現在のフランス国王はルイ14世。 若い頃には太陽王と呼ばれ、フランスの宮廷風恋愛の牽引役でもあった男だ。 王妃をないがしろにし、公式寵妃を幾人も持った不実な男。 だが、そのルイ14世も今では歳をとり、数年前には 質素で家庭的なマントノン夫人と秘密結婚をしたという噂が立ったこともあった。 その噂が事実かどうかは知らないが、王が 質素堅実を絵に描いたようなマントノン夫人を寵遇しているのは事実で、現在の王は若かりし頃の華やかな醜聞とは縁のない日々を過ごしている。 老いた王を戴く宮廷の宿命か、フランス宮廷は以前の活気に満ちた華やかさを失ってしまった。 だが、そこが聖書の教えにあるような峻厳な倫理観に支配されている場であるわけもなく――宮廷が非道徳的な退廃と爛熟に覆われた“乱れた場”であることに変わりはない。 シュンが俺の許に身を寄せるようになって1ヶ月ほどが経った頃、気が進まなかったが、俺は一度だけ、シュンをベルサイユで催された国王主催の舞踏会に連れていった。 あまり人目を引かないように、極力 装飾を排除した、だが 野暮な田舎者と蔑まれることのないような衣装を わざわざあつらえていったのに、やはりシュンは宮廷の好奇と好色の目を一身に集めることになった。 誠意や情熱を伴わず形ばかりを気にする――ある意味、怠惰な――恋の遊戯に慣れきった貴族たちの目には、シュンが その身にまとう 澄んで淀みない空気や眼差しや表情が、この上なく新鮮なものに映ったことだろう。 シュンは、停滞し腐った空気の中に迷い込んだ涼しく爽やかな風のようなもの。 宮廷の貴族たちがシュンに近付こうとしたのは、腐りかけた自分の命の再生を無意識のうちに期待してのことだったかもしれない。 もちろん、俺は、俺の隣りにいる綺麗な風を消すようなことはしたくなかったから、奴等を適当にいなし、追い払ってやったんだが。 シュンも 宮廷が清潔で美しい場所でないことは敏感に感じ取ったらしく、ベルサイユ宮の巨大さ壮麗さに目をみはることはしても、その場にいることを心から楽しんでいるようには見えなかった。 実際、翌日、俺が、 「やはり、あんなところはおまえには向かない。宮廷で立身を図るのはやめておけ」 と言うと、シュンは迷った様子もなく、 「ヒョウガがそう言うなら、そうします」 と、答えてきた。 以前の活気や華やかさは失われたとはいえ、それでも宮廷は、継ぐべき爵位を持たない貴族の次男坊三男坊には出世のチャンスが転がっているフランス最大の猟場だ。 シュンの亡くなった母の望みも、シュンが宮廷で何らかの地位を得ることだったろう(もっとも、彼女は、宮廷を栄光に輝く高貴な場所と信じていたんだろうが)。 にもかかわらず、あまりにあっさりシュンが俺の助言を受け入れるから、俺は少々肩すかしを食った気分になった。 シュンに宮廷での栄達を諦めさせるために、俺は多少の労力を費やすことになるだろうと思っていたから。 「いいのか、本当に」 俺が念を押すと、シュンは無言で頷いた――いや、無言で俯いた。 シュンが宮廷での立身を強く望んでいるとは、俺も思っていなかった。 シュンが故郷を離れてパリにやってきたのも、シュンが華やかな宮廷に憧れたからじゃなく、一途に母の遺言を叶えようとしただけのことで、シュン自身が心からそれを望んでいたわけではないと、俺は察していた。 そんなシュンが宮廷の退廃振りに呆れ驚き失望することはあっても、そのために落胆することはないだろうと、俺は思っていたんだ。 だから、シュンのひどく消沈した様子は、俺には意外なものだった。 「シュン……?」 もしかしたら、シュンを失望させ気落ちさせたものは、宮廷の淀んだ空気とは別の何かなのか――。 そう感じて、俺は、シュンの真意を探るように、シュンの名を呼んだ。 かなりの間を置いてから、シュンが、思い切ったように その顔をあげる。 「このお屋敷の人たちが……僕を、ヒョウガのお父様が外に作った子供だと誤解しているみたいだったから、事情を説明したんです。そうしたら、皆さん、ヒョウガのお父様は ものすごい遊び人で、愛人を何人も抱えていた女たらしだったと……あの、ごめんなさい。そう言われたの。ヒョウガは、そんなお父様を嫌っていて――憎んでさえいて、その分、お母様をとても慕っていたと。僕の母のことなんて、一時の気紛れで、憶えてもいなかったに決まってるって、みんなに笑われてしまいました……」 「む……」 俺の館のお喋りな召使いたちに、俺は内心で思い切り強く舌打ちをした。 