自分から望んで就いた地位とはいえ、ロシア総領事という役職は 実に詰まらない――辟易するほど詰まらない代物だった。
西欧化改革に力を注ぐピョートル1世は外国人登用に積極的だったが、俺の仕事はフランスとロシアの実務官たちの顔繋ぎにすぎず、彼の宮廷で、俺はただ おべんちゃらを言われ、持ち上げられるだけの存在だった。

フランス宮廷に比べれば、ロシア宮廷は到底洗練されているとは言い難い社交場だったが、その分、そこは野蛮な活気に満ちていた。
とはいえ、生まれた時から授けられている特権によって、自分は何を生まなくても生きていられる貴族たちの気質は、フランスのそれとロシアのそれとで大した違いはない。
洗練され形式化されていないだけで、ロシアの宮廷にも、恋を退屈しのぎの遊戯と見なす貴族たちは多くいた。
フランスのそれと違うところは、ロシア宮廷では、頑固なほど貞操堅固な貴婦人たちと 浮気な人妻たちの数がほぼ拮抗している――ということくらいのものだった。

そんな宮廷で――シュンのいない場所で――日々をうんざりしながら過ごす試練を、俺が3年もの長きに渡って耐え抜いたのは ほとんど奇跡だと、自分でも思う。
それだけ、俺は、シュンのいるフランスに帰ることを恐れていたんだろう。
俺がフランスに帰ることになったのは、太陽王が亡くなったからだった。
王が死んだ際には、海外駐在の大使や領事の総入れ替えを行なうのが、我が国の慣例だったから。

シュンはもうパリにはいないだろうと、俺は思っていた。
一途に誠実に その愛情のすべてを注いだ相手に、まるで上着を着替えるような気軽さで見捨てられ、シュンはパリの貴族の情の薄さに失望したはずだ。
裏切られ傷付いた心を癒すために、シュンは生まれ育った土地に帰ったに違いない。
俺はそう思っていた。
いや、そう希望し、期待していた。
シュンがまさかパリに残り、俺の次の恋人を求めるようなことをするはずはないと、俺は一人で決めつけていたんだ。

だが、シュンはパリにいた。
パリどころか!
ロシアから帰国した俺がシュンに再会した場所は、あろうことかベルサイユ宮だった。
新国王(正確には、摂政オルレアン公フィリップ2世)に帰国の挨拶を済ませ、謁見の間を出た途端、俺はそこで 3年間夢に見続けた人と再会することになった。

「ヒョウガ……!」
再会した時、俺は、その まばゆさに息を呑んだ。
身の内から あふれ出てくるようなシュンの明るい眩しさに。
シュンと別れてから、俺は生気を失った幽霊のように生きてきたのに、シュンは生き生きと輝いていて――俺の名を呼び、屈託のない様子で、シュンは俺の方に一直線に駆けてきた。

「なぜ、おまえがここにいる」
「ヒョウガが帰ってくるって聞いたから、連れてきてもらったの」
『誰に』と尋ねなかったのは、俺にも僅かに理性が残っていたからだったろう。
シュンは、俺が買い与えたものではない宮廷服を着ていた。
それも、一目で相当高価なものとわかる服を。
それは つまり、シュンに衣服をあつらえてやるような後見人が、今のシュンにはいるということ。
俺は、その あつかましい人物の名を聞いて、ベルサイユ宮で嫉妬に狂った男の醜態をさらすわけにはいかなかった。

言葉もなく立ち尽くしている俺を、シュンは切なげな目をして見上げてきた。
いつまで経っても何も言わない俺の許に――いったい俺に何を言えというんだ!――シュンが小さな溜め息を運んでくる。
「僕、すぐに戻らなきゃならないの。明日、ヒョウガのとこにお邪魔していい?」
俺は――俺は、シュンに頷いたんだろうか。
俺自身には全く記憶が残っていないが、多分、頷いたんだろう。
翌日、シュンを乗せた豪奢な馬車が 俺の館の庭に堂々と乗り込んできたところを見ると。
馬車の扉に打たれている紋章は、俺の知らない家のものだった。

