氷河と瞬が、興を殺ぐ用件を抱えて ここに来たのは、もちろんグラード財団総帥 城戸沙織の指示を受けてのことである。 あろうことか、沙織はこの教会にあるオルガンの購入を、教会の責任者と掛け合ってくるようにと、氷河と瞬に命じたのだった。 事の起こりは、グラード財団麾下の建築プランサービス会社が某地方都市に大小2つのホールから成る文化センターの企画設計を請け負ったこと。 その地方都市は日本を代表するオルガンビルダーの出身地で、北側の大ホールでは既に彼がパイプオルガンの建造を開始している。 彼の作るパイプオルガンは欧州北方系の巨大なもので、完成の暁には、世界最大規模と言われているサントリーホールのパイプオルガンと肩を並べるほどのものがホールを支配することになっていた。 その北側ホールより小規模な南側ホールには、南方系の声楽的なハルモニウムオルガンを置いて、文化センターへの近寄り難さを払拭するのが適切だろうと、グラードの建築プランナーは考えた――らしい。 とはいえ、そこに、市販のちゃちな(という表現を沙織は使った)オルガンを置くわけにはいかない――それでは釣り合いがとれない。 そこでプランナーは、南側ホールに置くオルガンには、規模ではなく歴史を求めることにしたのである。 そのために彼は、南側ホールのデザインと雰囲気に合うオルガンを日本全国に探し求め、調査の結果、この教会にあるオルガンが最適という結論に至った――という話だった。 言ってみれば、これは純粋なビジネスの交渉である。 そういう交渉の場に素人が出ていって何になるのだと、もちろん氷河は沙織を問い質した。 すると沙織は、問題のオルガンは ある伝説を持つもので、カップルで見に行くのがふさわしいものなのだと言って、彼女が手に入れようとしているオルガンにまつわる伝説を、氷河と瞬に語ってくれたのである。 伝説――といっても、それは たかだか百数十年前に成立したもの。 カップルに人気の観光地などによく転がっている、『この浜辺で愛を誓えば』『この木の下で愛を誓えば』といった類の、どこか胡散臭さを感じる(と氷河は思った)伝説だったのだが。 そのオルガンは、結婚式を挙げようとしている新郎新婦が神の御心に沿った二人であるなら、二人が聖堂に入ると ひとりでに鳴り出すのだが、二人が神の御心に沿わない二人である時には 決して鳴らない――と言われている代物らしい。 沙織がそのオルガンを欲しいのは、問題のオルガンが そういう伝説を持つものだからではなく、むしろ その伝説のせいでオルガン売買交渉が難航することを彼女は懸念しているようだったが、ともかく、氷河と瞬が沙織に『譲ってもらうことは可能かどうか、打診してきてほしい』と言われたオルガンは そういう伝説を持つオルガンだった。 なぜ聖闘士である自分たちがそんなことをしなければならないのだと思いつつ、聖闘士であるがゆえにアテナの命令には逆らえなかった二人は、結局 沙織の代理として この教会に足を運ぶことになったのである。 1世紀以上昔に建造された教会は音響効果に優れているとは言い難く、オルガンの音の響き方には かなりムラがあった。 おそらく、聖堂の前方の席にいる者と後方の席にいる者とでは、同じ演奏が かなり違った音になって聞こえる。 とはいえ、そのムラが必ずしも悪い方向に作用しているとはいえない。 むしろ、その不器用で不公平な響きが 素朴な信仰心を誘う効果を有しているようで、音の印象自体は決して悪いものではなかった。 「神の御心に沿う二人が聖堂に入ると勝手に鳴り出すオルガンなんて、胡散臭さの極みだ。どうせ、オルガンを弾いていたのは神なんかじゃなく、新郎か新婦の親族から たっぷり心づけをもらった人間だったんだろう」 「氷河って、意外とロマンチストじゃないんだね」 瞬が、言葉通りに、意外そうな目をして氷河の顔を覗き込んでくる。 が、当の氷河は、自分が瞬にロマンチストだと思われていたことの方が意外だったのである。 自分ほど地に足をつけて生きている男はいないと、彼自身は思っていたから。 「人間の作為がないのに勝手に鳴り出すオルガンなんて不気味なだけじゃないか。オカルト・ホラーは悪霊や悪魔の領域だ。神への信仰とは相容れない」 「それはそうだろうけど……あ、止んだ」 オルガンの演奏が終わっても、聖堂内には数十秒ほどの残響が残る。 