その夜は、月の女神にして狩猟の神、純潔の神、そして なぜか豊穣神でもあるアルテミスを オリーブの収穫が終わり、麦の種まきが一段落した秋の最初の満月の夜。 人々は、白く輝く月の下、今年の実りに感謝し、次の季節の豊穣を祈りながら、処女神アルテミスへの敬意を表し、清浄な気持ちで その夜を過ごす。 それは、ギリシャの各ポリスで毎年 行なわれている月見のようなものだった。 特に熱心なアルテミスの信奉者たちの中には、彼女に捧げる生贄の雄牛を伴って エフェソスのアルテミス神殿にまで赴く者もいるという話だったが、氷河は、その行為を 無意味と無駄の極致と考えていた。 月は、この地上のどこからでも見ることができるから、太陽と並んで 偉大な天体なのだ。 自分の住まう場所で、そこから敬神の念を示すのが、正しいアルテミス祭の過ごし方だと、氷河は信じていた――というより、勝手にひとりで決めていたのである。 その年のアルテミス祭の夜は、例年に増して月の明るい夜だった。 まるで、人間たちが本当に清らかな気持ちで月の女神を崇めているかどうかを確かめるように、月が地上すれすれのところを ゆっくりと歩んでいる。 その夜、氷河と瞬は、聖域を南に外れたところにある泉のほとりにいた。 空の月と泉に映る月を愛でようと提案したのは瞬。 二人は つい半年前にアテナの聖闘士として聖域に迎えられたばかりで、昨年のこの時季には聖域の外にいた。 そして、他の村人や友人たちと共に、豊穣の女神を祀る祭に参加していた。 今年のこの夜は、二人が聖闘士になって初めて迎えたアルテミス祭の夜。 なりたてとはいえ アテナの聖闘士が、アテナの膝元である聖域の内で他の女神を祀るのも はばかられたので、二人は聖域を出た場所で月を仰ぐことにしたのだった。 もっとも氷河は、 「アテナの聖闘士が、他の神への感謝を捧げる祭なんか行なう必要はないんじゃないか?」 と、一応 瞬に言上してみたのである。 しかし、瞬の考えはそうではなかった。 「アテナの聖闘士は、アテナ以外の神を排斥するものではないでしょう? アテナは 知恵と戦いの女神だけど、人は 知恵と戦いだけでは生きてはいけないものだもの。人が生きていくには、愛も穀物の実りも雨も風も太陽も月も必要だよ。アテナの聖闘士の本当の務めは、アテナの敵と戦うことじゃなくて、アテナと すべての神々の調和を守り、そうすることによって 人間の生活を安定させることなんじゃないかな」 「まあ、そういう考え方もあるだろうが……」 氷河は、決して 瞬のその意見に賛同したわけでも、説得されたわけでもなかった。 ただ、その色気のない言葉に続けて瞬が言った、 「それに、誰もいないところで二人っきりで綺麗な月を見上げてるのって、素敵でしょう?」 の一言に心を動かされただけで。 乾燥した地にある澄んだ泉。 水温が低すぎるせいか、その周囲には草木の1本も生えていない。 泉は、愛を拒む孤高の月のような佇まいで、そこにあった。 「今夜は昼みたいに明るいね。明るすぎて星が見えないよ。本当なら、アンドロメダ座と白鳥座を見ることができるはずなのに」 「星より、おまえの姿が見えている方がいい。月の女神はなかなか気が利いている。いや、馬鹿なのかな。月の祀りの夜に、月の女神より美しいおまえの姿を こんなにはっきりと浮かびあがらせてみせるなんて。神を祀る気にはなれなくなる」 月が暗くても星が見えていなくても、氷河は最初から真面目に神を祀る気はなかった。 月が暗かったなら、その暗さを、星が見えていたら その星の瞬きを、恋人たちのためのものと こじつけて、瞬を抱きしめるための理由にしていただろう。 たまたま今夜は 月が異様に明るかったので、その明るさを利用させてもらっただけだった。 草木の1本もない泉の周囲には、草木の代わりに、切り出された大小さまざまの大理石が ごろごろ転がっていた。 いったい何百年前のことなのかは わからないが、それは、アテナ神殿建造のために運ばれた大理石の余りで、神殿建設に携わった者たちは その余り物を聖域の外に運び出したところで、無責任にも放置したらしい。 氷河は、その岩の一つを背もたれにして、泉のほとりとは思えないほど乾いた土――むしろ砂――の上に腰をおろした。 恋人を称賛する氷河の言葉が神への不敬になるのではないかと案じている様子で、瞬が、氷河の顔を覗き込んでくる。 瞬の懸念に気付いてはいたのだが、氷河は、瞬の心配顔に気付いていることを おくびにも出さなかった。 彼には、そんなことよりも ずっと大切で優先させなければならないことがあったのだ。 瞬を横抱きにして、瞬の頬に手を添え、唇を重ねる。 