希望の淵源






「当代で、ハーデスが依り代に選んだ人間がわかったの」
ギリシャ聖域、アテナ神殿は玉座の間。
一段高いところから氷河に そう告げたのは、もちろん、この聖域に集う聖闘士たちを統べる女神アテナだった。
アテナの玉座の他には ほとんど何もない広間には、聖域の諸々を管理する任を負っている教皇も控えている。

アテナの聖闘士が行なうべき理念を顕正し 聖域が進むべき道を示すアテナと、その実践のために聖闘士たちを実際に指揮管理する教皇の揃い踏み。
それは この会見の重要性を物語るもので、氷河は、その二人の前で心身を緊張させることになったのである。

ハーデスとは、死せる人間が赴く冥府の王の名であり、アテナとは 神話の時代から熾烈な戦いを続けてきた神の名でもある。
地上の人類の存続を希求するアテナと、地上に存在する人類の一掃を企てるハーデス。
神話の時代から続く二柱の神の対立は、必然にして、避けようのないものだったろう。

もちろん、生まれてまだ20年足らずの氷河は、ハーデスがどんな神なのかを実際には知らなかった。
その姿も、考え方も、どれほどの力を持つ、どのような神なのかも。
だが、彼がアテナの永遠の対立者であり、人類の究極の敵だということは知っていた。
当然のことながら、聖闘士でもあり人間でもある氷河が、そんな神に好意など抱けるわけがない。
ハーデスは、氷河にとって――人類にとっても――ハーデスほど明確な“敵”は存在しないと断言できるほど確かな敵だった。

アテナとハーデスの最後の──“直近”という意味で──戦いが繰り広げられたのは、今から二百数十年前――と、氷河は聞いていた。
人類がまだ、刀剣等の金属製武器や弓、せいぜい投槍器や投石器などの武器をしか持たなかった頃の話である。
この二百年の間に、人類は火器を発明した。
人間たちは、大神ゼウスのいかずちのごとき武器をもって傷付け合うようになったのである。
それは、人間の残虐・醜悪を示すものとして、ハーデスに人類粛清の大義名分を与えることになる発明だった。

永遠の命を持つ神と神の戦い――アテナとハーデスの戦い――それは『聖戦』と呼ばれている――が断続的に起きるのには、それが神と神の戦いであるがゆえの事情があった。
神々は、人間の身体を借用して人間界での活動を行なう。
そして、人間の命は有限である。
神が その魂を宿した人間は死ぬことがあるのだ。
その人間が死ねば、神は、次に自らの魂を託す肉体を持つ人間の誕生を待たなければならなくなる。
しかし、神が その魂を託せるほどの人間は、そうしばしば生まれるものではなく、それゆえ、人類の存亡をかけた聖戦は非連続的にならざるを得ない――らしかった。

対立し合う二柱の神は、人間への降臨の仕方も対照的だった。
アテナは、その憑依を生まれる前の子供に対して行なう。
子供の生存率・成人する確率の低さを考えれば、それは大きな危険を伴うことであり、ある程度 成長した者の身体に神の意思を託せば、その危険は格段に減るのだが、アテナはそういう降臨の仕方を決してしなかった。
既に人格が形成された人間の肉体に神が降臨することは、彼(彼女)の人格と個人的歴史を奪うことになる――という理由で。

ハーデスは、その点、危険を最小に抑える やり方を採っていた。
ハーデスは、乳幼児期を過ぎ、子供のうちに死亡する可能性の低くなった者を、彼の魂を宿す器として利用する。
もちろん、ハーデスが採用している方法にも、肉体と魂の親和性を損なうという短所があるのだが、少なくとも これまでのハーデスの降臨の仕方はそうだった。
しかも、彼は、これまでのどの時代においても、若く美しく、心身共に群を抜いて清らかな者を選ぶというスタイルを貫いてきたらしい。
聖戦勃発の間隔が人間の平均寿命より はるかに長いのは そのためで、要するにハーデスは自分好みの人間が生まれなければアテナとの戦いを始めることさえしないのである。
人類にとっては、(おそらく)幸いなことに。