その残響が完全に消えた頃に、祭壇の脇にある小さな扉から、司祭らしき初老の男性が堂内に入ってきた。 背後を振り返りながら首をかしげているところを見ると、彼は今のオルガン演奏を怪訝に思っているらしい。 氷河と瞬の姿を認めると、彼は 僅かに急ぎ足になり、深紅のバージンロードを 聖堂正面扉の方に向かって“逆走”してきた。 「ああ、すみません。驚かれたでしょう。式の参列者は全員出ていったのだと思って、助祭の誰かが弾き出してしまったらしい。城戸様のお使いの方ですか」 「あ、はい。やわらかい音色なので驚いたりは――すみません、お忙しいところ、お時間を割いていただいて」 「いえいえ」 司祭が身に着けている長白衣の肩には、平和と永遠を表す緑色の頸垂帯がつけられている。 彼の司式のもとで、先程の新郎新婦の結婚式は行なわれたのだろう。 おそらく この教会の主任司祭で、教会の責任者の一人ではあるのだろうが、彼はビジネスの話に向いているとは到底思い難い柔和な表情の持ち主だった。 「しかし、オルガンを譲ってほしいという お申し出はこれが初めてで、少々驚きました。例の“噂”のせいか、オルガンを調査したいとか取材させてほしいという お申し出は よくいただくのですが……。何の変哲もない古いオルガンですので、調査が目的でしたら、わざわざご購入いただかなくても、いつでも開示いたしますよ。もちろん、演奏できなくなるほど ばらばらに分解されてしまっては困りますが」 司祭の話しぶりから察するに、今日のアポイントメントが取れたのは、彼にオルガンを売る気があるからではなく、むしろ売る気がないからのようだった。 そして、彼は、沙織の申し出の目的を誤解しているらしい。 「素敵な伝説のあるオルガンなんだから、譲ってもらうのは無理なんじゃないかと、城戸には何度も言ったんですが……」 瞬が、あくまでも目的は購入だということを、さりげなく司祭に告げる。 司祭は、困ったような顔になった。 それも致し方のないことと瞬は思ったのだが、司祭の困惑顔は、瞬たちの来訪の目的がオルガンの購入だということを知らされたからではなかったようだった。 彼を困惑させたのは、どうやら瞬が口にした“素敵な伝説”の方だったらしい。 司祭の口調は、微妙に歯切れの悪いものに変化した。 「あの噂が素敵かどうかは……。式の時に当教会のオルガンが鳴らなかったことはありませんよ。少なくとも、私がこちらに赴任してきてからは一度も」 教会としては、オルガンが儀式の際に鳴らないことがあるという評判は、あまり好ましいものではないのかもしれない。 瞬が“伝説”と言ったものを、司祭は“噂”と表する。 司祭のその態度から、氷河は、“素敵な伝説”にはあまり公にしたくない事情があるのだという直感を得ることになった。 「やはり、何か仕掛けがあったのか」 氷河が尋ねると、はたして司祭は、まさに苦笑としか言いようのない笑みを氷河たちに向けてきたのである。 『あまり公にしたくない事情』は、『絶対に公にしてはならない深刻な事情』というものでもないらしく、司祭は ためらう様子もなく二人に頷き返した。 「伝説の裏側の記録が残っているんですよ」 「伝説の裏側の記録……?」 ロマンティックではない話を聞くことになりそうだと、瞬は、司祭から実際に話を聞く前に少々落胆してしまったのである。 「ええ。今もそういうところがないではありませんが、戦前の日本では、結婚は家と家の間で為されるものという考え方が一般的でしたからね。いわゆる政略結婚で、好まない式を挙げるところにまで追い込まれた男女も多かったのですよ。そういった事情を抱えた新郎なり新婦なりに、事前にオルガンを鳴らさないでくれと頼まれた時に、事情を酌んでオルガニストがわざと演奏しなかったことが幾度かあったようなのです。意に染まない結婚を強いられた方々が、あえてこちらの教会を式場に選んで、破談を企てたことも ままあったらしく、その記録が残っていているのですよ。もちろん、公的なものではなく、ごく私的な、覚え書き程度のものなのですが」 それは もしかしたら、将来 不幸になっていたかもしれない二人の男女を救ったという意味で、十分に人道的な行為なのではないかと、氷河は――実は瞬も――思ったのだが、司祭は そういった行為を 良いこと正しいことと捉えてはいないようだった。 