気紛れな女神の機嫌を案じているはずの瞬の頬は、しかし、月のように青ざめてもいなければ、冷たくもなかった。 氷河は、その事実を認め、瞬に見てとられぬように微かに苦笑したのである。 そして、キスの合間に囁く。 「おまけに、おまえは月の女神みたいに冷たくないし」 言葉とは裏腹に 温かく やわらかい瞬の身体を左の手と腕で抱きしめ、もう一方の手で、瞬が身に着けているキトンの帯をほどく。 そうしてから、氷河は、帯を奪われることで一枚の布になってしまった瞬の服の裾から手を忍び入れ、瞬の腹や胸を撫であげた。 「恋を拒む女神なんかと違って、おまえは綺麗で温かい。感度もいいし」 「あっ……」 瞬が小さく短く洩らした声には 艶が混じっていた。 平時は清らかで潔癖な聖闘士であるところの瞬の声と表情が、氷河の目的通りの反応を示してくる。 だというのに――声や表情や肌は そんなふうだというのに――瞬の唇は堅苦しい言葉を発し、瞬は言葉の上でだけは 氷河をたしなめようとし続けたが。 「だめだよ。今夜は処女神アルテミス様に感謝を捧げる夜なんだから。清らかに過ごさないと、月の女神の怒りを買うよ」 言葉だけが、声や表情とは真逆。 言葉だけが、熱を帯び潤んでいる瞳とは真逆。 言葉の上でだけ、恋人の愛撫を退けようとする瞬に、氷河は――氷河も、言葉で対抗した。 「俺たちの女神はアルテミスではなくアテナだ。他の女神の機嫌を取る必要はない。そんなことをしたら、それこそアテナが機嫌を悪くするだろう」 そう言いながら、氷河が、瞬が身に着けているものをはだけて、手と指で愛撫していた場所に唇を押しつける。 指のように細やかな動きでの愛撫はできないが、舌での愛撫が作り出す感触と刺激は また特別のもの。 瞬は、氷河の腕の愛撫の中で 悩ましげに身をよじった。 「だめ……だめだよ。月の女神の怒りを――」 「駄目と言われても、おまえの身体は もっと触れてくれと言っているぞ」 「そんなことない……ああ……」 「そんなことは言っていないのか? 俺の指や唇は勘違いをしているのか?」 「ぼ……くが言ってるんじゃなく、氷河が言わせてるだけ……あ……あっ……ああ……!」 瞬の声に間歇的な喘ぎが混じり始める。 こうなると もう瞬は 恋人の手に抗えないことを、氷河は知っていた。 その心同様、素直で正直で飾ることを知らない瞬の肌を、好ましく思う。 そして、もし瞬に出会えていなかったなら、そういう性質を美徳と思うこともできなかっただろう自分という人間を顧みて、瞬を知ることのできた自分は非常に幸運な人間だと、氷河は自らの運命に感謝さえしたくなるのだった。 「たまには寝台でないところでするのもいいな。外気は冷たいが、その分、おまえの温かさが心地良く感じられて、おまえが生きていることを実感できる」 瞬の身体を自分の膝の上に乗り上げさせ、氷河は、横座りさせていた瞬の左脚を右の手で掴んだ。 「あ……なに……?」 「いつものやり方でしたら、おまえの綺麗な背中を地面に押しつけることになるだろう。おまえの身体を傷付けてしまう」 「僕、聖闘士だよ。それくらい平気……」 素直で正直な瞬の言葉。 今夜は清らかに過ごさなければならない夜なのではなかったのかと 揶揄してやりたい衝動を、氷河は かろうじてこらえたのである。 今 そんなことを瞬に思い出させても、何の益にもならない。 代わりに、氷河は、見られるのを避けるように恋人の胸に顔を埋めている瞬の肩を僅かに押し戻して、二人の間に可動空間を作った。 「おまえが平気でも、おまえの身体が傷付くことに、俺が耐えられん。おまえの可愛い顔を見せてくれ」 瞬の上体をねじらせ、互いに正面から向かい合うようにする。 「で、こうして脚を開く……と」 瞬の右の太腿を撫でていた手を足首の方にずらし、掴みあげ、瞬に 足を置く位置を変えさせる。 柔軟な瞬の身体は、苦もなく 氷河の膝の上に跨る格好になった。 「や……やだ、こんな……」 瞬が頬を上気させたのは、氷河の膝に乗り上げ向かい合う態勢自体が嫌だったのではなく、氷河が何のために自分に そういう態勢をとらせたのかが わかったからだったろう。 が、氷河の目的がわかった時には、瞬は もはや氷河から逃げることは不可能な状態になっていた。 「横になっていないだけで、いつもと同じ格好だぞ。これで、おまえを傷付けずに、おまえの中に入っていける。ほら」 「や……いや……ああ……!」 二人が容易に つながった状態になってしまえたのは、氷河のみならず、氷河を受け入れる瞬の身体の方も 既に すべての用意が整っていたから。 その事実を認めないわけにはいかなかった瞬は、そんな自分に抗するように、幾度か小さく首を横に振った。 