狭い畳敷きの茶の間のテーブル(もちろん、ちゃぶ台である)の上には、古いアルバムが数冊積まれていた。
時代がかったデザインから察するに、そのアルバムは、当然のことながら デジタル写真が普及する前の、フィルムから感光紙に焼きつけて仕上げた写真が貼られたものなのだろう。
氷河と瞬の前に麦茶の入ったグラスを置くと、おそらく久方振りの客人に機嫌をよくしている老婦人の舌は いよいよ滑らかになっていった。

「瞬ちゃんはほんとに綺麗な子だったから、嬉しくて写真撮りまくったのよね。瞬ちゃんは絶対にアイドル歌手か お金持ちの奥方様になるんだろうって思ってたんだけど、まさか外人さんの奥さんになるなんて! 青い目で見ても、やっぱり瞬ちゃんは綺麗に見えるんだねえ」
「瞬は、俺が知る限り、この地上で最も美しい人間です」
「まー、照れるよ! 外人さんはほんとに口がうまいね!」
「……」

別にこの家の女主人を褒めたつもりはなかったのだが、氷河は あえてその件に言及することはしなかった。
瞬への賞讃に彼女が“照れる”のは、彼女の中に瞬に対する身内意識があるからなのだろうと思ったし、
「ほら、見てちょうだい」
と言って、彼女がテーブルの上に広げたものに目を奪われた氷河は、些細な言葉の解釈のずれなどにこだわっている場合ではなくなってしまったのである。

「すごい。こんなボロ家に、なんて宝が埋もれているんだ……!」
200枚はあろうかという量の、幼い頃の瞬の写真、写真、写真。
生まれて間もない頃から2、3歳まで――四季折々の花の写し絵と見紛うような瞬のスナップ写真が、そこにはずらりと並んでいた。
ほとんどの写真に一輝が一緒に写っているのが目障りといえば目障りだったが、だからといって それは幼い頃の瞬の可愛らしさを損なうものではない。
縁側に置かれたクッションの上で寝入っている瞬、真新しい畳の上を這い這いしている瞬、一輝のズボンに掴まって 立っちができるようになったらしい瞬、小さな手に一輪のヒナギクの花を握りしめて嬉しそうに笑っている瞬。

氷河は、言葉もなく、食い入るように それらの お宝に見入ることになったのである。
許されるなら、これらをすべて言い値で買い取りたいとさえ、氷河は半ば本気で思っていた。
髪型から察するに、この家の女主人は未亡人である。
これは老婦人の大切な思い出の記録で、この古い家にあってこそ価値のあるものと思うがゆえに、氷河はかろうじて、
「素晴らしい。素晴らしいです」
と感嘆するだけで、自身の強い欲望を抑えることができたのだった。

「こんなに小さかった瞬ちゃんが お嫁にいく歳になったんだ。私も白髪が増えるはずだよ」
やっとアルバムから顔をあげた氷河に、老婦人がしんみりした声で呟く。
そうしてから、彼女は、瞬の“旦那さん”の顔を覗き込むようにして尋ねてきた。
「瞬ちゃんの兄さんに、相当 反対されたでしょう?」
「それはもう熾烈に。今も ひどい嫌がらせを受けています」
氷河の答えを聞いて、老婦人は さもありなんというように頷いた。

「仕方ないわよ。一輝ちゃんは、瞬ちゃんのためなら、たとえ火の中水の中のお兄ちゃんだったから。ちっちゃな頃から、お姫様を守る お目付け役みたいなもんでね。お出掛けする時には、お母さんが抱っこ紐をつける前に自分でつけて待機してるような子だったんだよ。あたしたちが、子供が子供を抱くのは危ないからって言うと、『俺は男だから、母さんより力がある』って言い張って、瞬ちゃんを抱っこしたがってね。お母さんは働いてたし、保育所に預けられるほどの余裕もなかったから、よくウチで二人を預かってたんだ。若い頃には あたしも亭主も そりゃもう一生懸命頑張ったんだけど、結局子供は授からなかったから――。一輝ちゃんは、いいお兄ちゃんだったよ。瞬ちゃんが熱を出した時には『俺がついてるから、死ぬんじゃないぞ』って大騒ぎでねぇ」
「あ……」
「あたしたちは、一輝ちゃんたちに遊びにきてもらってるつもりだったんだけど、一輝ちゃんは あたしらに預かってもらってるんだって気持ちでいたんだろうね。子供心に気を遣って、ウチの庭の掃除とかしてくれてねー。そんなことしなくていいんだよって言っても、『瞬がいつも世話になってますから』って言って……ほんとに健気で律儀で礼儀正しい お兄ちゃんだった」

そんな話を恩着せがましく弟に語る兄ではない。
それは、瞬が初めて知る兄の愛情で、知らされた途端に瞬の瞳からは涙の粒が幾つも零れ落ち始めた。
「瞬……」
ほとんど初対面といっていい人の前で突然泣き始めた瞬の肩を、慌てて氷河が抱き寄せる。
サトウ夫人は、だが、瞬の涙に気を悪くした様子は見せなかった。
代わりに彼女は、今は若く美しく幸福の絶頂にいるのだろう“一輝ちゃん”の弟に(彼女はその事実を失念しているようだったが)諭すような口調で告げてきた。
「兄不孝しちゃだめだよ。いくら旦那さんが優しくてもね」
「はい。もちろんです」

人を見る目があり、その上 大変な正直者であるサトウ夫人に、氷河は多大な好感を抱いていたのだが、彼女は最終的には 昔馴染みである一輝の味方だったらしい。
その事実を知らされても、彼女への好意を失ってしまえない自分に、氷河は苦虫を噛み潰したような顔になってしまったのだった。


「ごめんね。急に泣き出したりして。兄さん、隣りの駅の駅前にある診療所に行っただろうって」
元気で世話好きで お喋りなサトウ夫人の家を、氷河は、
「恋人や“旦那さん”より、兄貴の方が役得な気がする……」
と ぼやきながら辞することになった。






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