確かに、司祭の立場にしてみれば――教会側にしてみれば――婚姻を破談にできる教会というのは、名誉な評判でも 好ましい伝説でもないのだろう。 「今は、そういうことはありませんよ」 と、司祭は、氷河と瞬に重ねて断言してきた。 「でも、そんなことは普通の教会ではないことでしょう? この教会にだけ、どうしてそんなことを頼みにくる人たちがいたんですか?」 「伝説を生む きっかけになった出来事があったのです。一度だけ、もちろん、ただの偶発的な事故にすぎませんが」 「偶発的な事故?」 ロマンティックで素敵な伝説――もしかしたら“奇跡”かもしれない出来事を――あくまでも偶発的な事故にしておきたいらしい司祭の様子が、瞬には不思議でならなかったのである。 だが、瞬は、以前、カソリックの“奇跡”の判定は難しく、バチカンには奇跡調査官なる役職もあるという話を聞いたことがあった。 もし その偶発的事故が人為的なものであった場合、“奇跡”の認定欲しさの詐欺行為、もしくは売名行為と疑われる可能性があるかもしれず、司祭はそんな事態を心配しているのかもしれないと、瞬は思い直すことになったのである。 ただ神を信じていればいい信者とは違って、宗教界という社会の中に身を置く聖職者は色々と大変なのかもしれない――と。 「この教会ができた直後――明治時代のことですが、フランス人の男性とイギリス人のご婦人が こちらの教会で式を挙げようとした時に、どういうわけかオルガンが鳴らなかったことがあったのです。新婦は裕福な未亡人で、彼女の結婚は再婚。周囲の勧めで結婚を決意されたのだそうですが、もともと ためらいがあったのでしょう。彼女は、オルガンがちゃんと鳴るようになってから改めて完璧な式を挙げたいと希望した。教会側は、オルガンが鳴らなかったのは自分たちの不手際と思っていましたから、その希望を容れ、式を1週間延期したのです。ところが、そんなことがあった2日後に、歴史上一番短い戦争として有名なイギリス・ザンジバル戦争で亡くなったと思われていた彼女のご主人が実は生きていたことがわかりまして……。神の御心に沿わない二人が式を挙げようとしたから、オルガンが鳴らなかったのだという噂がたったのです」 「オルガンは故障していたんですか」 「いや、翌日には ちゃんと鳴ったのですよ。たまたま その時だけ、事故で鳴らなかっただけなのに、それ以来、『オルガンを鳴らさないでくれ』『間違いなく鳴らしてくれ』と頼む人たちが続出したのだそうです」 たまたま その時だけの事故――奇跡とは、どんな奇跡でも そういうもの、そんなふうに起こり、そんなふうに見えるものなのではないかと、宗教界の外にいる瞬は素直に、単純に思った。 「『鳴らさないでくれ』はともかく、『鳴らしてくれ』とわざわざ頼んでくる人もいたんですか?」 「面白い記録が残っていますよ。こちらは昭和に入ってからのことですが――戦後 成り上がった素封家の令息と元華族の令嬢の結婚話があったのですね。典型的な政略結婚で、周囲の人間も その結婚は当人たちの本意ではないだろうと思っていた。どらちかが破談を企てて、当教会を式場に選んだのだと、皆が思っていた。ところが、二人は実は好き合っていて、当教会の伝説を逆手にとった計画を立てていたらしい。二人は式の前日にこちらの教会にやってきて、オルガンが鳴らないことのないように、むしろ特に盛大に鳴らしてくれと頼んでいったのだそうです」 「なんだか、微笑ましいエピソードですね」 この教会に入って初めて、瞬が その顔に微笑を浮かべる。 瞬の隣りで ずっと瞬の様子を窺っていた氷河は、顔には出さずに、瞬の笑顔に安堵したのである。 司祭の上に視線を移し、彼は浅く頷いた。 「ロマンも神の御心もあったもんじゃないが、その方が断然いい」 「そうですね」 それには司祭も同感らしく、彼は その柔和な顔に静かな笑みを刻んだ。 司祭は、もしかしたら、宗教界の面倒事を避けるために“伝説”を否定しているのではなく、たまたま起こった偶発的な事故より、地上で懸命に生きている人間の心が生む愛の方に価値を置いているだけなのかもしれない。 そう考えて――感じて――瞬は、司祭に好感を抱いたのである。 そんな司祭の前に 不粋なビジネスの話を持ち出すのは 気が進まなかったのだが、これも役目。 