そして、両手の細い指で氷河の肩を掴み、仰向けに倒れてしまいそうな上体を支え、固く目を閉じる。 「いや? 嘘をつけ」 「だ……だって、こんな……。どうやって動くの」 「俺が動いてやってもいいが、おまえが動く方が合理的だな」 「そんなことできな……」 「いやならいい。朝まで終わらずに、ずっと二人でこうしていよう。それも一興、俺には何の不満も不都合もない」 「そんな……」 瞬の中は熱く、吸いつくように絡みつくように蠢いて、瞬の中に侵入している氷河を刺激している。 抜き挿しのような明白な刺激を加えなくても、瞬の清楚な顔からは想像もできないほど隠微で複雑な熱と蠢きが、既に 舐めるように氷河の性器を攻め始めていた。 このまま何もしなくても、瞬は、時間をかけて彼の恋人を焦らし、嬲り、やがては その攻めに耐え切れなくなった恋人が 発狂するのを避けるために射精しなければならない状態に、追い詰めてくれるだろう。 朝まで終わらずにいることは不可能なのだ。 氷河がどれほど忍耐強くても。 「そんなの……あっ」 だが、瞬は、自分のものだというのに、自分の身体の中がどうなっているのかを知らない。 だから、瞬は、『朝までずっと』という氷河の言葉を、実現し得る未来と思い、不安を抱くことになるのだ。 無作法な侵入者が自分の身体の中で大きさと硬度を増していくのを感じながら、瞬は、二人の今ある状態を どう思い、何を考えているのか。 一度でいいから瞬に尋ねてみたいと思うのだが、氷河はいつも その質問を瞬に投げかけることができなかった。 十中八九、答えは得られないだろうと思うから。 瞬は、考えて、これをしてない。 ただ 素直で正直な自分の身体に命じられるまま、自分では そうと意識せずに、瞬は恋人を喜ばせてくれるのだ。 「ああ……ああっ」 氷河の不動に耐え切れなくなった瞬が、その身体を上下に動かし始める。 「やればできるじゃないか」 潔く理性を手放し、感覚の手を取った瞬を、氷河は褒めてやった。 瞬が、少しずつ白い喉を後方に反らしていく。 「最初はゆっくりでいい。おまえの中が傷付かないように。深く浅く変化をつけて、少しずつ速さを増していけばいい」 「ん……んっ……」 氷河は決して命じているわけではなかったのだが、瞬は氷河の声に操られる人形のように、氷河の言葉に従順だった。 氷河の言う通りにしていれば確実に気持ちよくなれることを、瞬は知っている――そう教え込まれ、信じさせられていた。 氷河に言われた通りに 徐々に上下動の速さを増していた瞬が もはや氷河の指示も必要としなくなった頃を見計らって、氷河は その行為に夢中になっている瞬を たしなめるように忠告した。 「瞬。あまり激しく動くと、すぐ終わってしまうから、たまに止まってみた方がいいぞ」 「え……あっ……あっ……そんな……ああ、だめ。止められな……ああああっ!」 これまでの喘ぎとは明白に趣の違う悲鳴が、瞬の喉の奥から響いてくる。 その瞬間に、氷河の肩を掴んでいた瞬の指がほどけ、瞬の身体は大きく のけぞった。 その身体が倒れてしまわないように、氷河が右の手で瞬の上体を抱き支える。 そうしてから氷河は、その唇を瞬の耳許に近付けて、瞬の手前勝手な振舞いを責める言葉を からかうように低く囁いた。 「おまえは欲深な上に、ほんとうにせっかちだ。一人で勝手に自分だけ終わっていいと思っているのか」 氷河に指示通りに為した手前勝手な振舞いのせいで 自分だけが至った絶頂の余韻が、瞬に目を開けることをさせずにいるようだった。 それでも氷河の声は聞こえているらしい。 一度絶頂に達し、冷めていっていいはずの瞬の頬が、更に朱の色と熱を増していく。 「このままだと、俺が終われない。朝までと言わず、いっそ、一生 つながったままでいるか」 「ひょ……が……どうして、そんな意地悪 言うの」 冗談だとわかっていても、だからこそ、恨み言を言わずにいられない――のだろう。 この事態は、瞬が氷河の指示に従った結果 生じた事態だった。 強烈な快楽の残滓が、瞬の瞼を重くしている。 だから、瞬は、意地悪な恋人を睨みつけたくても そうすることができずにいるのだと思い、氷河はどちらかといえば、得意な気持ちで 瞬の重い瞼を唇で からかってやろうとした。 が、その時、目を開けることができなくなっているのは瞬だけではないことに、氷河は気付いたのである。 それは、人体の一つの器官としての目に危険を覚えるほどの強い光のせいだった。 月明かりの他に人工の灯りは小さな灯ひとつないはずの泉の周辺が、今は――いつのまにか――真昼のように明るくなっていたのだ。 その光が眩しくて、目を開けることができない。 閉じていても眩しいほどの光が、氷河と瞬の周囲にあふれていた。 |