『ハーデスは、昔から、醜悪な人間たちはすべて滅ぼすべきだと言い張っているけど、彼は、清らかな人間が存在するから、この世界に降臨することができるのよ。すべての人間がハーデスの言うように醜悪であったなら、そもそも彼は この世界に降臨することができない。矛盾しているわね』
以前、冗談口調で、アテナは彼女の聖闘士たちに そう言ったことがあった。
『すべての人間が汚れを持つ者になれば、ハーデスは この地上に降臨しない――降臨できない。当然 聖戦は起こらず、人類は安泰――ということですか』
氷河がそう問うと、アテナは微かに首を横に振り、そして両の肩をすくめた。
『その時には、ハーデスは、彼自身の肉体で戦うことになるでしょうね。そうなれば、ハーデスも これまでのように優雅な戦い方はしていられなくなって、死に物狂いになる。そして、最後の聖戦が始まるの。本当に、人間が滅びる可能性も出てくる。それだけは避けたいわね』
『最後の聖戦――』

アテナが告げた その言葉に、氷河はぞっとしたのである。
アテナは常々、『すべての人間が人を思い遣ることを忘れ、愛を忘れてしまったなら――そんな世界が現出したなら、私はそんな世界は滅んでもいいと考えているわ』と言っていた。
ハーデスがその魂を託す価値ありと認められるほど清らかな人間を見付けられず、自らの肉体をもって最後の戦いを始めた時――その時には、アテナでさえ、もしかしたら人間の敵にまわるのかもしれない。
アテナの言う通り、『それだけは避けたい』と、氷河は腹の底から思った。

『だから――ハーデスがこの世界に降臨できるということは、彼が滅ぼすべきだと主張する醜悪な人間たちの中に、彼も認めざるを得ないほど清らかな人間がいるということよ。これまでの聖戦で、ハーデスが決定的な決着がつくところまで勝敗に執着しなかったのも、そういう事情が作用していると言っていいでしょう。ハーデスが人間界に降臨し 聖戦が始まるということは、考えようによっては いいことなのかもしれないわ』
どこまで本気なのかは わからなかったが、アテナは彼女の聖闘士たちにそう言ったことがあった。
ハーデスがその魂の器として選ぶ人間は、人類を滅ぼす力を有する存在であると同時に、人類の希望でもあるのかもしれないと。

この時代での、その人間がわかったというのだ。
当代にも、ハーデスが認めるほど清らかな魂の持ち主が存在するということは、もしかしたら喜ばしいことなのかもしれない。
だが、そうして始まる聖戦が、聖域に大きな犠牲を生じることになるのもまた、確かな事実。
前回の聖戦では、12人の黄金聖闘士のうち8人までがハーデス率いる冥界軍との戦いで命を落とし、白銀聖闘士は2名、青銅聖闘士は3名しか生き延びた者はいなかったと、聖域の記録には残っている。
聖域の聖闘士である氷河は、人類の希望でもある“清らかな人間”の降誕を『喜ばしいこと』とばかりは言っていられなかった。

「では、ハーデスは既にその者に?」
「いいえ。まだ、憑依はしていないようなの。問題の人物は、まだ10代半ばの、見ようによっては子供といっていいほどの少年らしいわ。ナルシストのハーデスが選んだわけだから、当然、相当 美しい少年でしょう。その少年の身柄の確保と保護を、あなたに頼みたいのよ」
アテナは なぜか その瞳に楽しそうな微笑を浮かべて、氷河にそう告げた。
言葉の上では、頼んで・・・きた――命じなかった。

「俺に?」
人類の存亡がかかった この事態。
その大任を任される者がなぜ俺なのだ――と、正直 氷河は思ったのである。
その疑念を、声にも表情にも出した。
「アテナの命令だというのなら、もちろん俺は命に代えても任務を遂行します。だが、俺は黄金聖闘士でも白銀聖闘士でもない。聖域では いちばん下っ端の青銅聖闘士だ。そんな重い仕事を俺がしていいのかどうか――」
人類の存亡がかかっている重大な任務を、そんな“下っ端”に任せることに不安を覚え、反対する者が出てくるのではないかと、氷河は思わないわけにはいかなかったのである。

だが、氷河の懸念を一蹴した。
相変わらず、その瞳に楽しそうな笑みを浮かべたままで。
「この仕事は、前代も前々代も――白鳥座の聖闘士の仕事なのよ。それが最もいい結果をもたらすと――」
「そういう予言でもあったのですか」
「いいえ。私の経験則。以前の白鳥座の聖闘士たちは皆、私の期待に応え、見事にその仕事をやり遂げて、人類を滅亡の危機から救ってくれたわ。私はその様を見てきたの。もちろん、その時には私は今のこの姿はしてはいなかったけど」