瞬は、少々遠慮がちに 沙織からの不粋な提案を彼に披露する作業に取りかかった。 「城戸は、こちらのオルガンを譲っていただけたら、代価は相場以上のものを支払うと言っています。あるいは、こちらの聖堂にパイプオルガンを建造するくらいのことはしてもいいと言っているのですが……」 「あんな小さな古ぼけたハルモニウムオルガンの代わりにパイプオルガンですか……」 瞬の言葉に、司祭は、かなり長く深い感嘆の息を洩らした。 それも当然のことだろう。 沙織の提案は、1オクターブしか鍵盤のない玩具のピアノの代わりにグランドピアノを進呈しようと言っているようなもの。 乱暴な言い方をすれば 少し大きな箱にすぎないハルモニウムオルガンと違って、パイプオルガンは巨大建造物なのだ。 欧州ではパイプオルガンを備えた教会は珍しくもないが、日本ではごく少数。 鳴らないオルガンなどより よほど多くの人を教会に引きつける材料になるのではないかと、彼の心が揺れなかったわけではないだろう。 それでも、彼は、最終的には首を横に振った。 「せっかくお運びいただいたのですが、これはお金の問題ではありませんし、やはり お譲りすることは――。パイプオルガンを建造するとなったら、教会は半分以上建て直すことになるでしょうから、その間、多方面に迷惑をかけることになりますし……」 無理難題を持ち掛けたのは城戸とグラード財団の方だというのに、無理難題を持ち掛けられた側の人間である司祭が申し訳なさそうな顔をするのに、瞬は――瞬こそが――申し訳ない気持ちになったのである。 「あ、僕たちも、城戸に頼まれてしぶしぶ来ただけですので、お気になさらず……。城戸には やはり駄目だったと言っておきます。オルガンの演奏が聴けて嬉しかった」 「何のサービスかは知らないが、来た甲斐はあったな」 「ああ、驚かせてすみません。まったく、誰がいたずらしたものやら」 来訪者が気を悪くしていないことを認めて安堵したのか、司祭の表情が和らぐ。 そうしてから二人の姿を改めて眺め、彼は 眩しいものを見るように その目を細め、浅く頷いた。 「オルガンは、ですが、お二人が神の御心に沿ったお二人だから鳴ったのかもしれませんよ」 「え……?」 どうやら 司祭は、瞬を少女だと思っているらしい――最初から ずっと そう思っていたらしい。 瞬がそういう誤解を受けるのは これが初めてのことではなく、いつもの瞬なら誤解を訂正するのも空しいと言わんばかりに苦笑して、それだけで済ますのだが、瞬は今日は その口許に微かな笑みを浮かべることさえしなかった。 代わりに、力なく首を横に振る。 「僕たちは神の御心には沿っていない……」 「は……?」 急に沈んだ表情になった瞬に、司祭が首をかしげる。 「まあ、俺たちは 神の家のオルガンの略奪を企てるような輩だからな」 氷河が素早くフォローを入れると、何も知らない司祭はすぐに笑顔に戻り、首にかけていた十字架に手を当ててみせた。 「主は そのようなことで お怒りになったりはしませんよ。ご安心ください」 「それはありがたい」 本来の目的を果たすことはできなかったのだが、代わりに 神の許しの秘蹟を手に入れて――二人は神の家を出たのである。 神の家を出ると、そこには まだ、雲一つなく高い秋の空が広がっていた。 気遣わしげな目をしている氷河の機先を制するように、瞬が口を開く。 「肝心のオルガンを見ずにきちゃったね。沙織さんに何て言おう」 「……事実をそのまま言えばいい。俺たちが足を踏み入れた途端に、伝説の通りにオルガンが鳴り出した。あのオルガンはあの教会にあって、神の意に沿う二人を祝福し続けるべきものだとな」 「氷河……」 世界は爽やかに晴れ渡っているというのに、瞬の瞳だけが雨気を帯びてくる。 だが、こればかりは、もしかしたら神にもどうすることもできないことである。 氷河にできることは、ただ、心細げな様子をした瞬の肩を抱きしめてやることだけだった。 「いずれにしても、沙織さんは今朝からギリシャに行っている。戻ってくるのはあさってだそうだから、それまでにオルガン奪取を諦めさせる理屈を ゆっくり考えればいい。沙織さんも、相手に譲る気がないものを無理に奪い取るようなことはしないだろう」 「うん……」 瞬が小さな声で頷く。 代理人を通してとはいえ、二人に寛大な許しの秘蹟を授けてくれた神を、氷河は嫌いになりかけていた。 |