その夜、氷河は見守っていました。 氷河は人間ではなく ただの鳥でしたけれど、逃げようとしている瞬を捕まえようとする人間の邪魔をすることくらいはできるだろうと考えて、氷河はその時を待ち構えていたのです。 空に、丸い月だけがある夜でした。 闇の中を何台ものトラックが工場の出入り口のところにやってきて、重い鉄の門が開けられます。 それが合図だったように、突然 工場の建物の方から、不吉なサイレンの音が 夜陰を引き裂くように響き始めました。 サーチライトが工場の壁を照らし出し、その強烈な光は、夜の闇の部分を更に暗くしました。 氷河は、急いで、その光が集中している方へと移動したのです。 そこで、氷河は、瞬の姿を見付けることができました。 瞬は、工場でいちばん広いフロアに並んでいる鉄でできた機械を、棒のようなもので がんがん叩いてまわっていました。 けれど、それは、瞬の力で壊せるような やわなものではありません。 いったい瞬は何をしているのでしょう。 時折、強烈なサーチライトの中に浮かび上がる小さな瞬の姿。 瞬の考えていることが理解できず、氷河は慌ててしまったのです。 そんなことをしたって、ここから逃げ出せるわけがありません。 氷河は、何をしているんだと、大きな声で叫びました。 それがよくなかったのかもしれません。 夜の冷たい空気の中に響き渡った白鳥の声は警備員たちをぎょっとさせ、彼等を悪い方に興奮させてしまったようでした。 「こっちの部屋だ。誰かいる!」 鉄条網で囲まれた工場に忍び込むような恐れ知らずは、これまで一人もいなかったのでしょう。 初めての侵入者に動転したらしい警備員の一人が、銃を発射しました。 たくさんの機械が並んでいるフロアの中で、です。 「馬鹿野郎! 機械に当たったらどうするんだ! ここにあるのは、貴様が死ぬまで働いても弁償しきれないくらい高価なものなんだぞ!」 その銃声を聞くなり、銃を撃った警備員とは別の警備員が、浮き足立っている仲間を怒鳴りつけます。 怒鳴られた警備員は仲間の怒鳴り声を聞くなり びっくりして、手にしていた猟銃を両手で抱きしめました。 彼の撃った弾が機械に当たったのだったら、どんなによかったでしょう。 腕の悪い臆病者の撃った弾は、けれど、機械に当たらず、瞬に当たっていました。 いったい瞬のどこに当たったのかは わかりませんでしたが、それが人に当たったことだけは、微かに漂う血の匂いで、氷河には察することができたのです。 フロアを探し始めた警備員たちは、そこで瞬の姿を見付けることはできなかったようでしたから、瞬は既に このフロアを出て、どこかに逃げていったのでしょう。 まさか工場の中を飛びまわって瞬を探すわけにはいきませんから、氷河は一度 工場の建物を離れ、空の高いところに飛び上がりました。 警備員たちが瞬を追ってどこに向かうのかを確かめてから、そこに再び舞い降りようとしたのです。 工場の敷地全体を俯瞰できるところまで飛び上がり、瞬の居場所を見極めようとした氷河は、空の高みから、瞬ではない子供たちの姿を見付けることになりました。 警備員たちが大声をあげて走り回っている方とは正反対の南側の庭。 夜陰に紛れて、南の門を駆け抜けていく数人の子供たち。 その姿を認めた途端、氷河は、瞬が何をしていたのかを知ったのです。 これは、いわゆる陽動作戦。 瞬はわざと南の門の反対側で騒ぎを起こし、警備員たちの注意を自分に向けるため、一見無意味に思えることをしていたのでしょう。 瞬は最初から、自分が逃げるつもりはなかったのです。 仲間たちが無事に逃げられるよう、我が身を犠牲にするつもりでいたのです。 氷河のお母さんが、命をかけて氷河を守ろうとしたように。 そうと悟るや、氷河はすぐに、南の門からいちばん遠いところにある工場の北の端に向かいました。 今、瞬は、工場の敷地内の南の門からいちばん遠いところにいるはず。 それは、工場の建物のいちばん奥、長い工場の建物の屋上の北の端でした。 氷河が考えた通り、瞬はそこにいました。 工場の北の端の屋上の隅の隅に、瞬は身体を縮こまらせ しゃがみこんでいました。 瞬は、先ほどの不注意な警備員の銃弾で、肩を撃たれていたようでした。 ただの布切れとどう違うのかと言いたくなるような瞬のボロ服は、その右側半分が 肩から流れ出た血で真っ赤に染まっていました。 身体を小さく丸めて 瞬が震えているのは、もちろん恐怖のせいもあったでしょうが、たくさんの血を失って体温が下がっているせいでもあるようでした。 瞬の姿を見付けた氷河は、すぐさま瞬の許に急降下。 夜の闇の中で見間違いようもない氷河の純白の翼と身体を認めると、瞬は、ほとんど力のこもっていない微笑を氷河に向けてきたのです。 