1時間後に店に戻ってきた三下の報告では、二人は例の高級星付きホテルに宿泊しているということだった。 「あの男、午後の船で島に来たばかりらしくて、娘がとっていたシングルの部屋をダブルに変えさせました」 二人のあとをつけた三下は、忌々しげな顔で、俺に要らぬことまで報告してきた。 「清純そうに見えたのに、男付きか」 『そんなどうでもいいことまで いちいち報告するな!』と、俺が奴を怒鳴りつけなかったのは、あの二人がいなくなった直後、瞬が誰に似ているのかに 俺が気付いていたからだった。 瞬は、エスメラルダに似ているんだ。 髪の色と瞳の色が違うから、すぐにはわからなかった。 エスメラルダは、その印象が 瞬よりもっと控えめで気弱げで、瞬のように豪胆でもなければ、図々しくもなかったしな。 だが、エスメラルダに似た面影を持つ少女が、ほんの子供のくせに、部屋を同じくするような男付きというのが、俺の気に入らなかった。 瞬は氷河に『兄に会うために、この島に行く』と言っていたらしいが、それは まず嘘だろう。 それは、束の間のアバンチュールを楽しむための相手を見付けるという目的を隠蔽するための口実にすぎない。 一瞬でも、瞬はエスメラルダの近親なのではないかと思った俺が馬鹿だった。 そんなことを考えるのはエスメラルダへの侮辱だと、俺は、そんなことを考えた俺自身に腹を立てた。 エスメラルダは 俺の――幼馴染みということになるんだろうか。 俺より一つ二つ年下で――7、8歳の時 たったひとりで この島にやってきた俺を、何かと気遣い支えてくれた、野に咲く花のように清らかで心優しい少女だった。 エスメラルダは この島の陰の顔役の一人だった男の娘で、エスメラルダの父親は粗暴横暴、酒を飲んでは娘に暴力を振るうような最低な男だった。 そして、エスメラルダは、その父のせいで死んだ。 『いつもより少し強く殴ったら死んでしまった』と、あの男は、娘の死を大して悲しんでいる様子も見せずに、俺に言った。 だから、俺は、奴に エスメラルダと同じ痛みを味わわせてやったんだ。 これまでエスメラルダの父親なんだからと我慢していた分、怒りを込めて、奴を殴ってやった。 あの時、俺は14――いや、15くらいにはなっていたんだろうか。 あの飲んだくれは、俺に頭蓋骨を打ち砕かれて、あっさりくたばった。 もちろん島には警察があるが、俺の行為は正当防衛として認められた。 エスメラルダの死が 父親の暴力によるものだということは明白だったし、どんな物的証拠もない俺の証言が簡単に認められてしまうくらい、あの男の粗暴は有名だったから。 俺は、エスメラルダの父親を殺して その力を認められ、島での今の立場を手に入れた。 天使というのなら、それはエスメラルダのことだ。 実の父親に虐げられ、傷付けられ、それでも他人を思い遣る優しい心を決して失わなかった汚れなき天使。 そのエスメラルダに似た面差しを持つ瞬が、堂々と男を咥え込んでいる。 瞬は何も悪いことはしていないのに――少なくとも誰も傷付けてはいないのに――俺は ひどく不愉快な気持ちになった。 それだけなら――そして、俺が二度と瞬に会うことがなかったら、俺は忘れてしまえていただろう。 エスメラルダに似た少女に出会ったことも、その少女に不快を感じたことも。 ところが、例の三下が翌日、またしても瞬の話を持ち出してきたから、俺は またぞろ不快な気分を味わう羽目になったんだ。 「あんな可愛い顔をして、あの娘、とんでもない食わせ物だったんです」 そう前置いてから、奴は、奴がホテルの従業員に命じて、あの二人が泊まっている部屋に盗聴器を仕掛けたことを、俺に報告(事後報告)してきた。 「何かわかったのか」 「それが、あの二人、夕べ、やりまくりだったんです。あの金髪男、並みの体力じゃない。あの子を一晩中泣かせ続けてて、部屋が静かになったのは朝の4時前だった」 「……」 エスメラルダの遺体を見て、俺は二度と彼女の声を聞くことはできないのだと悟った時。 最低の男だったとはいえ 一人の人間の命を奪うという永劫の罪を犯すことで、一介の孤児が力を得る社会の仕組みを、身をもって経験した時。 俺は、これまでに二度ほど、人が生きていることにはどんな意味があるのかと 思い悩んだことがあったが、その二度に次ぐ絶望的な事態だ、これは。 わざわざ盗聴器まで仕掛けて、まさか、その声を一晩中聞いていたのか、この馬鹿は。 もし この島の若い連中が皆 この馬鹿と同じレベルだとしたら、この島の未来は暗いぞ。 重要な秘密を手に入れて血走っているのではなく、単なる寝不足と興奮のしすぎで目を真っ赤に充血させているらしい大馬鹿者を、俺は、 「阿呆」 の一言で ねぎらってやった。 仕掛けた盗聴器をすぐに外すように命じて、俺を絶望の淵に追いやってくれたド阿呆を、店の外に叩き出す。 俺の機嫌の悪いのを見てとった他の若い連中も、大馬鹿者のあとを追うように店から飛び出ていった。 「ったく、どいつもこいつも、何を考えているんだ……!」 「まあ、奴等は奴等で、あんたの気に入ることをしようと頑張ってるんだから」 俺の不機嫌は明白に営業妨害行為だったろうが、店の主は俺に嫌な顔ひとつ見せなかった。 