涙に暮れた瞬が、ふらふらと幽霊みたいな足取りで出ていった客間。
そこで、『何かがおかしい』と言い出したのは紫龍だった。
あの親切な医者の言うことは辻褄が合わない――と。
氷河の伝言の相手がわからなくて 来るのが遅くなったというのが、そもそも妙な話だと、紫龍は言い出したんだ。
沙織さんは、それこそ、シベリア中ロシア中のすべての町や村の警察や駐在所に氷河捜索のための情報が行き渡るように手配をした。
人里離れた一軒家に暮らしているというのならともかく(シベリアでは、そういう環境で生活することは ほぼ不可能だが)、診療所がある規模の村で その情報に接することがなかったと主張することには無理がある。
まして、彼は、医者という商売柄、人と接する機会は多かったろう。
彼自身が尋ねてまわらなくても、情報は向こうから飛び込んできていたはずだ――って、紫龍は言うんだ。

その上、わざわざ日本にやって来る必要はないのに、なぜ彼は あえて時間と旅費をかけて異国の地にまでやってくる気になったのか。
氷河を捜索している人物の正体を知って、謝礼目当てでやってきたと考えることにも無理がある。
それは、電話一本入れるだけで済む話なのだ。
直接遺品を手渡したかったのだとしたら、向こうに呼びつければいい。
彼は氷河捜索のためにシベリアに出向いている氷河の仲間たちの姿を その目で見、声を その耳で聞いたと言っているのだ。
氷河を捜している者たちが、電話1本で喜んで飛んでくることくらいは、容易に想像できたはず。
だというのに、彼はわざわざ極東の島国まで 直接 自身がやってきた。
まるで、彼の許に、氷河の仲間たちに訪ねてこられては困ることがあるかのように。

そして、なぜ、今なのか。
彼は、1年以上前に、氷河の身元を知ることができた。
にもかかわらず、不自然な弁解を連ねて、彼は今 日本にやってきた。
それは、どうしても今、彼が日本にやってこなければならない事情が生じたからなのではないかと、紫龍は言った。
「事情って、なんだよ」
「瞬が氷河との誓いに縛られていることを、1週間前に知ったから……ではないか。そんなことになっているとは、奴は思っていなかったんだ」
「奴……って」
「わかっているだろう。氷河だ」

氷河は生きていると、紫龍は言っている。
俺は、紫龍の その推察を聞いて、ぽかんとした。
紫龍の推察を、希望的観測に基づく荒唐無稽な夢想だと思ったからじゃない。
むしろ、紫龍の推察を、事実としか思えなかったからだ。
氷河が生きている――。
俺は、その事実を喜んでしまっていいのかどうかが わからなかったんだ。
喜んでいいのか、腹を立てるべきなのかの判断がつかなかった。

生きてるのなら――氷河はなぜ仲間たちの許に――瞬の許に――帰ってこないんだ?
自分の死がどれだけ瞬を悲しませることになるのかってことくらいは、奴にだって わかるはず。
瞬が本当は そういう意味では自分を好きでいないってことに 薄々気付いていたんだとしても、瞬が仲間の死を 深く嘆き悲しむことは、氷河には わかってるはずだ。
なのに、それがわかっていながら、氷河が瞬を放っぽっておいたのだとしたら、俺は氷河を殴り倒してやらないことには気が済まない。
あんなに瞬を好きだって言っておいて、あんなに瞬を誓いと約束でがんじがらめにしておいて、それで勝手に一人で姿を消すなんて、無責任すぎるじゃないか!

俺たちは、事の次第を すぐに沙織さんに注進し、あのクマみたいな医師の身辺を調べてもらった。
広大なシベリアから 小さな一つの村に調査の範囲が狭められると、グラードの調査機関は、さすがに有能迅速。
俺たちが沙織さんに調査を依頼した2日後には、氷河の生存を確認した旨の連絡が入り、あのクマ医者が氷河に頼まれて、俺たちに仲間の死を信じさせるために渡日したって告白したことを知らせてきた。
クマ医者は、
『ばれてよかった。嘘がばれなかったら どうしようかと思ってましたよ』
と、気を安んじたように笑っていたそうだった。
そして、
『彼を迎えに来るのなら、相当の覚悟をして来てください』
という、医者からの言伝て。

沙織さんが俺たちに知らせてくれたのは それだけだったが、俺たちにはそれだけで十分だった。
1年分の涙を 今やっと流すことができるようになったみたいな瞬を急きたてて、俺と紫龍は 北に向かう飛行機に飛び乗ったんだ。






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