氷河が、ハーデスの傀儡になり人類を滅ぼしてしまうことになるかもしれない少年――瞬――の家で、地上の平和と安寧を守る聖闘士にふさわしいことを何ひとつせずに時を過ごすことになったのは、彼が アテナの頼みと教皇の指示のどちらがアテナの聖闘士が為すべき行ないなのかを迷っていたから――ではなかった。
かといって、聖域と人類の最大の敵になるかもしれない人間を冷徹な目で観察していたわけでもない。

遠方からの客の疲れを癒そうとして示される気遣い、確かに贅沢なものではなかったが、貧しいなりに精一杯の思い遣りで作られたのだろう食事、突然 押しかけてきた客に寝台を明け渡し、自分は床に藁を敷いて眠ろうとする心尽くし――。
時間をかけて観察しなくても、瞬が優しく親切で善良な人間であることは、氷河には 出会いの日が終わる前にわかっていた。
瞬は、何があっても、人間界の滅亡など望みそうにない少年だった。
自分が そんな悪逆非道の片棒を担がされるとわかったら、それだけで世を儚んでしまいそうな――善良ではあるのだろうが、大きな試練に立ち向かうこともできそうにない――大人しい少年だった。

善良で心優しく、清純。
普通の人間なら、それだけの美徳を備えていれば――しかも、瞬は美しい――それ以上の何かを求められることはないだろう。
だが、アテナの聖闘士である氷河には、瞬が善良で優しいだけの人間であることは、非常に大きな、憂うべき問題だった。

たとえば瞬が、聖闘士のように肉体的強靭は無理でも、性格的精神的な強さや たくましさを備えている人間であったなら、『瞬は、たやすくハーデスの支配を受け入れることはしない』と主張して、教皇の指示を撥ねつけることもできただろう。
だが、瞬には そんな強さの片鱗もなく、むしろ、『善良の他の美徳を挙げろ』と言われたら、『従順と忍耐』と答えるしかないような少年だった。
守ってくれる親もなく、到底 恵まれているとは言い難い境遇に 恨み言のひとつも言わず じっと耐え、自分にそんな境遇を与えた神や運命に 反抗心も反発心も抱かず従順に従う瞬。
これでは瞬は、ハーデスの支配に抗うどころか、諄々と自分に与えられた運命を──ハーデスを──受け入れてしまいかねない。

だが、氷河は、『強くないから』という理由で この心優しい少年の命を奪うことは理不尽だと感じないわけにはいかなかった。
善良で弱い人間――それこそアテナの聖闘士が守るべきものと、氷河は多くの先達たちに指導を受けてきたのだ。

氷河は、アテナの頼みと教皇の指示の間で迷ってはいなかった。
どうにかして この少年の心身を守ることはできないものかと、それだけを考えて、氷河は日々を過ごしていたのである。


「氷河は、どうしてこの村にやってきたの? ここは、美しい風景以外には何もないのに」
瞬が、いかにも遠慮がちなていで 氷河に そう尋ねてきたのは、氷河が瞬の家に転がり込んで2、3日が経った頃だった。
「あの……氷河が ここにいてくれるのは嬉しいの。僕、ずっと一人だったから。でも、あの……」
ある日 ふらりとやってきて、頼まれもしないのに 毎日 水汲みや柵の修繕やらをして時を過ごす聖域からの使者というものに、瞬が奇異の念を抱かないでいる方がおかしい。
氷河は、瞬に そう問われたことに、(瞬が懸念しているように)腹を立てたり、機嫌を損ねたりすることはしなかった。
ただ、返答に困りはしたが。

善良で か弱い人間を恐がらせてしまいそうで、氷河は瞬に本当のことは言えなかった。
「おまえに会うためだ」
決して嘘ではないが、真実の断片でしかない答えを選んで、シュンに返す。
瞬は、それを真実が全く含まれていない冗談と思ったらしく、くすくすと楽しそうに含み笑いを洩らしてみせた。
「親切にしてくれる人が欲しかったの?」
そう言って、頑丈なことだけが取りえの木の卓の上に、瞬がハーブ水の入った錫のカップを置く。
「まあ、そういうことだ」
氷河は そのカップを手にとり、瞬に真実を知らせずに済んだことに胸中で安堵しつつ、この家の主に頷いた。

「最近、この村に何か異変は起きていないか? おまえの身のまわりで、不思議なことや――これまでなかったようなことは。どんな些細なことでもいい」
「異変? 特には ないと思うけど……。この村は、百年前もこうだったんだろうって思えるほど、変わることを知らない村だから」
「……そうか」

瞬は、この村の変化のなさに不満を感じてはいないらしい。
やわらかく微笑みながら、瞬は氷河に そう答えてきた。
瞬は、若者特有の血気や苛立ちに囚われ現状の変革を望むタイプの人間ではなく、日々の穏やかさを愛することのできる人間なのだろう。
瞬は、多くを望むことなく、現状を静かに受け入れる。
それは決して悪い性質ではない。
それどころか、むしろ それは、人間を最も容易かつ効率的に幸福に至らせることのできる 優れた美質なのかもしれなかった。
そういう性向の持ち主は、滅多に敵を作らないし、世界と対立することもない。
ほとんど変化のない小さな村に暮らす、平穏を好む人間――瞬は、幸福な人生を穏やかに生き、そして死んでいけるはずの人間だった。
ハーデスに目を留められるようなことさえ なかったら。

にもかかわらず、瞬は、平穏などというものは到底 望むことのできない運命を、その身に割り振られてしまった。
瞬の人生の行く手には、大きな試練が待ち受けている。
そういう人間が争いや対立を好まない人間だということは、むしろ不幸なことといっていいだろう。
瞬自身にとっても、瞬以外のすべての人間たちにとっても。

「もし――もしもの話だぞ。神が、地上で最も清らかな人間に、この世界を与えると決めた。その人間がおまえだと言ったら、おまえはどうする?」
「僕がこの手で抱けるのは、人間一人がいいところです。世界なんて、大きすぎて、僕には持てない」
「世界を持つことはできないだろうが……。では、山のような金貨や宝石はどうだ。金貨や宝石なら、その手で持てる。多くの人間を おまえの思い通りに動かすことができる力を、おまえに与えることになるだろう」
「多くの人を動かせるのは、その宝石や金貨の力でしょう。僕の力じゃない。そんな力を持っても、空しいだけだと思うけど」
「……その通りだ」

美しく善良なだけでなく、瞬は賢い。
この美貌と聡明があって 野心を抱かずにいられることが、氷河には不思議でならなかったのだが、現に瞬は無欲で素直な人間だった。
だから、氷河は瞬を殺したくなかった。
殺したくないと、痛切に思った。






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