「お忙しいところ、お手数をお掛けして、本当に申し訳ありません。どうもありがとうございました」 看護師長への謝罪と礼を弟に任せて、一輝が診療所を出たのは ほぼ夕方といっていい時刻。 終わらない夏などないのだと言わんばかりに、ひと月前に比べると確実に日は短くなっており、風は確かに秋の気配を含み始めていた。 診療所の玄関から門につながる歩道にアラカシの樹が長い影を落としていたが、その影も、夏場のそれほど濃い黒色を呈していない。 その淡い木陰の中を、一輝は弟と顔を合わせるのを避けるようにして 門に向かって歩き出したのである。 二人が兄弟ではないのではないかと、本気で疑っていたわけではない。 その件に関しては、一輝はいくらでも釈明できる自信があった。 一輝はただ恐れていたのである。 弟に怒られるか、泣かれるかすることを。 瞬は、だが、兄弟の絆を疑うような真似をした兄を怒ることはせず、そして、泣くこともしなかった。 そうする代わりに、瞬は、一輝の前方にまわり込んで兄の足を止めさせ、 「あのね。兄さん。左の手を出して、ぴんと伸ばしてみて」 と言ってきた。 “可愛い弟”に逆らうことなど思いもよらず、一輝が瞬に言われた通りにする。 いつになく従順な兄の態度を認めて、瞬は その口許に微かな笑みを刻んだ。 「そう。そうすると、勝手に薬指が手の平の方に傾くでしょう。それで、小指と中指が近付く」 「ん? ああ」 それは、一輝が初めて知る事実だった。 一輝の弟は、兄の指が 「僕もそうなんですよ。きっと、僕たちの父さんか母さんがこういう指をしていたんだと思うんです」 「……」 「小指は僕で、中指は兄さんって、僕はずっと思ってた。アンドロメダ島で、この指を見て、僕と兄さんの間に どんな障害があっても、二人の間にどれだけの距離があっても、僕はきっともう一度 兄さんに会える、それが僕たちの運命なんだって、この指を見て、僕は自分を励ましてた」 「瞬……」 「僕と兄さんが兄弟なのは運命なんです。これは神様が決めたことなの。兄さんにも誰にも変えられない運命なんですよ」 兄の愚行を怒りもせず、泣きもせず、必死な目をして、瞬が訴えてくる。 母の腕の中にいる瞬と初めて出会った時のように、瞬はまっすぐに兄を見詰めていた。 一輝は昔から――それこそ、初めて出会った時から――瞬のこの目に弱かった。 「じゃあ、本当に、俺の弟がこんなに可愛いのか」 決して、断じて、絶対に、二人が兄弟ではないかもしれないと、本気で疑っていたわけではない。 にもかかわらず、一輝は、この“運命”が信じられない気持ちで そう呟いていた。 兄に真顔で そんなことを呟かれてしまった弟が、少しばかり情けないような面持ちになって、長い溜め息をつく。 それから、瞬は、眉をつりあげて、今日の騒動の元凶たる男を振り返った。 「氷河、兄さんに謝って! 兄さんがこんな馬鹿な考えに取りつかれたのは氷河のせいなんだから! 兄さんは、氷河と違ってナイーブなの。今度あんな馬鹿なことを言いだしたりしたら、僕、氷河を絶対に許さないんだから!」 一輝は瞬に『ナイーブ』と断じられたことが大いに不満だったが、兄に謝れと言われたことに、氷河は一輝以上の不満を覚えたらしい。 瞬に険しい声で叱責され睨まれると、氷河はぷいと横を向いてしまった。 「なぜ俺がこんなに恵まれた男に謝らなければならないんだ」 「恵まれた?」 問い返したのは瞬だったが、同じ疑念を一輝も抱いていた。 “恵まれた男”というのは、(認めるのも癪だが)さしたる美質も備えていない馬鹿であるにもかかわらず瞬に愛されている氷河のような男を指す言葉なのではないのかと。 一輝はそう思っていたのだが、氷河には氷河の、最恵国ならぬ最恵人基準があるらしかった。 「いったい、こいつは、俺の何倍、おまえと一緒の時間を過ごしたんだ! どれだけ俺の知らないおまえを知っているんだ! 俺はこんな奴には絶対に謝らん!」 