氷河と瞬が、再開発の進んだ街の中で そこだけ時間の流れから弾き出されているような下町の一画にやってきたのは、一輝が“おばさん”との邂逅を果たしてから 2時間後のこと。 兄を捜しに行くと言い張る瞬に しぶしぶついてきた氷河は、目的の家の玄関先で、深く大きな感嘆の声を洩らすことになった。 「すごい家だな。完全木造建築、法隆寺の西院伽藍も真っ青だ。世界遺産に登録されても、世界中の誰も文句は言わないだろう。本当に、ここが沙織さんの言っていた家なのか」 建物自体は、二階建て瓦葺の典型的な江戸町屋。 小柴垣で囲まれた狭い庭があるところが 江戸時代の商家とは異なるが、確かにその家は、東京都心にまだこんな建物が残っていたのかと感心したくなるほど古ぼけた――もとい、味わい深い趣をたたえた家だった。 「表札もサトウさんだし、間違いないと思うけど……。ごめんくださいー。サトウさん、いらっしゃいますかー !? 」 インタフォンがないので、玄関先で声を張り上げる。 幸い 家人は在宅していたらしく、氷河と瞬の耳には すぐに、 「はーい、どなたー」 という声と、どたどた廊下を走る音が届けられた。 古くなって戸の立てつけに歪みが生じているのか、少々耳障りな音を伴って、木製の引き戸が開けられる。 戸を開けてくれたのは、半ば近くが白くなった髪を切り下げ髪にした老婦人で、彼女は、瞬が名を名乗り用件を告げる前に、呼ばれた瞬がびっくりするほど大きな声で瞬の名を呼び、ほとんど飛びつくような勢いで瞬の手を握りしめてきた。 「瞬ちゃん! 瞬ちゃんでしょう! まー、綺麗になって!」 「はい、あの……以前、僕がこちらで大変お世話になったと聞いて――」 「瞬ちゃんが ここに来てた頃は まだちっちゃかったから憶えてないのは仕方ないけど、でも、なに他人行儀なこと言ってるの。午前中に兄さんが来たのよ。それで、懐かしくなって、今、昔のアルバムを引っ張り出して眺めてたとこ。さあ、あがって、あがって。おいしいカリントがあるのよ。麦茶がいい? コーヒーも昆布茶もあるわよ。何がいい?」 「あ、いえ、僕は――」 目的は兄の身柄の確保で、瞬は、兄の行く先に関する情報を手に入れられれば、それ以上“サトウさん”に面倒をかけるつもりはなかったのだが、彼女は突然押しかけてきた客をすぐに解放する気がないらしい。 瞬は、彼女の素朴な家の玄関先で、元気な老婦人に 少々戸惑うことになった。 「あの……兄は やはりこちらに――」 「そうなのよ。10何年振りだったけど、すぐにわかったわよ。眉毛と目付きが子供の頃と全然変わってないんだもの。金太郎さんみたいに きりりとしててね。まあ、こちらは瞬ちゃんの旦那さん?」 「え」 瞬はまだ10代であり、それ以前に正真正銘の男子、たとえ成人していても“旦那さん”を持つことは不可能である。 この元気な老婦人は何やら大きな認識違いをしているようだった。 「ち……違います!」 瞬は、彼女のとんでもない勘違いを慌てて否定した。 瞬の隣りでむっとした顔になった氷河は、だが、すぐに 元気な老婦人のために にこやかな微笑を作った。 そして、笑顔のまま、 「今はまだ」 と告げる。 嘘ではないが事実でもない答え――否、事実ではあるが、実に微妙な答え。 氷河のその答えを、元気な老婦人は、もちろん氷河の思惑通りに解釈して、その目を細めた。 「あの小さかった瞬ちゃんが お嫁に行くのねぇ……。それで、一輝ちゃん、懐かしがって思い出の場所巡りをしてたんだ。何にも言ってくれないから、何かあったんじゃないかと心配してたのよ。まあまあ、旦那さんも ものすごい男前だこと。瞬ちゃんに負けてないじゃないの……!」 「恐れ入ります」 満面の笑みを浮かべて、氷河が老婦人に浅い会釈をする。 「サトウさんには、瞬が子供の頃、大変お世話になったとか。ぜひ当時のお話を伺いたいものです」 「そうでしょ、そうでしょ。いくらでも話してあげるから、さあ、あがって、あがって。瞬ちゃん、ほんとにいい旦那さんを掴まえたねえ。大手柄だよ!」 氷河は、この元気で正直な(?)老婦人が気に入ったらしい。 すっかり その気になっている氷河と、すっかり浮かれてしまっているサトウさんの間で、瞬は小さな溜め息を洩らすことになった。 もはや、彼女の誤解を正す気力も湧いてこない。 結局 瞬は、氷河と共に、サトウさん宅の茶の間で“おいしいカリント”と麦茶をいただくことになってしまったのだった。 |