そう言って、アテナが、金と銀の混じった長い髪を その手にひと房 すくう。
その時・・・アテナの髪は黒色だったのか、栗色だったのか──。
これほど人間に親しく近しいところにいてくれるアテナは、紛れもなく永遠の命を持つ神なのだと、氷河は再認識することになった。

「しかし、俺は、ものを凍らせるしか能のない聖闘士で――」
「それは、今のあなたが、自分の持つ すべての力に気付いていないだけのことよ。大丈夫。あなたはこの仕事をやり遂げて、自分の内にある、もう一つの素晴らしい力に気付くことになるでしょう」
「……」
そこまで言われて、アテナの“頼み”を拒むことは、氷河には到底できるものではなかった。
いちばん下っ端の青銅聖闘士だからこそ、拒めなかった。
かくして、氷河は、得心できないながらも、アテナの頼みを承引することになったのである。

氷河が その任務に就く意思をアテナに告げると、彼女は、
「問題の人物のいる詳しい場所と細々した指示は彼から聞いてちょうだい」
と言って、先程から無言でアテナと氷河のやりとりを聞いていた教皇の方を指し示した。
「あまり詳しいことは 私にもわかっていないのだけど、行けばわかると思うわ。ハーデスが、一般に埋没するような子を選ぶはずがないから。よい報告を待っているわね」
「はい」
弾むようなアテナの声とは対照的に重い声で、氷河は彼女に頷いたのである。
彼の女神の軽快さに、少々 目眩いを覚えながら。

アテナは、元来 楽天的な神である。
でなければ、人間の持つ醜悪に絶望せず、『人間に生きる価値あり』と信じていられるわけがない。
しかし、それにしても、今日のアテナは明るすぎ軽すぎるのではないかと、氷河は思った。
人類の存亡がかかった聖戦が始まろうとしているというのに、彼女はむしろ普段より明るいのだ。
そして、明るい小宇宙の片鱗を残して、彼女は その場から立ち去っていった。


明るく楽天的なアテナが席を外し、その場にいる者が氷河と教皇の二人だけになると、途端にその空間は ぴりぴりした緊張感で覆われた場に一変した。
教皇が、アテナの分も暗く重苦しい威圧感をもって、氷河の前に立つ。

彼は、12人いる黄金聖闘士の中の誰かだと言われていたが、完全に顔を覆い隠す仮面をつけているせいで、実際の顔や声を窺い知ることは不可能だった。
もちろん、その小宇宙も完璧に隠している。
その教皇は――アテナと共に聖域を指揮管理する立場にある教皇は――アテナの“頼み”とは全く違うことを氷河に指示してきた。
仮面に遮られているせいで くぐもってはいるが、そのせいばかりとは言えない暗い声で。

「アテナは身柄の確保と保護とおっしゃっていたが……わかっているだろうな。ハーデスの降臨を不可能にするのが、おまえの務めだ」
「それは……俺に その少年の命を奪えということですか」
氷河は、少なからず驚いて、教皇に尋ね返したのである。
それはアテナの意に沿う指示なのか、と。
教皇は、だが、自らの指示がアテナの意に沿っているかどうかということには全く頓着していないようだった。
彼が案じているのは、あくまでも世界と人類の存続で、アテナの意思ではないらしい。
不吉なほど暗い声で、彼は彼の理を氷河に説いてきた。
「それで、ハーデスとの聖戦を200年は先送りできる。その分、人類の存続期間が延びる。聖域の人的被害も最小限に食い止められる。地上の平和と安寧を守るためだ。その少年には気の毒だが、彼には人類のために犠牲になってもらわなければならない」
「……」

氷河は、教皇の指示に即座に頷くことができなかったのである。
一人の少年の命で、この地上が死の世界にならずに済むのだとしたら、それは確かに小さな犠牲なのかもしれない。 
しかし、その少年には何の罪もないのだ。
アテナの“頼み”より教皇の“指示”の方が合理的だと思うのに、そして、教皇の言がアテナを守るためのものでもあるということはわかっているのに、氷河は、どうしても彼の指示を『正しい』と思うことができなかった。






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