アテナの“頼み”と教皇の“指示”の間で迷いながら、氷河が赴いた先。
教皇に教えられた場所は、ギリシャと小アジアの国境にある山間の小さな村だった。
住民は、おそらく300にも満たないだろう。
山や川で世界から隔絶されているような小村には、最近 世間を席巻しているキリスト教の教会や集会所の類もないようだった。
宣教師がやってきたことくらいはあるのかもしれなかったが、世界の時の流れから取り残されているような こんな村の住人は、キリストの教えも素直に受け入れるが、父祖の時代からの古い信仰を捨てることは少ない。
そういう場所では、キリスト教の宣教師たちは、アテナやアルテミスを聖母マリアになぞらえて、文字を読めない者たちにキリスト教の教義を説明しているという話を、氷河は聞いていた。

氷河が足を踏み入れた小村は そういう村の典型で、そこでは一神教の神と多神教の神が見事に共存していた。
氷河が村の指導者的立場にある長老に、自分は聖域から来た者だと告げると、彼は 外の世界からやってた異邦人を、神に遣わされた使者として即座に畏まってくれた。

聖域という組織は 公のものではないが、それは数千年の昔から、伝説的に その存在を信じられているもの。
イエスなどという人間・・よりは、この世界が生まれた時から神として存在したギリシャの神々の方が、彼等の心に深く根づいている真の神ということなのだろう。
聖衣を着けずに村に入った氷河は、自分が聖域から来た者だという証拠を示すために、指で触れるだけで石を粉々に砕いてみせたのだが、もしかしたら最初から そんなことをする必要は全くなかったのかもしれなかった。

「聖域のお方が、いったいこんな辺鄙な村にどのようなご用で?」
村の長は、女神アテナの使いである氷河に 腰を低くして尋ねてきた。
長老に問われた氷河は、一瞬、答えに窮することになったのである。
アテナの聖闘士として アテナの頼みと教皇の指示のいずれに従うべきなのかということにばかり気をとられていた氷河は、問題の人物に辿り着くための具体的な方策を全く考えていなかったのだ。
まさか、『この地上の人間すべてを滅ぼす力を持つ邪神になる者を捜している』と、本当のことを無辜の第三者に知らせるわけにはいかない。
しかも、氷河は問題の人物の名前すら知らなかった。

結局、氷河は、彼に、
「あー……この村でいちばん美しい人間はどこにいる」
という、実に曖昧かつ芒洋とした質問を投げることになったのだった。
その曖昧な質問に、即座に答えが返ってくる。
「瞬にご用ですか」
「……」
長老から 全く迷った様子のない答えが返ってきたことに、氷河は意外の感を抱いたのである。

“美しさ”という価値は非常に主観的なもので、すべての人間に共通する尺度は存在しない。
にもかかわらず、すぐ名が出てくるということは、この村には間違いなく 普通の人間とは一線を画した美貌の持ち主がいるということ。
わざわざ村中を捜しまわるまでもなく――あまりに たやすく――聖域からの使いは問題の人物に辿り着けてしまったということだった。
『ハーデスが、一般に埋没するような子を選ぶはずがないから』というアテナの言葉を思い出しながら、氷河は長老に教えられた家に向かうことになったのだった。


地上の人間を根絶やしにする力を持つことになるかもしれない人物の住まいは、村の外れに建つ、ごく小さな家だった。
家の周囲が畑になっていて、几帳面に区画された畑に幾種類かの野菜が植えられている。
その家の住人らしき少年が、葦で編まれた籠を持って、畑の中を行ったり来たりしていた。
問題の人物は一人暮らしをしているということだったので、その少年が聖域からの使いが目指す人物ということになるらしかった。

世界を滅ぼす力を手に入れるかもしれない少年が身に着けているのは、質素な麻の服。
暮らし向きは、どうやら あまり楽ではないらしい。
そして、彼は確かに、人口300人の村でなら いちばん美しいのだろうと思えるような佇まいをしていた。
が、はたして神が目に留めるほどの人間だろうかと、彼の横顔を遠目に見ていた時には、氷河は思ったのである。

