その壮年の男が城戸邸を訪ねてきたのは、それから1週間後のことだった。 あの祭りのあった村から20キロほど離れたところにある別の村で医者をしている者だと、彼は言った。 あの日、あの村の祭りに行っていて、俺が瞬の名を呼ぶのを聞き、『もしかしたらと思ったんだ』と。 その医者は、1年と数ヶ月前、どこの誰とも知れぬ金髪の男の最期を看取ったのだそうだった。 その金髪の男は、今から1年と数ヶ月前、彼の住む村に満身創痍の状態で、いざるようにやってきた。 見付けた村人が、すぐに村の診療所に運び入れたが、既に 生きているのが不思議なありさまで、一目見ただけで、彼は、どんな治療も無意味だということを悟ったらしい。 「俺は死ぬと思うか」 目だけが生きているような その金髪の男は医者に そう尋ね、医者は、 「大丈夫だ」 と答えた。 その金髪の男は――氷河は――医者に、 「嘘をつけ」 と笑って言った――笑って、そう言おうとしたらしい。 彼は既に自分の死期を悟っているのだと認めた医者は、そういう場合の常套句――ごく ありきたりなことを、氷河に尋ねた。 「何か……言い残したいことは」 「瞬に――永遠に愛していると」 氷河は、そう言ったんだそうだ。 その話を聞いた時、死んでもまだ瞬を縛るのかと、俺は氷河に腹を立てた。 熊みたいに でかい図体をしたロシア人の医者の話を、食い入るような目をして聞いている瞬が その場にいることを思い出さなかったら、俺は、氷河の最期の言葉を伝えるために わざわざ日本まで出向いてきてくれた親切な医者に当たり散らしてしまっていたかもしれない。 瞬がその場にいることを思い出せてよかったと、俺は思った。 氷河の最期の言葉には、続きがあった。 「そして、俺に約束したこと、誓ったこと、すべて忘れてくれ。おまえは自由だと、瞬に伝えてくれ」 そう、氷河は言ったんだそうだ。 氷河は、実に奴らしいことに、自分の名を名乗るという超基本的なことをしなかったらしい。 氷河の身元や家族を探そうにも、医者に与えられた情報は『瞬』という名だけ。 『瞬』はどこの誰なのか、『瞬』を永遠に愛していると言い残した金髪の男が何者なのか、医者には知る術もなく、時間だけが過ぎていった。 だが、あの祭りの日に『瞬』という名を耳にして、彼は以前 彼が看取った見知らぬ男の伝言を思い出した。 その伝言をどうしても伝えなければならないと思い立った彼は、1年以上前に一度 その遂行を諦めた作業に再度着手し、ついに『瞬』が何者なのかを探し出した。 そして、既に日本に帰国していた俺たちを追いかけて、わざわざここまで来てくれた――らしい。 氷河の亡骸は、彼の住む村の墓地に埋葬されたということだった。 「遺品はこれしか――」 そう言って、熊のような医者は、白いハンカチに包まれていた 一房の金色の髪をテーブルの上に置いた。 「火葬でしたから、掘り起こして、墓を移すことはできるかもしれませんが、いったん永遠の眠りに就いた人を また叩き起こすのはどうかと――」 医者は何か言っていたが、俺はよく聞いていなかった。 瞬の様子に気をとられて。 瞬は、無言で、その小さな金色の髪の束を見詰めていた。 瞬きすることも忘れたみたいに。 そして、やがて、その瞳から、初めて涙の雫を落とした。 氷河がいなくなってから、ただの一度も泣かずにいたのに。 瞬は初めて、乾ききっていた その瞳を涙でいっぱいにした。 瞬が それまで泣かずにいたのは、氷河の遺体が見付からなかったから――だったろう。 氷河の遺体が見付からなかったから、それでも氷河は生きていると、瞬は信じていられた。 だが、ここまで はっきり氷河の死の様子を伝えられてしまっては――。 瞬はもう氷河が生きていることを信じることも、その生還を待つこともできなくなってしまったんだ。 だから、流された涙なのだと、それは悲しみの涙なのだと、俺は思った。 でも、そうじゃなかった。 そうじゃなかったんだ。 「僕は自由だなんて……僕が自由だなんて……どうして今更そんなことを言って、氷河は僕を苦しめるの……!」 瞬の涙は、突然 自由にされてしまった我が身を嘆く涙だった――。 |