その夜の瞬は、いつもと様子が違っていた。
氷河の部屋にやってきた時刻が、そもそも いつもより1時間以上遅かったし、やってきてからも、瞬はずっと その身をすくませていた。
にもかかわらず、氷河が「今夜はやめておくか」と尋ねると、その言葉に怯えたように氷河にすがりついてくる。

それは、心が不安定になっている時の瞬の癖だった。
そういう時の瞬は 心だけでなく肌までが 常以上に敏感になるので、瞬のそういう不安定を、氷河は必ずしも歓迎していないわけではなかった。
こういう時の瞬は、いつもより早く自制心を放棄し、いつもより強い愛撫を氷河に求めてくるのが常だったから。
そんな瞬を、氷河は決して嫌いなわけではなかったのである。
ただ、瞬がそういう不安定な状況にある時、瞬の恋人は 事後のフォローを平生の10倍 注意深く行なわなければならなかった。

「あのオルガン……。きっといろんな人が、間違いなく鳴らしてほしいって頼んだり、他に好きな人がいるから鳴らさないでくれって頼んだりしたんだろうね」
鼓動の速さが通常のそれに戻り、火照ほてり上気していた身体から熱が引くと、瞬は氷河の腕に両手を絡めてきた。
神に救いを求めることはできないから、代わりに恋人にすがりつこうとしているかのように。
「かもしれんな。それを神の御心のせいにされたんじゃ、神もいい迷惑だろう」
「うん、そうだね……」

瞬の声には全く覇気がない。
いつもの羞恥と艶の混じった蠱惑的な響きも、今日の瞬の声は有していなかった。
それは、乾き 強張り、にもかかわらず、涙を帯びている。
だから、氷河は、できれば訊かずに済ませたかったことを、瞬に尋ねないわけにはいかなくなったのである。
ベッドの上に上体を起こし、瞬の唇にキスをしてから、氷河は尋ねたくないことを瞬に尋ねた。
「おまえは、神の祝福がほしいのか」

自分の消沈が氷河の瞳を凍てつかせてしまったことに気付いたらしい瞬が、慌てて首を横に振る。
そうしてから、瞬は、かなり ぎこちなく、唇だけで微笑の形を描くことをした。
「そんなことないよ。神の祝福っていうのなら、僕たちには、自由主義を極めたアテナがいて、僕たちのことを認めてくれてるし――」
瞬が、白く細い腕をのばし、氷河の髪に指を絡めてくる。
「僕は、氷河がいてくれれば、それでいいの。ただ……」
「ただ?」
「氷河、一応、クリスチャンでしょう」
「俺は即物的な男だ。神よりおまえが欲しい」

氷河は、瞬の心に不安や迷いを生じさせないために、ほとんど間を置かずに 瞬にそう告げた。
が、瞬の心がそんな言葉で慰められなかったのは火を見るより明らか。
にもかかわらず、瞬は、即物的なクリスチャンのために、虚言を吐くという罪を犯してくれた。
「僕も、氷河以上に即物的なの」
そう言って、瞬が両の腕を氷河の背にまわしてくる。

瞬の心を慰める術を思いつかなかった氷河は、瞬の嘘に縦にとも横にともなく首を振り、そして、瞬の胸元に唇を押し当てていったのである。
順風満帆だった恋の上に いらぬ災厄を運んできてくれた 自由主義を極めた女神に、些少とは言い難い怒りを覚えながら。
神の御心に沿っていない恋を瞬に仕掛け、その心身を手に入れた自分自身に罪があるとは、氷河は毫も考えていなかった。






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