「氷河……来てくれたの。みんな逃げられたかな。きっと大丈夫だよね」 『大丈夫。みんな無事に逃げられたぞ』と静かに頷いてやれば、氷河は瞬を喜ばせてやることができたのでしょうか。 もし そうだったとしても、今の氷河には そんなことはできませんでした。 できるわけがありません。 氷河が誰よりも救いたかった命が、ちっとも無事じゃないのですから。 おまえは なぜ逃げないのだと、氷河は怒りで翼をばたつかせました。 大声でわめきたてて、瞬の居場所を警備員たちに知らせるわけにはいきませんでしたからね。 その様子を見て、瞬には、氷河が怒っていることがわかったのでしょう。 瞬は、怒り興奮している氷河の前で、微かに首を横に振りました。 「氷河、怒らないで。ここで、あんまり食べ物も食べさせてもらえずに働かされて、みんなの中で僕がいちばん弱ってたの。一緒に逃げても、僕は みんなの足手まといになることしかできない。だから、僕が残るって、自分から言ったの。怒らないで」 それは、なんて瞬らしいことでしょう。 なんて、氷河の好きな瞬らしい決意だったでしょう。 そのせいで瞬が死にかけているのでなかったら、氷河は瞬の決意と行動を 誇らしく思ってさえいたかもしれません。 でも、こればかりは――今ばかりは――瞬の選んだ道を、氷河は憎まずにはいられなかったのです。 瞬を追いかけているのは、銃と冷酷な心を持った大人の人間たち。 瞬の決意と優しさは、最初から生きることを放棄した行為です。 「僕、どうなるのかな。恐いよ。痛いよ」 自分の行動がもたらす結果を、瞬はわかっているようでした。 翼をたたみ、そっと瞬の側に身を寄せた氷河の身体を、動かせる方の腕で すがるように抱きしめて、瞬は ぽろぽろ涙をこぼして泣き始めました。 泣き虫なのに――こんなに泣き虫なのに、どうして瞬はこんなことができてしまうのか。 氷河は、それが悔しくてならなかったのです。 声を限りに泣き叫びたいくらい、氷河は瞬の強さが悲しくてならなかったのです。 氷河がそうしなかったのは、ちょうど その時、銃を持った警備員たちが屋上に上がってきて、瞬を探し始めたからでした。 「氷河、危ないから、もう行って。最期に会えて嬉しかった」 瞬が、声をひそめて、悲しい別れを促してきます。 瞬なら そう言うのだろうと、氷河にはわかっていました。 わかっていたから、氷河はそこかに動かなかったのです。 そんなふうに 自分の命以外の命を気遣うことならできる優しい瞬を、たった一人で こんなところに残していけるはずがないではありませんか。 氷河は、そして、これまで幾度も その胸中で願ったことのある願いを、もう一度願ったのです。 人間になりたい。人間になりたい――と。 大きく強い人間になって、瞬を この窮地から救い出し、瞬を苦しめ悲しませる すべてのものから瞬を守ってやりたい。 それが、氷河の心からの願いでした。 けれど、それは叶わぬ夢です。 その願いが叶わないなら――鳥の身では、瞬を守ることはできないのなら――せめて ここで瞬と一緒に死にたい。 今の氷河に叶えられる夢は、それ一つきり。 ならば せめてその夢だけは叶えたいと、氷河は静かな気持ちで思いました。 空には丸い月が一つあるだけ。 工場の警備員たちが手にした大きなライトが、時折、瞬と氷河の身体の一部を光で捕えます。 「氷河、早く行って! さよなら」 「おい、こっちに何かいるぞ!」 「いたぞ、見付かった!」 時折 かすめて過ぎるだけだったライトの光は、今は確実に瞬と氷河の姿を捕えていました。 警備員たちの声と不吉な光。 「氷河、行って。早く逃げて。氷河!」 瞬が、切羽詰まった悲鳴で、一向に飛び立とうとしない氷河を急き立てます。 動かせる方の手はもちろん、血が流れ続け、ただ動かすだけでも激痛が走るのだろう右手まで使って、瞬は氷河の身体を空の方に押しやろうとしました。 「逃げて。氷河、お願いだから!」 瞬の声も頬も、涙でぐしゃぐしゃ。 瞬が誰のために そんなに泣いているのかは わかっていたのですけれど――やっぱり氷河は動きませんでした。 どうせ瞬に救われた命。 瞬がいなかったなら、母の帰ってこない巣の中で凍え死んでいたはずの命なのです。 これは、瞬に救われた命を瞬に返すだけのこと。 氷河は、瞬を庇うように、白く大きな翼をいっぱいに広げました。 氷河は大きな鳥でしたから、瞬の姿は氷河の翼の陰にすっぽり隠れます。 「氷河、だめ。だめだよ。逃げて。あの人たちは銃を持ってるの!」 たとえ銃で その胸を撃たれても、氷河はそこから動くつもりはありませんでした。 瞬を守りきることはできなくても、瞬より遅く死ぬつもりはありませんでした。 氷河は、死んでも そこから動かないつもりだったのです。 |