「戦わなくていい。トレーニングに付き合ってくれ」 氷河が瞬に そう言ってきたのは、翌日の朝のことだった。 戦うことが恐いなどという聖闘士にあるまじき思いを、瞬が仲間たちに訴えたのは つい昨日のことである。 そんな臆病な告白をした人間に、しかも昨日の今日、氷河はいったい何を言い出したのかと、瞬は氷河の意図を疑うことになった。 「僕は――」 「おまえは まさか、この俺がおまえに負けるなんてことを考えているわけじゃないだろうな。おまえが、この俺を傷付けることができるなんてことを考えて うぬぼれているのだとしたら、俺は俺の名誉を守るために、おまえに決闘を申し込むぞ」 そういう理屈で ためらう瞬の機先を制し、氷河が瞬に拒絶の言葉を言わせまいとする。 「そ……そんなことは――」 「なら、相手をしろ。俺と戦えと言っているんじゃない。俺のトレーニングに協力しろと言っているんだ。いわば運動、スポーツだ。聖衣もつけなくていい。おまえは どうせ聖衣を聖域に返上するつもりでいるんだろう。なら、傷なんかつけず、できるだけ綺麗なままで返した方がいい」 「……」 「おまえが もう戦いたくないというのなら、俺たちは おまえの意思を尊重する。おまえから兄を奪った者の一人として、俺には おまえに戦いを強いる権利はない。だが、おまえがアテナの聖闘士でいることをやめるというのなら、その前に一度だけ、俺はおまえの聖闘士としての力を見極めておきたい。泣き虫だった おまえがどれほどのものになったのか、知りたいんだ。ただの興味本位だが――おまえが聖闘士でなくなり、俺たちの仲間でいることをやめてしまったら、そんなこともできなくなるだろうからな」 『おまえが聖闘士でなくなり、俺たちの仲間でいることをやめてしまったら』 戦うことをやめるということは そういうことなのかと、瞬は唇を噛みしめて、今はまだ仲間であるはずの氷河の顔を見上げたのである。 氷河は既に 仲間の一人を切り捨てるつもりでいるのか、その青い瞳は無感動に冴えわたり、冷ややかな光を呈しているようにさえ見えた。 殺生谷で、よりにもよって敵としての兄と対峙した時、確かに自分たちは仲間なのだと感じた、あの時の高揚感――を、瞬は悲しい気持ちで思い出したのである。 倒さなければならない敵が兄でさえなかったら、あの高揚感は、死ぬまで酔い続けていたい麻薬のように魅惑的なものだった。 僕は一人ではない――僕は一人で戦っているのではない――何の疑いもなく、そう信じてしまえる幸福。 敵が兄だというのに、あの時 瞬は確かに幸せだった。 それが孤独な戦いでないのなら、戦うことは恐くはない。 この仲間たちを守るためなのであれば、人を傷付け倒すことなど、どれほどの苦しみだろう――。 兄である敵の前で、瞬は、その満ち足りた思いに陶酔してさえいたのだ。 あの高揚感、一体感、充足感、幸福感――。 あの時の気持ちは、あの時が最初で最後の経験になるのだと、氷河の青い瞳は、静かに冷酷に瞬に告げていた。 氷河の挑発を拒絶することができず、氷河に促されるまま、瞬が城戸邸の裏庭に出たのは、仲間を失い一人になることへの不安や迷いに背中を押されてのことだった。 幼い頃に子供たちが駆けまわっていた小さな屋外運動場は、今は城戸邸に出入りする車両のためにアスファルトで舗装されてしまっていたが、隣接する小さな木立ちは昔のままで、瞬はその佇まいを認めることで 十分に往時の記憶を辿ることができた。 「いくぞ」 その懐かしい場所――幼い頃の瞬が幾度となく泣き、そんな瞬を仲間たちが幾度となく慰め励ましてくれた場所――で、氷河が瞬に拳を打ち込んでくる。 背後に跳びすさることで、その拳をよけながら、瞬は自分が招いた この事態に、泣きたい思いを味わっていた。 ――のだが。 氷河は、確かに強かった。 これはトレーニングだと言った手前もあるのか、彼は彼の凍気の類を瞬にぶつけてくることはなかったのだが、それでも十分に氷河は強かった。 防戦一辺倒でいては 自分は無傷ではいられない――と悟るのに、瞬は1分以上の時間を必要としなかった。 これまで瞬は、実は、チェーンを用いずに本気で他者と戦った経験がなかった。 敵に攻撃を仕掛ける時には、責任逃れをするように小宇宙でチェーンを操り、チェーンにその作業を代行させた。 決して、自分の手足を用いることはしなかった。 