奴等の言葉は紛う方なき事実だったが、それは、俺がシュンにだけは知らせまいと腐心していた事実だったから。 なのに、奴等は、軽はずみに――もしかしたら、奴等なりの親切心から――シュンに事実を教えてしまった。 おかげで、俺を見上げるシュンの瞳には涙がにじむことになり――これが憤らずにいられることだろうか。 「ヒョウガは、僕を傷付けないために、嘘を言ってくれてたんですね。ありがとう。でも、僕はもうここにはいられません。最初から、ヒョウガの厚意に甘えるべきじゃなかった。ごめんなさい。本当にありがとう」 シュンがこの館を出ていくつもりでいることに気付いて、俺は自分で自分に驚くほど狼狽した。 シュンは、おそらく、昨夜 宮廷に赴いたことで母の遺言は果たされたと思い、もうここに留まる必要はなくなったと考えたに違いない。 シュンは、多分、それが俺の厚意に報いる正しい道だと思ってさえいる。 だが、俺は、こんな結末を期待して この館への滞在をシュンに許したわけじゃなかった。 「行くな」 俺は、もちろん、シュンを引き止めた。 引き止めずにいられなかった。 シュンは、俺の母に似ている。 姿形ではなく――シュンは俺の母のように誠実で一途で清らかで――母と同じ世界の住人。 恋や愛を ルールのある遊戯として実践することなど思いもよらない、純粋な愛によって支配される世界の住人だ。 そんなシュンは、いずれ きっと、心から愛する人を見付け、その人間に一途に清らかな愛情を注ぐことになるだろう。 その幸運で幸福な人間が俺以外の誰かであることには耐えられないと、俺の心が俺に訴えてくる。 俺は、その人間になりたかった。 俺こそが シュンの清らかな愛情を その身に受ける者であるべきだと、俺は思っていた。 その時、俺は、自分があの ろくでもない父親と同じことをしているのだとは毫も考えていなかった。 シュンを求める俺の心は切実で、そこにはギャラントリーもマナーもなかった。 ただ、シュンと離れてしまいたくない、シュンを俺のものにしたいという情熱だけに衝き動かされて、俺はシュンを抱きしめたんだ。 「俺の側にいてくれ。俺は一人なんだ」 「あ……でも……」 「俺は確かに父を嫌っていた。母を不幸にした男だと、憎んでさえいた。父がくたばった時には、快哉を叫んだ。父が死んだからじゃなく、母が亡くなったから、俺は一人きりなんだ。おまえに側にいてほしい。おまえは――俺の母に似ている。頼む。俺の側にいてくれ」 「あ……」 シュンがためらう様子を見せたのは、俺の恋が 宮廷風恋愛――要するに、ただの遊びだ――なのではないかと疑ったからじゃなく、遠慮と気後れのせいだったろう。 シュンが俺の求めに応じることは、言ってみれば、フランス屈指の名門貴族の庇護を手に入れること、それを求める権利もないのに 俺の厚意に甘えることだったから。 俺のひとりよがりな うぬぼれではなく――シュンは俺を愛してくれていた。 少なくとも、シュンは俺を“思い遣りのある優しい人”だと信じていた。 その証拠に、不安そうに、 「ほんとに……ヒョウガの側にいてもいいの?」 と尋ねてきたシュンに、俺が、 「おまえに側にいてほしいんだ」 と重ねて求めると、 「はい! はい、ヒョウガ!」 シュンはすぐに嬉しそうに 俺の背に細い腕をまわし、しがみついてきてくれたから。 俺は その時、本当に、俺があの糞親父と同じことをしているつもりはなかったんだ。 俺の心身は切実にシュンを求めていた。 それは疑いようのない事実だった。 だが、そこに誠意があったかどうか。 俺には、それはわからない。 恋愛遊戯の相手として見ておらず、シュン一人だけを求めていたから、そこに誠意があったと言い切ることは、俺にも――誰にも――できない。 情熱と誠意は、全く別のものなのだから。 それまでの俺は、父を憎み軽蔑しながら、結局のところ、父のそれと大差ない日々を過ごしている放蕩貴族だった。 そんな俺に、シュンは、その清らかな心と清潔な身体を与えてくれた。 無垢で清潔なシュンの身体は、だが、驚くほど官能的でもあった。 人を疑い憎み侮ることを知らない 素直で純朴な心と、俺の心身を燃え立たせ 奇跡のような快楽を与えてくれる官能的な肉体。 俺は、あらゆる意味で――ありとあらゆる意味で――シュンに溺れることになった。 |