隣りの駅の駅前にあるという診療所まで、一輝は電車を使わず徒歩で向かった。
10数年の間に すっかり様変わりした街。
そんな中にも、多少は見覚えのある風景が残っている。
大通りから数十メートルの距離を置いて平行にのびる遊歩道や、その脇にある小さな児童公園――それらのものは、小さな瞬を抱きながら、あるいは一人で歩けるようになった瞬と手をつないで 歩き、遊んだ昔の記憶を 一輝の中に蘇らせてくれるものだった。


問題の診療所は、“おばさん”が言っていた通り、まさに“おんぼろになっても頑張っている”といった感の、こじんまりとした建物だった。
忙しそうに立ち働いている職員を煩わせるのも はばかられたので、一輝は、外来の受付時間が過ぎ、通院患者の姿が待合室から消えるのを待って、受付の事務員に用向きを告げてみたのである。
「ウチの看護師長さんは もう20年近く、ここに勤めているはずですけど……少々 お待ちください」
と事務員に言われて、待つこと10分。
「一輝くん! 一輝くんでしょう、瞬ちゃんのお兄さんの。まあ! 懐かしい!」
という声を響かせてやってきたのは、少々ふくよかな体躯を薄いピンク色の白衣(?)に包んだ中年の女性だった。

もちろん、一輝には見覚えのない婦人である。
しかし、彼女の方は一輝のことを よく憶えているようだった。
一輝が、初めて会う人に一礼すると、彼女は、
「さすがに忘れられちゃってるかしら」
と小さく呟いて、懐かしそうに目を細めて 一輝を見詰めてきた。
「瞬ちゃんは、本当に綺麗な子だったから……お母さんが退院してからも、私、何度か お宅まで会いに行ったのよ。お母さんがお亡くなりになるまで、4、5回はお邪魔したかしら。一輝くんは いつも瞬ちゃんの横についてて――憶えてる? 私が瞬ちゃんを抱こうとしたら、『泣かせないように、そっとお願いします』って、大人びた顔で真面目に言うの。本当に いいお兄ちゃんだった。今も同じ?」
「……」

自分の記憶にないことで褒められるのは、なかなか面映ゆいことである。
彼女に昔の“いいお兄ちゃん”ぶりを それ以上語らせないために、一輝は彼女に問われたことには答えず、自分の知りたいことを単刀直入に尋ねていった。
「瞬はこちらで生まれたんでしょうか。間違いなく母の子として」
「え? ええ、それはもちろん。でも どうしてそんなことを?」
「こちらでは、子供の取り違えということはあり得ることですか」
「は?」

真顔でそんなことを尋ねてくる一輝に、看護師長は ただならぬものを感じたらしい。
彼女は それまで絶やさずにいた微笑を消し去って、僅かに緊張した面持ちになった。
「それはまあ……あの頃は、お母さんの名前を書いた名札を足首に巻いて赤ちゃんを区別するっていう原始的な方法を採っていたから、そういうことも絶対なかったとは言えないけど――でも、瞬ちゃんに限ったら、それはないわよ。あの子は本当に綺麗な子で、他の子供と間違えられるような子じゃなかったもの」
「しかし、子供というのは、生まれた時は皆、真っ赤なカエルのような顔をしているものだと聞いています」
「普通の子は そうなんだけど、瞬ちゃんは顔色が落ち着くのも早くて、弁天様が守っているんじゃないかって、みんなが噂していたくらいだったの」
弁天様とはまた、いかにも下町らしい神様が出てきたものである。
『ハーデスに守られている』よりはましかと、一輝は胸中で苦く笑うことになった。

「ならば、瞬ではなく俺の方が母の子でないということは考えられませんか」
と、一輝が食い下がった時だった。
患者の姿のない静かな診療所の待合室に、
「兄さん!」
という瞬の声が響いてきたのは。
「瞬……」
唇を引き結んだ瞬の表情から察するに、どう考えても、瞬は、今 兄が口にした言葉を聞いていた――らしい。
一輝は急いで笑って その場をごまかそうとしたのだが、瞬の後ろに某金髪男の姿があるのに気付いて、そうするのをやめたのである。
氷河の戯れ言に踊らされて こんな真似をしでかしているのだと氷河に思われることを、一輝は何としても避けたかった。
兄のそんな気持ちをむことなく、一輝が認めたくない事実を、瞬はあっさり口にしてくれたのだが。