瞬は、自分の中にある力を――特に攻撃的な力を――チェーンで抑制しているところがあったのである。 これまでずっと、瞬は、戦いの相手を傷付けたくないと思いながら、人を傷付けることができてしまう自分の力を恐れていた。 アンドロメダの聖衣をかけてレダと戦った時も、ブラックアンドロメダを倒さなければならなかった時も、兄に対峙した時にさえ。 勝つことではなく、相手を傷付けずに場を収めるにはどうしたらいいのかだけを考え、それが無理ならチェーンだけで敵を倒すにはどうしたらいいのかと考えて、瞬は自らの戦いを戦ってきた。 つまり、生身の拳を使わずに戦いを終わらせるにはどうしたらいいのかということだけを考えて。 そういう意味で、瞬は、他者と本気で戦ったことはなかったのだ。 が、氷河が相手だと、そんな気遣いは無用だった。 むしろ、そんな気遣いは危険だった。 氷河は、アンドロメダ座の聖闘士が全力を出しても倒せない相手――少なくとも、手加減をすると こちらが倒されてしまいかねない相手だったのだ。 瞬の手にチェーンはない。 自分が怪我を負わないために、瞬は初めて 自らの拳を氷河に打ち込んだ。 氷河が軽く、その拳をよける。 本当に軽く――まるで空中をふわふわと漂っている風船をよけるように たやすく――氷河はアンドロメダ座の聖闘士の拳をよけてみせた。 「あ……」 その一瞬の驚きと興奮を、どう言い表わせばいいのか――。 ともかく、その瞬間、瞬の胸が大きく弾んだのは紛れもない事実だった。 アンドロメダ座の聖闘士の拳など恐れるに値しないといった様子で、氷河から次の拳が放たれる。 それは、瞬には よけるのがやっとの素早い反撃だった。 本当に かろうじて、瞬は氷河の拳をよけることができた。 紙一重のところで氷河の攻撃をよけ、反撃する。 しかし、瞬が打ち込んだ拳は、またしても簡単に氷河にかわされてしまった。 そんなことを繰り返しているうちに、瞬は手加減を忘れていったのである。 力の抑制を忘れた。 アンドロメダ座の聖闘士が全力を出して攻撃を仕掛けても、氷河は傷付かない。 瞬が思い切り打っても、蹴っても、払っても、氷河は全くダメージを受けることなく、すぐに瞬に反撃してきた。 そうしているうちに――氷河と手合わせをしているうちに、瞬の中には、あろうことか二人の戦いを『楽しい』と感じる心が生まれてきてしまったのである。 それは楽しいことだった。 力が拮抗している相手と、全力を出し、だが、相手を傷付ける心配をせずに戦えることが、こんなに楽しいことだったとは。 瞬は、異様な興奮と陶酔に支配されつつあった。 油断はしていないし、意識を手放してもいない。 敵を完膚なきまでに打ちのめしたいという好戦的な気持ちに 我を失っているわけでもなければ、この戦いを自身の勝利で終わらせたいという欲に支配されているわけでもない。 もちろん、氷河に対して憎しみを抱いているわけでもない。 今 自分と拳を交えている相手は 大切な自分の仲間なのだという意識は、常に瞬の胸中にあった。 だが、心身が高揚し、興奮している。 身体中の血が沸き立つ。 いつもなら、敵と対峙した時には冷たさばかりを増す瞬の血、それが、今は熱をもって瞬の身体を逆巻いていた。 そんな攻撃と反撃を何十回か。 氷河の拳が、また瞬の耳許を掠める。 その時、瞬の耳に不思議な音が届けられた。 「好きだ」 「えっ」 一瞬――正確には、1秒の何十分の1かの短い時間――瞬は、今 自分が氷河と拳を交えていることを忘れた。 もちろん、それは作ってはいけない隙で、すぐに氷河の次の攻撃が瞬の上に降ってくる。 瞬は初めて氷河の拳をよけきることができず、その拳を右の前膊で受けとめることになった。 数百分の1秒単位での対戦をしている時に、いったい自分は何をしているのかと、瞬は自身の不覚に唇を噛んだのである。 空耳に決まっているではないかと、間合いを計りながら、瞬は自身に言いきかせた。 瞬が一瞬 見せた隙を、疲れのせいと判断したのか、氷河の攻撃が更に速さを増してくる。 力では勝てない相手と接近戦に持ち込むことは、どう考えても不利。 いっそ戦いの場を、障害物のある林の中に移動させてしまった方がいいのではないかと、瞬が考え始めた時だった。 「おまえが好きだ」 また、その音が瞬の耳に聞こえてきたのは。 否、二度目のそれは、音ではなく声だった。 意味のある言葉だった。 