確かに聞こえるのに、確かめることができない。
『おまえが好きだ』
その声が聞こえてから氷河の口許に視線を走らせても、もう遅かった。
その時には既に、氷河の唇は固く引き結ばれているのだ。
もしかしたら それは声ではなく、小宇宙の発する思念なのだろうかと疑ってもみたのだが、瞬が思い起こすそれは どう考えても頭に直接響いてくるものではなく、空気の振動が伝える音だった。

では幻聴なのか。あるいは、人ならぬ身の神が作り出す声なのか。
瞬は、その可能性まで考えたのである。
もっとも、瞬は、それが神の声かもしれないという考えは、早々に放棄することになったが。
ただ一人の兄を失ったばかりの不幸な弟の心を哀れんだにしても、神が人間を慰撫する言葉として、それはあまりに不適切なものに思えたから。

翌日も、瞬は、その声の主が氷河だという確信を得ることはできなかった。
その翌日も同様。
なぜか沸き立つ胸が作り出す熱のせいで眠れない夜を過ごし、今日こそはと決意して目覚めた翌々日。
瞬は――というより城戸邸は――優雅に氷河と手合わせなどしていられない災厄に見舞われることになった。
殺生谷で、瞬の兄と共に瓦礫の下に埋もれたものと思われていた巨躯の聖闘士が、城戸邸を襲撃してきたのである。
沙織の身をドクラテスに奪われて、瞬は“敵”と戦わないわけにはいかなくなってしまった。

もう身にまとうこともないだろうと思っていた聖衣を数日振りにも身につけて、氷河と共に下り立った戦いの庭。
その庭で――あろうことか、瞬は、再び聞くことになってしまったのである。
「瞬。おまえが好きだ」
という、あの声を。

すぐ目の前に敵がいるというのに、瞬の胸は大きく跳ね上がった。
たった今も、瞬の最も側近くにいるのは白鳥座の聖闘士。
そして、だが、やはり 瞬は 今日も その瞬間を見逃してしまったのである。
氷河は、今日も 自分が告げた言葉のことなど知らぬ顔で、ドクラテスに拳を打ち込んでいた。
もう一度、もう一度言って! ――と胸中で叫びながら、瞬もまた慌てて敵にチェーンを放ったのである。
しかし、瞬は、その日はもう、胸が逸る その言葉を聞くことはできなかった。
騒ぎを聞きつけた誰かが通報したのか、パトカーが城戸邸にやってきて、ドクラテスは、人界の治外法権圏にあるといってもいい聖闘士であるにもかかわらず、城戸邸から あたふたと退散してしまったのだ。

破壊することしか能のない敵の来襲を受けて多大な物的被害を被った城戸邸の建物。
突如として出現した瓦礫の山の間をぬって、星矢と紫龍が瞬の側に駆け寄ってくる。
「瞬、ちゃんと戦えるじゃないか! なんだ、心配して損した」
「あ……うん。沙織さんが敵の手に落ちたから、夢中で……」
兄の命を奪った戦い。
その戦いの中に身を置くことなど、もう二度とできない。
そう思っていたのに、星矢の言う通り、瞬は戦うことができてしまった。
なぜ そんなことができてしまったのかと訝ることもせず――その理由はわかっていたので――瞬は、ちらりと その視線を氷河の上に巡らせた。
氷河はやはり素知らぬ顔をして、巨漢の聖闘士が逃げ去った方角に視線を投じているばかりである。
その時 瞬が感じた落胆は、彼が敵を取り逃がしてしまったせいばかりではなかったろう。

だが、とにかく――戦えてしまったのだ。
そして、“敵”が、沙織と沙織を取り巻く者たちに危害を加え続けようとしていることもわかった。
これからも、直截的な危険が、沙織と彼女の聖闘士たちの身に降りかかってくることだろう。
アテナの聖闘士たちの戦いは、世界の平和と安寧を守るための戦いであり、理不尽な力によって不幸になる子供たちを生まないための戦いであると同時に、仲間の身が危険にさらされる戦いでもあることを、瞬は思い知らされた。

だから――瞬は、戦線から離脱することができなくなってしまったのである。
“敵”の脅威にさらされる城戸沙織と彼女の青銅聖闘士の陣営の戦力の減少を招かないために。
自分だけが戦いから逃れて、仲間たちの戦いを不利にしないために。
兄を失ってしまった今、せめて仲間たちには生きていてほしいと願う心のために。






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