「もう……。氷河の冗談を真に受けて、なんて馬鹿なこと言うんです!」
「瞬ちゃん? 瞬ちゃんなの?」
鳳凰座の聖闘士でさえ 気軽に口答えのできないアンドロメダ座の聖闘士の怒声に怖気おじけた様子もなく、一般人である看護師長が、兄弟の間に割り込んでくる。
「え……あ、はい……」
瞬が看護師長に頷くと、彼女はアンドロメダ座の聖闘士の怒りなど軽く吹き飛ばしてしまうような奇声を、静寂が保たれているべき医療施設の待合室に響かせた。

「ひゃあ、瞬ちゃんたら、こりゃまた えらく綺麗になっちゃって! 『栴檀は双葉より芳し』ってほんとなのねえ!」
「あ……あの……」
瞬が語調を弱めたのは、もしかしたら この人も“瞬ちゃん”を少女と思っているのではないかという不安に囚われたからだった。
「瞬がお世話になったのでしょうか」
口ごもった瞬の代わりに、氷河がそう尋ねたのは、ここでも瞬の“旦那さん”として振舞えることを、彼が期待したからだったろう。
看護師長が、ネイティブな日本語を話すガイジンに目をみはり、瞬に尋ねてくる。

「ま、もしかして、こちら、瞬ちゃんの彼氏? こちらも滅茶苦茶 綺麗な……って、あら、でも、瞬ちゃんは確か男の子だったはず……よね?」
さすがに医療に携わる人間は、外見だけで人を判断することはないらしい。
ほっと安堵の息を洩らしてから、氷河に これ以上“旦那さん”づらをさせないために、瞬は、
「彼は僕の友人です」
と、看護師長にきっぱり断言した。
氷河は露骨に不満顔を作ったが、瞬は今は氷河の不機嫌を直してやろうという気にはなれなかった。
不機嫌になってしまった氷河とは対照的に、看護師長は思いがけない訪問者たちに上機嫌である。

「今日は なんて日かしら! 今日は私、本当は お休みの日だったのよ。でも、今日遅番予定だった若い子が、間違って片眉をそり落としちゃって人前に出れないなんて馬鹿な理由で突然休んじゃってね。仕方なく代わりに駆り出されてきてたんだけど、あの子が粗忽者でよかったわ。若くて綺麗な男の子たちが勢揃いで、目の保養に命の洗濯。家で昼ドラ見てるより、よっぽど英気を養えるってもんだわ。でも、いったい何があったの?」

サトウ夫人といい、この看護師長といい、どうも この界隈の住人は、まず自分の感じたことを言い終えてしまってから、事態の解明に乗り出す傾向があるようである。
やっと事情を訊いてもらえた瞬は、彼女のためというより、兄と氷河を責めるために、看護師長に事の次第の説明を始めたのだった。
「心無い人にいろいろと言われて 誤解した兄が、急に自分のルーツを探るだの何だのと、馬鹿なことを言い出したんです」
「誤解したわけじゃない。俺の弟がこんなに可愛いはずがないと思っただけだ」
「まあ。それで取り違えって……」
瞬の事情説明を受けた看護師長が、緊張していた表情を緩めて、くすくすと笑い出す。
それから彼女は少し真顔になって、彼女が知っていることを兄弟に話してくれたのだった。

「一輝くんも、この診療所で生まれたのよ。もちろん、同じお母さんから。あの時には お父さんがまだご健勝で、一輝くんが生まれた時は大喜びで、診療所の廊下で大騒ぎしたから、私もよく憶えてるわ。取り違えなんてことも絶対にありえないわよ。一輝くんも、生まれた時から個性的で、他の子供とは一線を画してたから」
「日本ザルの中にゴリラがいたら、それは目立つだろう」
氷河の呟きは ほとんど独り言めいて低く小さいものだったのだが、患者のいない静かな待合室では、その発言は 他の雑音に打ち消されてしまうことができなかった。
看護師長が少々困ったような顔になる。
だが、彼女は氷河の言を否定することはしなかった。
おそらく、一輝は赤ん坊の頃から濃い顔をしていたのだろう。

いずれにしても、そんなふうに嘘のつけない看護師長の言うことだから、彼女の言葉には真実の重みがあった。
だから、一輝は、
「二人は間違いなく血のつながった兄弟よ。お母さんがおなかを痛めて産んだ子。そんな悲しい誤解をしたら、お母さんがお気の毒よ」
という彼女の言葉を信じないわけにはいかなかったのである。






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