだ。おばさん、瞬が生まれた病院がどこにあるのか知っていますか」 「え? ああ、それは隣りの駅の駅前にある区立の診療所だけど……。あそこで昔を懐かしむのは、ここで昔を懐かしむより もっと難しいかもしれないよ。診療所自体はおんぼろになっても崩れずに頑張ってるんだけど、あれからもう10何年も経ってるからね。あの頃の看護婦さんやお医者さんで 今も残ってる人はいないんじゃないかね。いたら、絶対 憶えてるだろうとは思うけど。瞬ちゃんは、なにしろ綺麗な子だったから」 「では、そこに行ってみます。ありがとう。会えて嬉しかった」 過去に遡る道の終着点は、おそらく その診療所になるだろう――。 そんなことを考えながら礼を言った一輝を、彼女は引きとめてきた。 「なに言ってるの。このまま帰っちゃうつもり? ウチに寄ってきなさいよ。ウチは このマンションのすぐ裏だよ。憶えてるでしょ? 麦茶とカリントくらいなら出せるから。それともコーヒーの方がいいかい?」 「いや、今日は あまり時間がないので――」 彼女と彼女の家を懐かしむ気持ちはあるが、この婦人は へたをすると、拗ねて駄々をこねている時の氷河並みに騒がしい人物である。 この調子で騒ぎたてられ続けたら、自分は、大恩ある人を、氷河を怒鳴りつけるように怒鳴りつけてしまいかねない。 一輝は、そんな事態は極力避けたかった。 |