「もう……兄さんは僕の兄さんなんだから、そんなの当たりまえのことでしょう」 「それが気に食わんのだっ!」 合理的とも論理的とも言い難い理由で大きな怒声をあげたかと思うと、 「どうせ、俺は、おまえにとって ぽっと出の旦那か友人で、俺とおまえの間には運命も宿命もなくて、俺たちは所詮は赤の他人なんだ。おまえも そう思っているんだろう」 次には 勝手な勘繰りと卑屈で拗ね始める。 氷河のこの阿呆振りは、半ば以上は瞬の気を引くための“振り”なのだが、それは とりもなおさず、半ば近くは本気だということで―― 一輝は そんなことのできてしまう氷河を常日頃から軽蔑していた――羨みながら軽蔑していた。 しかし、自分もそんな氷河を馬鹿にできるほど偉い男ではないと、今では 一輝も思うようになっていたのである。 結局のところは、自分も、瞬が自分だけの弟でなくなったことが寂しくて拗ねているだけの我儘な兄だったのだと。 実の兄弟でも、恋人同士でも、二人は別個の独立した人間である。 知っている時間と知らない時間、一緒にいられた時間といられなかった時間があるのは当然のこと。 それでも二人が兄弟であり、恋人同士であることは、紛う方なき事実。 瞬の恋人と兄の違いは、前者が嫉妬心を剥き出しにして瞬との距離を縮めるべく大騒ぎをするのに対し、後者は 自らの嫉妬心を知られないようにするために弟との間に距離を置こうとすることだけだった。 どちらが前向きで建設的な対応なのかといえば、一輝としても『氷河の方』と思わないわけにはいかなかったのである。 たとえ 氷河の振舞いがどれほど無様で見苦しくても。 「おまえの知らないことを教えてやる。ヒヨコは瞬の好物なんだ。いつも尻尾の方から食う」 一輝がその秘密を氷河に教えてやる気になったのは、氷河のプライドを捨てた なりふり構わぬ努力(?)に敬意を表してのことだった。 氷河が一瞬ぽかんとした顔になり、 「俺へのあてつけじゃなかったのか」 と呟く。 そんな氷河を、一輝は、いかにも馬鹿馬鹿しいと言わんばかりの態度で鼻で笑ってやったのだった。 「貴様に あてつけなんかするか。貴様なんぞのために、そんな時間も手間も費やすだけ馬鹿らしい」 「それもそうだ」 氷河が素直に得心する。 ということは、彼もまた、『瞬の兄にあてつけるために時間や手間を費やすのは馬鹿らしい』という考えを抱いているということ。 彼が瞬の兄のいるところで 瞬に拗ねたり駄々をこねたりする行為は、瞬の兄のための行為ではないということだった。 彼はただひたすら、瞬の関心と意識を自分に引きつけるためだけにそうしているのであり、瞬の兄など どうでもいいと思っているのだ。 そのやりとりは、氷河と一輝の、相手に対する痛烈な無関心の意思表示だったのだが、瞬はそうは思わなかったらしい。 何はともあれ 二人の間に会話が成立しているのだから、二人は仲直り(?)をしたのだと、瞬は思ったようだった。 「兄さん、城戸邸に帰ってくる時には、いつもヒヨコを買ってきてくれてるんですよ。でも、ポッケとかに入れて持ってくるから、潰れてることもあって、次からは箱で買ってきてって お願いしてたの」 「ヒヨコが潰れてしまったと、アテナの聖闘士に泣かれてみろ。まったく、おまえはいくつになっても――」 それで素直に箱で買ってくるあたり、自分も氷河に劣らないほどの馬鹿だと(この場合は“兄馬鹿”ということになるのだろうが)一輝は自嘲した。 瞬が、僅かに首をかしげて、そんな兄の顔を覗き込んでくる。 「いくつになっても、兄さんの弟は泣き虫なんです」 「そのようだ」 「じゃ、星矢たちのところに帰りましょう。ルーツ探しはこれで終わり。わざわざ探しに出なくても、僕のルーツは兄さんですからね」 そう言って、瞬は、一輝と氷河の前に立って歩き始めた。 一輝は 氷河と肩を並べて、そんな瞬の後ろに大人しく従うしかなかったのである。 兄というものは、“可愛い弟”には勝てないようにできているのだ。 |