空耳と思ってしまうには あまりに明瞭。 しかし、誰の声なのかは わからない。 これは誰の声で、誰の言葉なのかと疑うことは、だが、無意味なことのような気がした。 それは思念ではなく音――声だったのだ。 そして、今 瞬の耳に“声”を届けられるほど近い場所にいるのは、氷河ただひとりしかいないのだから。 氷河の声でなかったら、それは、氷河の素早い動作が作る風の生み出す音でしか ありえない。 だというのに、氷河は全くの無表情で もうじき仲間でなくなる者への攻撃を続けている――ように見える。 もし氷河が そんな言葉を作りながらアンドロメダ座の聖闘士と対等に戦っているというのなら、彼は膂力だけでなく敏捷性においても アンドロメダ座の聖闘士を はるかに凌駕する力を有していることになる。 だが、瞬には、そうと認めることができなかった。 殺生谷以前の、どこまでも主体的に攻撃を仕掛けていく氷河の戦い振りを見る限り、彼が敏捷性に優れている必要は さほどないはず――なのである。 瞬がそう思ってしまうのは、もしかしたら、氷河と同じ聖闘士としての瞬のプライドのせいだったかもしれなかった。 確かめたい――と、瞬は思ったのである。 それは氷河の声なのか、氷河の言葉なのか、それとも、全く別の何かなのかを。 もし それが氷河の発した言葉なのであれば、氷河はその言葉を作るために、その瞬間に唇を動かすはず。 その瞬間に氷河の唇を見ればわかるはず――である。 氷河の次の動作を推察するために 主に氷河の肩や肘、腰に向けていた目を、瞬は僅かに上方に移動させた。 氷河の動作は読みにくくなるが、今は他に仕様がない。 それで多少 痛い思いをすることになっても構わないと、瞬は覚悟を決めた。 途端に――驚いたことに、氷河と視線が会った。 それも一瞬のこと、すぐに氷河の青い瞳は瞬の視界から消えてしまったが。 そして、その後も、氷河の動きは速かった。 氷河の唇に注視するようになってからも、瞬は 二度ほど その声を聞くことになったのだが、結局 瞬は、その声が誰のもので、どういう意図をもって発せられたものなのかを確かめることはできなかった。 「瞬!」 氷河の唇の動きを、瞬がはっきり読むことができたのは、それから約1時間後。 氷河が、 「そろそろやめよう」 と言い出した時だった。 「え……」 その一声で、緊張させていた瞬の全身から急速に力が抜けていく。 二人の戦いが終わってしまうことに、瞬は、自分でも意外だったのだが――落胆していた。 終わらせてしまいたくない――少なくとも、あの声が聞こえた理由を確かめるまでは。 あの声が空耳でなかったこと。 あの声の主が誰だったのか。 なぜ その言葉だったのかを 確かめるまでは――。 瞬は そう思っていた。 窺うように氷河の瞳を覗き込むと、氷河は素知らぬ顔をしていて、その表情には、彼が何か特別なことをした素振りのかけらも たたえられてはいなかった。 「一日 動かずにいると身体もなまるし、気もふさぐだろう。少しは気が紛れたか」 「あ……そ……そうだね。あの……運動不足は解消したかも……」 「それはよかった」 話したいことは そんなことではないし、知りたいことは別にある。 だが、氷河の態度が あまりにさりげなくて――いかにも 何心ない様子をしているので、瞬は、確かめたいことを氷河に確かめることができなかったのである。 もどかしさに瞼を伏せ、もう一度 顔をあげる。 戦うことが恐いなどという情けないことを言い出した仲間を、氷河の青い瞳がじっと見詰めていることに気付いて、その瞳の青さに、瞬は我知らず息を呑んだ。 「あ……」 氷河の瞳の青さの意味するところは読み切れない。 それでも、瞬は、自分が氷河の瞳を見詰めていることに、不思議な緊張と胸苦しさを覚えた。 ふいに、氷河の無感動な瞳が和らぐ。 氷河は、そして、その整った顔を笑顔で崩して、瞬を誘ってきた。 「なら、明日も手合わせをしよう。戦うのをやめるのは、なにも今日明日のことでなくてもいいんだろう?」 「あ……あの……うん……!」 あの声と言葉の謎を解く機会を、もう一度与えてもらえる。 その時 瞬が考えたのは、ただそれだけだった。 その機会を与えられることが嬉しくて――氷河の提案に答える瞬の声は、軽快に弾んでさえいたのである。 瞬の弾んだ返答を聞いた氷河は、ただ静かに微笑しただけだった。 |