シュンは俺を恨んでいるはず――恨んでいない方がおかしいと、俺は思っていた。
だが、シュンは、どんな顔でシュンと対峙すべきなのかを悩みながら客間に入っていった俺に、明るい笑顔を俺に向けてきた。
懐かしそうに、嬉しそうに。
3年前、俺たちは再会を約して別れ、シュンは その約束を守って俺を待っていてくれたのだ――と、そんな物語を捏造し、信じてしまいたくなるほど、俺を見詰めるシュンの瞳には翳りも屈託もなかった。
だが、事実はそうじゃない。
3年前、俺は一方的にシュンを捨て、シュンは一人でパリの街に放り出された。
それが事実だ。
それが事実なんだ。

シュンは今日も上等の服を着ていた。
もちろん、俺が買い与えたものじゃない。
そして、不実な恋人を恨んでいる様子のないシュンの瞳。
それらのことを総合判断し、導き出される結論は一つだ。
『俺より いい待遇を与えてくれる裕福な恋人ができたから、シュンは 俺に対して屈託のない笑顔を向けることができるのだ』
つまり、シュンはもう、俺に何の未練もないということ。
あんな別れ方を余儀なくさせた俺を恨んでも憎んでもいないということ。
それくらい、俺を忘れてしまったということ。吹っ切れているということ。
俺はシュンにとって、憎み恨む価値もないほど どうでもいい人間になってしまったということだ。
3年間、シュンと離れていることに、俺は苦しみ通しだったっていうのに。

「おまえは、相変わらず綺麗だな」
俺は皮肉のつもりで言ったのに、シュンは涼しい顔で、俺の顔をまっすぐ見詰め、
「ヒョウガほどじゃないよ」
と答えてきた。
すべては自業自得なのに――俺は、シュンのその答えに腹を立てた。
そして――ああ、本当に俺は馬鹿だ。
シュンは いったい誰のものになったのか。その相手は どの程度のレベルの人間で、俺がその相手からシュンを奪い返すことは可能なのか――と、俺はそんなことを考え始めていた。

「今の恋人は誰だ。男か。女か」
俺は つくづく馬鹿だ。
シュンにそう尋ねながら、俺はまだ心のどこかで『ヒョウガ以外に恋人なんていないよ』というシュンの答えを期待していた。
そんな答えがあり得るわけがないし、もしシュンがそんなことを言ったとしたら、それは明白な嘘に決まっているというのに。
シュンは、少し不自然に感じられるほどの間を置いてから、
「……男性です」
と答えてきた。
つまり、俺以外の男が、シュンのあの素晴らしい身体を毎晩 好きにしているということか。
その男は、自分が手にした奇跡のような幸運に、さぞ浮かれていることだろう。
その馬鹿野郎は、『これも自分の日頃の行ないがよかったからだ』なんて、阿呆なことを考えているのかもしれない。

「どれくらい続いているんだ」
「ヒョウガがロシアに行ってから ずっと」
「俺がロシアに行ってから ずっと?」
シュンのその言葉に、俺はかっとなった。
俺以外の恋人がいると明言された時よりずっと、俺は その時、激しい憤りに支配されていたかもしれない。
あっちの男こっちの男と渡り歩いていたというのなら、まだ我慢もできる。
だが、“一人だけ”というのは――ただ一人だけの誰かに、シュンがシュンの愛と誠意を捧げているというのは――それは俺には許し難いことだった。

シュンがその男以外に恋人を持たなかったというのなら、おそらく相手の男もそうなんだろう。
シュンのあの身体を一度知ってしまったら、大抵の男はシュンの他に恋人を持とうなんてことは考えなくなるに決まっている。
だが、普通のフランスの貴族なら――パリの貴族なら、そんな事態を憂えるはずだ。
ただ一人の恋人に執心し執着することを見苦しく粋でないことと考える、この街の貴族なら。
そして、シュンほど自分を満足させてくれないにしても、ギャラントリーの実践者である自身の体面を保つために、別の恋人を持とうとするはず。
それとも、その男は、シュンのために貴族としての体面を捨てたのか?
そんな野暮な男が、このパリにいたというのか?
野暮で不粋な恋人と、人に嘲笑われることを恐れない、勇気ある男が?