氷河の姿を認めて、少年がその足を止める。
彼は、初対面の異邦人に特に警戒した様子もなく、氷河のいる方に歩み寄ってきた。
「聖域から来た者だ。君の家に泊めてほしいと――」
畑を囲む低い柵の外側から、氷河は とりあえず 当たり障りのないことを口にしかけた。
が、その少年と目が合った途端に、氷河は、我知らず息を呑み、言いかけていた言葉を途切らせることになってしまったのである。

確かに、彼は、少女と見紛うほど優しく可愛らしい面差しの持ち主だった。
だが、顔の造作だけなら、彼と同じ程度の美しさを持つ人間は他にもいるだろう。
氷河は、そう思った。
彼が尋常でないのは、その瞳だった。
冥府の王が その魂を委ねる価値があると認めた少年は、その緑色の瞳が尋常でなく澄んでいたのだ。

西に傾き始めた陽光の中で、まるで それ自体が光を発しているように きらめく瞳。
それは、冷たい宝石のような輝きではなく、水や氷の持つ光とも違っていた。
春の暖かな微風のような、あるいは、春に咲く花のような輝き。
彼が美しいのは、その瞳と 瞳が作り出す印象だった。
これなら神も心を奪われるだろうと、氷河は素直に認めることになったのである。

「聖域から……?」
「あ……ああ、そうだ。村の長老に、この村で いちばん親切な人間を紹介してほしいと頼んだら、君を紹介された」
氷河が事実とは微妙に違うことを言ってしまったのは、ハーデスが魅せられた少年の瞳が生む光に、彼が惑乱させられてしまったからだったかもしれない。
その瞳に 目が眩んでしまっていたせいだったかもしれない。
いずれにしても、彼は『この村でいちばん美しい人間として紹介されてきた』とは言いにくい――言ってはならないと、氷河に思わせるような少年だった。
その少年の持つ雰囲気は、そんな簡単な言葉で表現してしまっていいものではなかったのだ。

聖域からの使者は、少年の稀有な美貌と彼がまとう雰囲気の感触に圧倒されているというのに、聖域からの使者を圧倒している少年は、自分がそんな力を発していることを全く自覚していないらしい。
彼は、子供らしくない・・・・・・・優しさと穏やかさをたたえた子供のような・・・・・・眼差しで、少し困ったように氷河の顔を見上げてきた。

「僕が この村でいちばん親切な人間かどうかは わかりませんが、僕が この村で いちばん貧しい人間なのは確かです。僕の家には、やわらかい寝台も、たくさんの食料もありません。満足のいくおもてなしができるかどうか……」
「寝台が硬くても、土間で寝ることになっても、満腹になれなくても、異邦人には 優しい人間がいる家が最も心地良いものだろう!」
貧しくて十分な もてなしができない――そんな理由で 他の家など紹介されてしまっては たまらない。
氷河は、即座に、噛みつかんばかりの勢いで彼に反駁した。

ハーデスに選ばれた少年が、氷河の勢いに驚いたように、2、3度 瞬きを繰り返す。
ほとんど他意なく ついた嘘だったのだが、『村で いちばん親切な人間を訪ねてきた』という嘘は、どうやら 今は良い方に作用したようだった。
村で いちばん親切な人間に邪険にされてしまったら、この村には遠来の客に宿を提供してくれる家はないに違いない――そう考えているから、聖域からの訪問者は ここまで必死な様子を見せるのだと、彼は、氷河の(見ようによっては)奇異な態度を解してくれたらしい。

「そういう満足なら、提供できるかもしれません」
クレソンやパプリカの入った籠を右手から左手に持ち替えて、彼は氷河を彼の家の中に招き入れてくれた。






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