人間になりたい。 強く大きな人間になりたい。 それが、氷河の小さな頃からの夢でした。 とはいっても、氷河は今も とても小さいのですけれどね。 氷河は、ある田舎の小さな村の大きな農家の庭で飼われているヒヨコです。 身体を覆う羽根は くすんだ灰色で、氷河は お世辞にも可愛らしい姿をしているとはいえません。 同じ農家の庭で飼われている他のヒヨコたちは みんな綺麗なレモン色の羽毛を持っていますから なおさら、氷河はみすぼらしく見えるのです。 もちろん、美しさというものは主観的なものです。 地域によって、種族によって、時代によって、美の基準は違ってきます。 人間界の例をあげると。 たとえば、タイの首長族では、首が長い人が美人ということになっています。 でも、首長族でいちばんの美人がニューヨークに行ったなら、彼女は美人でも何でもなくなってしまうでしょう。 トンガ王国では、太っている人が美しいということになっていますが、トンガでいちばんの美人がパリに行ったなら、彼女は ただのメタボリック・シンドロームの患者です。 逆に、欧米で美人と認められている人がトンガに行ったなら、彼女は途端に大変な醜女になるのです。 例外は多々ありますが、一般的には、多数派に属する資質を数多く持った者が優越的位置に立つと言っていいかもしれません。 耳の短いウサギしかいない国に、耳の長いウサギが一匹だけ紛れ込んでいたら、そのウサギは不具者扱いを受けることになるでしょう。 黒いウサギしかいない国に、白いウサギが一匹だけ混じっていたら、白ウサギは異端者として排斥されるでしょう。 つまり、最大多数の最大幸福。 社会全体に最大量の幸福を生もうとしたら、美の基準は そういうふうに決定されるのが合理的なのです。 この農家の場合は、氷河だけが灰色で、他のヒヨコたちは全員レモン色でしたから、その世界を最大限に幸福な世界にするためには、氷河の方が醜いヒヨコであることにした方がいいのです。 本当は、他人の幸福を減少させない思い遣りや誠実、他人の幸福を増大させる優しさや慈善の心があれば、社会の幸福量はもっと増えることになるのですが、この農家のヒヨコたちは功利主義者ではなかったのでしょう。 ともかく、その農家の庭では、氷河は醜いヒヨコということになっていました。 とはいえ、だから氷河が不幸だったかというと、そんなことはなかったのです。 美しさというものが 相対的な物差しでしか測ることができず 絶対的な物差しを持たないものであるように、幸福というものも、客観的な物差しを持たず、極めて主観的な物差しで測るしかないもの。 そして、氷河は、自分を醜いとは思っていませんでしたから。 というか、氷河は、他のヒヨコと自分を比べて あれこれ思い悩むということをしないヒヨコだったのです。 氷河は、他のヒヨコに何を言われても、そんなことは全く気にしないヒヨコでした。 さて、そんなふうに、農家の庭でいちばん醜い(と言われている)ヒヨコの氷河。 氷河は、他のヒヨコたちや農家の主人や家族たちに 疎んじられていました。 『可愛くない』『みっともない』と、言われ放題だったのです。 そんな氷河を可愛がってくれる人間が一人だけいました。 といっても、それは農家の主人や家族ではなく、村に住んでいる孤児の一人でした。 名前は瞬といって、大変な泣き虫。 恐いことや痛いことが嫌いで、ですから、とても臆病。 何をするにも尻込みばかりして、いつも他の子供たちに馬鹿にされていました。 ちゃんとした家や親を持つ子供たちばかりでなく孤児仲間にも、瞬は『泣き虫瞬ちゃん』と呼ばれて、みそっかす扱いをされていたのです。 氷河は、瞬が嫌いでした。 泣き虫でみそっかすの瞬が、醜い灰色の身体をした みそっかすのヒヨコを可愛がるなんて、まるで“同病相哀れむ”みたいでしょう? 氷河は、自分をみそっかすだと思ってはいないのに、瞬は多分 そういう目で氷河を見ているのです。 『僕と同じ みそっかす』と。 だから、瞬は農家の庭でいちばん可愛くない自分だけを可愛がるのだろうと、氷河は思っていました。 だから、氷河は瞬が嫌いだったのです。 氷河は、瞬の卑屈が嫌でした。 瞬は、雨の日も風の日も、もちろん お天気の日にも、毎日必ず一度は 氷河のいる農家の庭の柵のところに来て、氷河の名前を呼びました。 そして、 「あのね。村の子たちが、今日、クワガタ虫を喧嘩させて遊んでいたの。どうして あんなことするのかな。クワガタ虫がかわいそうだよね。仲良くさせてあげればいいのにね」 なーんて、氷河にはどうでもいいことを真面目な顔をして話すのです。 瞬が優しい子だということは、氷河にもわかっていました。 瞬は優しすぎるくらい優しい子で、虫にも花にも同情するので、村の他の子供たちと一緒に乱暴な遊びに興じることができないのです。 瞬が優しい子だということは、氷河にはよく わかっていました。 ですが、瞬には、人としての――もっと大袈裟に言えば、生きるものとしての――気概が感じられないのです。 覇気がないのです。 その上、瞬には、向上心も問題解決能力もないように、氷河には思われました。 瞬は優しい子。 優しいだけの子で、氷河はそれが嫌だったのです。 クワガタ虫をかわいそうだと思うなら、『やめろ』と言えばいいではありませんか。 でも、瞬はそんなことは言わないのです。 みそっかす扱いされたくないのなら、されないようにすればいいのです。 でも、そのために瞬は何もしません。 ただ、他の子供たちが作る輪の外から、その輪を見詰めているだけ。 これでは何にもなりません。 瞬は他の子供たちと仲良くしたいようでした。 最初から ひとりでいることを好み選んでいる氷河とは違う みそっかすでした。 寂しいのに――ひとりぽっちは嫌なのに、何もしない瞬が、氷河は嫌いだったのです。 けれど、悲しいかな、氷河は人間ではなく小さなヒヨコ。 人間の中ではみそっかすの瞬よりも小さくて、力もありません。 瞬が その手に包むように氷河を抱き上げるのを拒む力はないのです。 それに、どういうわけか、氷河は、瞬に名前を呼ばれると、どうしても瞬の側に駆けていきたくなるのでした。 それは本当に不思議なことで、時々氷河は、瞬をものすごい魔法使いなのではないかと思うほどでした。 もっとも、瞬がものすごい魔法使いだったなら、瞬は『みそっかすの泣き虫瞬ちゃん』ではいなかったでしょうけどね。 ともかく氷河は、瞬の手の平に乗っかるたび、いつか瞬より強く大きな力持ちの人間になってやると思っていました。 氷河は、とても前向きなヒヨコだったのです。 |