おそらく、俺の酔狂のおかげで、営業10日分の儲けが昨日一日で出たからだろう。 店内にいる客が俺ひとりになると、俺は、あの大馬鹿者が持ってきた“重要な情報”の吟味にとりかかった。 といっても、俺のしたことは、『あんな子供相手に、よくそういう気になれるもんだ』と、昨日の金髪男の感性を呆れ疑うくらいのことだったが。 あのタイプは――完全な子供ではないのに、子供のように澄んだ瞳の持ち主は――できる限り綺麗なまま いつまでも汚れずにいてほしいと願うのが、普通の人間の感覚だと、俺は思っていた。 エスメラルダに対して、俺がそうだったように。 だが、そうでない人間もいるらしい。 俺と あの金髪男のどちらが“普通”で どちらが“普通”でないのかは 俺にはわからなかったが、 俺にとっては“普通”でないことを(おそらくは嬉々として)しでかしている金髪男に、俺は軽い憤りめいたものを覚えた。 俺には、別に、瞬の澄んだ瞳を守ってやる義理も義務もないというのに。 奇妙な二人に出会ってしまったせいで、俺は調子を狂わされている――。 外に出て海風で頭を冷やしてこようと考えて、俺は掛けていたソファから立ち上がった。 途端に店のドアが開き、昨日同様、自分には恐れるものなど何ひとつないと言わんばかりに物怖じのない様子で、瞬が店内に入ってきた。 「一輝さん、こんにちは。いい お天気ですね。外に出るところだったんですか? ご一緒して構いません?」 “ご一緒”なんかされてたまるか。 立ち上がったばかりだったソファに、俺の身体は逆戻りした。 「あの金髪はどうした」 「まいてきました」 「俺と二人きりで会うためにか」 「はい」 嫌味や挑発というのではなく、瞬の真意を探るために、俺は瞬に そう尋ねた。 瞬が即座に、率直かつ はっきりした肯定の答えを返してくる。 瞬は正直なのか、嘘つきなのか、どこまで本気なのか、全く本気でないのか。 何も考えていない子供のように明るく軽快な瞬の返事に、俺は かえって煙幕を張られたような気分になってしまったんだ。 「一晩くらいなら寝てやってもいいんだが、あの男が許しそうにないな」 俺が具体的に方向を限定して 再度探りを入れてみると、 「ぼ……僕、そんなつもりは――」 意外なことに、瞬は、急に尻込みするような素振りを見せた。 嘘でも演技でもなく、本当に困っている――本当に その気はないらしい。 では 瞬の目的は何なのだと、俺の頭は違う分野での可能性を探り始めた。 「なら、何のために俺に近付く。まさか、俺を始末して、俺の後釜に座ろうしているのでもあるまい?」 「え? 始末?」 「俺は、ある男を殺して、この島の顔役になった。おまえも俺に同じことをしようとしているのかと思ってな」 『少しは俺を恐がれ』と、俺は その程度の気持ちで、瞬に その事実を告げた。 効果はあったような、なかったような。 瞬は、俺を恐がる素振りは見せなかったが、代わりに、ひどく悲しげな顔になった。 そして、俺の許可も得ずに、俺の向かいの席に腰をおろした。 「一輝さんは……これまで幸せでしたか。今、幸せですか。これからは―― 一輝さんに叶えたい夢や希望はあるの?」 なんだ? いったい瞬は、俺から何を探り出そうとしているんだ? 束の間の恋の相手を求める旅行者でも 野心に燃える暗殺者でもなく――瞬は、国民の意識調査か何かを請け負っている会社に雇われている調査員か何かなのか? 「それを確かめたかったの。それを確かめるために、僕はこの島に来たの」 瞬は、全く 冗談を言っているようには見えない。 嘘を言っているようにも見えない。 だが、『俺の幸不幸や希望の有無を確かめに来た』という瞬の言葉が嘘偽りのない事実で、冗談でもないというのなら、それこそ俺には瞬の目的がわからなかった。 「俺が幸せだったら、どうだというんだ。俺が不幸なら、おまえが俺に何かしてくれるとでもいうのか」 「それはもちろん、僕にできることなら、どんなことでもしたいです。あの……一輝さん、僕と一緒にアテネにいらっしゃいませんか?」 「俺を用心棒にでも雇うつもりか。おまえは何者だ」 どこの金持ちの我儘娘が、人殺しの孤児を『幸せに 人を幸せにする力を 自分が有していると本気で考えているのなら、おまえは、おまえたちの情事を一晩中盗み聞いていた あの大馬鹿者の上をいく超大馬鹿者だ。 「何者と言われても……僕は ただの子供ですが、一輝さんが暮らしていけるだけのものは提供できると思っています」 ヴィンテージのドンペリの代金をぽんと払える、ただの子供。 そういう子供なら、確かに、風来坊を一人 世話するくらいのことは何ということもない――酔狂やゲーム感覚でできるレベルのことなのかもしれない。 だが、そういう子供は“ただの子供”とは言わない。 そういう子供は、“不愉快な子供”と言うんだ。 俺は、瞬の思い上がりと身勝手な構想に 思い切り不愉快になり、その不愉快をどう言葉にしたものかと考え始めていた。 むかむかして 適当な罵倒の言葉が出てこない。 そして、俺が瞬への適当な罵倒の言葉を思いつく前に、瞬に |