別名『死の女王の島』、もしくは『地獄の島』。 昔から――といっても、せいぜい2世紀前くらいからのことらしいが――俺の住む島はそう呼ばれている。 エーゲ海に浮かぶ、人口1000人に満たない小さな島。 美しい海と、島内に少しばかり残る古代ギリシャ時代の遺跡だけが、この島が有している資源だ。 当然、ギリシャの他の島々同様、主産業は観光。 特に何という特徴もない この島が『死の女王の島』という名を冠することになったのは、同じような風景と同じような遺跡を持つエーゲ海の島々の中で観光客を呼ぶには、島独自の売りがなければならなかったからなんじゃないかと、俺は思っている。 つまり、大同小異の他の島との差別化を図ろうとしてのことだと。 ところが、アポロンだのアテナだのアフロディーテだのといった有名どころの神の名は、既に――数千年も昔から――他の島やギリシャ本土の町で使われてしまっている。 だから、この島を観光地として売り出そうとした2世紀前の何者かが、他の島には絶対にない呼び物として、死の女王を選んだ。 それは確かに他には絶対にない名だった。 そんな不吉な名、自分が住む島の名として、普通の人間は好まないだろうからな。 何でもよかったんだ。 他の島の売りである神と 実際、俺は、7、8歳の頃から この島で暮らしているが、『死の女王』がヘカテなのか、ペルセフォネーなのか、モルスなのかも知らない。 大胆な発想による差別化のおかげで、特に これといった特徴のない この島には、死の女王のイメージに惹かれた観光客があとを絶たない。 10年前には、どこぞの星付き高級ホテルが この島に進出してきた。 2世紀前の何者かの作戦勝ちというところだろう。 俺としては、死の女王の名を冠する島は、エーゲ海のような平穏でのどかな海より もっと過酷な環境の場所――たとえば、大西洋やインド洋の ど真ん中の、人間が普通に暮らしていくのも困難なところにあってくれた方が、凄みがあっていいと思うんだが。 ともかく、それが俺の暮らしている島だ。 一見平和で、のどか。 風光明媚で、いつも島の人口と同じだけの観光客が島内には滞在している。 事実は、決して表面に見える通りの平和な島というわけではないんだが、まあ、観光客を呼ぼうと思ったら、治安の良さが何より大事だからな。 この島では、観光客の目が届かないところは さておき、表だった場所での抗争喧嘩流血沙汰はご法度ということになっている。 外からの観光客には手を出さない。 それが この島の不文律。 イラクやミャンマーを見ればいい。 そこに どれほど素晴らしい観光資源があったとしても、内乱内戦が日常茶飯の国は観光地たりえない。 命の危険を冒してまで、観光に赴く酔狂な人間はいないから。 何事も、命あってのものだねだ。 当然、島の住人は島内の治安に気を配っている。 表向き、この島は、犯罪発生率0.02パーセント以下の超優良観光地だ。 だが、実際には、地権やら利権やらを巡って、シチリアほどではないが、この島の水面下では熾烈な抗争が繰り広げられている。 権力は、いつも金と結びついているものだ。 多額の金を落としてくれる観光客がいるから、その金を巡って争いが起こるわけで、この島がごく普通の素朴な漁村か何かだったなら、陰の権力組織なんてものが この島に存在することはなかっただろう。 2世紀前の何者かが、この島に『死の女神の島』と名をつけた。 そのせいで、この島は、実際には何の力も持たない表の権力者と、実質的に島を支配している陰の権力者たちが並存する島になったんだ。 そして、俺は、この島の若い連中(の暴走)を取り締まる立場にある。 もちろん、陰の方で。 “若い連中”と一言で言っても、それには、言葉通りに若い10代20代の奴等だけでなく、島に来て3年以内の新参者たちも含まれていて――島の住人の40パーセントは俺の直接支配下にあると言っていいだろう。 現在の俺は、島の陰の顔役の末席を汚している――というところか。 いずれもっと上にのし上がり、この島を陰で支配する組織を統一し、そのトップに立つ男になるつもりだ。 ちんけな夢ではあるだろうが、この島は他に望めるようなことのない島なんだ。 この島では、島の人間の生活圏と 観光客が足を踏み入れることのできる場所が完全に分断されている。 観光客が滞在するのは星付きホテル。 奴等が行く店も、体裁の整った表通りに面する店。 たとえば、俺たちがたむろしているような酒場に観光客がやってくることはまずないと言っていい。 だから、俺は驚いたんだ。 島の若い連中から あれこれ報告を受けるために赴いていた いつもの店。 その店のドアを開けてフロアに入ってきた華奢な子供――異質な人間の姿に。 その店では、悪い方向に。 |