まさかと思いながら、俺は同時に、『そんな男もいるかもしれない』と考えていた。
3年前、シュンと別れることをしなかったなら、俺もそういう男になっていただろう。
シュンに魅了され、身体も心もシュンに支配され、自分を失うことを恐れることなく――恐れる気持ちさえ失うシュンの奴隷に。

俺は耐えたのに――シュンへの情熱に流されて自分自身を失うことを、俺は ぎりぎりのところで何とか踏み堪えたのに、その男は己れの情熱のままに、シュンを我がものにし、その素晴らしい心と身体を独り占めしているのか?
自分を失うことも、他の貴族たちから嘲笑されることも恐れずに?
そんな愚か者を、シュンは本気で愛しているんだろうか――?

「その男が好きなのか」
俺が思い切って尋ねると、
「うん……」
シュンは、優しく穏やかな瞳で俺を見詰め、幸せそうに頷いた。
「……」
シュンに他意はないのだろう。
問われたことに、正直に答えただけで。
だが、幸せそうに俺を見詰めるシュンの穏やかな眼差しは、俺の神経を逆撫でした。
その上、愛し愛されることで満ち足りているシュンは、自分が俺を憤らせていることに気付いていないようだった。
幸福のあまり、シュンはそれほど鈍感になっているらしい。
目許に笑みを刻んだまま、シュンは俺に、(無神経にも)尋ねてきた。

「誰だって訊かないの」
「俺が知っている奴なのか」
「さあ」
「さあ?」
「名前は知ってると思う。でも、その人が本当はどんな人なのか、ヒョウガは知らないかもしれないから」
おまえの今の男の 人となりなど、俺には知る義務もないし、知りたいとも思わないがな。

「……そんなに好きなのか」
「そんなに?」
「おまえは――輝いて見える」
俺と暮らしていた時よりもずっと。
ああ、さっきから俺の神経が ぴりぴりしているのは、そのせいもあるんだろう。
もしかしたらシュンの今の恋人は、貴族社会においては大愚なのかもしれないが、人の世界・恋の世界では、俺には太刀打ちできないほどの大賢なのかもしれないという考えが、俺をさっきから苛立たせているんだ。

「とっても好きだよ。だから、訊いて。誰なんだって」
「聞きたくない」
シュンがあからさまに がっかりした様子を見せるから、おまえの恋人はそんなに俺に自慢したいほどの男なのかと 俺は怒り――その怒りが、それでなくても沸点近くまで激昂していた俺の忍耐の限界を超えさせた。


気がついた時には、俺はシュンを組み敷いていた。
客間の床に敷かれた毛皮の上で。
シュンが俺の下で喘いでいる。
本当は、俺の手を振り払いたいんだろう。
だが、男の愛撫に慣らされたシュンの身体はシュンの意思を無視し、俺の暴力に歓喜していた。
シュンの身体は本当にいい。
自分の感覚に正直で、自分の心に嘘つきで。
この清楚な顔の持ち主が、これほど男を喜ばせる才能に恵まれているなんて、詰まらん宮廷風恋愛に興じている軽薄な輩には想像もできないことだろう。

「ああ……ヒョウガ……やめて……ああ!」
そんなに気持ちよさそうに『やめて』と言われても信じられるか。
俺は信じなかった。
本当に信じられなかったから。
心は既に他の男のものなのだとしても、身体だけなら、俺はシュンを取り戻せそうだった。
シュンの身体は、俺のために作られたもののように、俺にぴったりと合う。
肌の感触も、体温も、唇も、舌も、俺の髪に絡む指も、俺に掴みあげられ広げさせられる脚も――俺たちは、俺たちのために作られた二人のようだ。

最初から こうすればよかったんだ。
心まで愛さなければ、俺はシュンに人生を支配されることはない。
ただ一人の人を愛したために、俺が不幸になることもない。
身体だけなら――身体だけで愛し合っていれば、誰も傷付かず、誰も不幸にならないんだ。

いや……それは言い訳だ。
俺は、今も昔もろくでもない下劣な男だ。
俺は、シュンの心がもう俺のものでないのなら、身体だけでも俺のものにしようと――取り戻そうとしたんだ。






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