城戸沙織が女神アテナとして受け入れられ、聖域は彼女の統べる場所となった。
本来の姿と秩序を取り戻した聖域をあとにして、青銅聖闘士たちが日本に帰国したのは、それから半月ほどの時間が経ってから。
気の早い城戸邸の庭は、そろそろ春の花で その身を飾り始めていた。

「まだ戦うのが恐いか」
聖域での戦いが夢だったように思えるほど美しく のどかな春の風景。
氷河に問われた瞬は、首を横に振ってみせた。
「もう恐くはないの。僕は戦わなきゃいけないんだって思う。ただ――」
「ただ?」
話したいことは別にある。
氷河もそれはわかっているはずなのに、彼は相変わらず素知らぬ顔をして、瞬に尋ねてくる。
氷河は永遠に あの謎を謎のままにしておこうとしているか、氷河は その答えも欲していないのかと、僅かに落胆して、瞬は再度首を横に振った。
「……ううん。なんでもない」

それならそれでもいい。
それでも自分は生き続け、戦い続けていくことができるだろうからと、瞬が自らに言いきかせた時だった。
「チェーホフの短編に『いたずら』という作品があるんだ」
氷河が突然、彼の故国の劇作家の名を口にしたのは。
訝って顔をあげた瞬の視線を、氷河の青い瞳が捉える。
彼は、口許に僅かに皮肉めいた笑みを浮かべていた。

「戯曲ではなく小説だ。その小説の主人公は小さな男の子で、ソリに乗るのを恐がっている女の子を 強引にソリ遊びに誘う。ソリが風を切って斜面を滑り下りる時、男の子は その女の子の耳許に囁くんだ。『君が好きだよ』と」
「あ……」
「女の子は、それを男の子が言ったものなのか空耳にすぎなかったのかを確かめたくなり、自分がソリに乗るのを恐れていたことも忘れ、またソリに乗ろうと男の子を誘う――何度も誘う。男の子は、そのたび、女の子の耳許に囁く。『好きだよ』『君が好きだよ』――」
「――」

どこまでも白い北の国の冬。
丘の斜面も、遠くの山々も、丘の下に見える小さな村も、すべては白い雪に覆われている。
ただ 空だけが水色の世界で遊んでいる子供たち。
その中に一人だけ、ソリに乗ることを恐れ、皆から離れたところに ぽつりと立っている臆病な少女。
所在無げに一人きりで立っている少女を見かねて、彼女をソリ遊びに誘う少年――。
その二人は誰なのだと、氷河は誰のことを語っているのだと、瞬は胸をどきどきさせながら思ったのである。
だが、どう訊けばいいのかがわからなくて――瞬は 瞼を伏せたまま、氷河に物語の続きを問うた。

「そ……それで、その二人はどうなるの」
「どうにもならない。主人公は本当のことを女の子に告げなかった。二人はそのまま大人になり、やがて 女の子は他の男の許に嫁いでいく」
「そんな……!」
『そんな』と言われても、チェーホフも困るだろう。
それは100年以上も前に、おそらくは 子供の頃の思い出を懐かしむ年代になった大人のために書かれた小説なのだ。
それは瞬にも わかっていたのだが――それでも、物語のその結末は、瞬には受け入れ難いものだった。
氷河も、そうだったらしい。

「俺は、そんな結末は嫌だから――」
氷河の右の手が、瞬の左の頬に触れてくる。
瞬が顔をあげると、そこには いつものように氷河の青い瞳があった。
だが、その青い瞳は、今日は全く冷たくなく――むしろ熱く――そして、瞬をまっすぐに見おろし見詰めていた。
「だから、一度は 戦場でないところで言っておこうと思ってな」
「氷河……」
「瞬、俺はおまえが好きだ」
「あ……」

『おまえが好きだ』という音を作るために動く氷河の唇を どれほど見たいと思っていたことか。
その音が作る言葉の意味を物語る氷河の瞳に出会いたいと、どれほど強く、どれほど長い間 願っていたことか。
焦らされ、待たされすぎたせいで、瞬は既に氷河を責めてやろうという気勢すら失っていた。
やっと訪れた この場、この時が嬉しくて、瞬はあとさきも考えず、飛びつくように氷河の首にしがみついていったのである。

「戦っている時にしか聞こえないし、氷河はいつも知らんぷりしてるし、僕、自信がなくなって、何度も空耳かと疑って、あれは もしかしたら神様の声なんじゃないかと思ったりしたこともあったんだよ!」
言葉より明白な瞬からの答えを受け取った氷河が、僅かに緊張させていた肩から力を抜き、ボールが弾むように彼の胸に飛び込んできた瞬の身体を抱きとめる。
そうして、彼は瞬の耳許で笑みを作った――ようだった。
「そんなはずがないだろう。神より俺の方がずっと おまえを愛している。もし神が おまえに恋焦がれているのだとしても、この場合は 遠慮するのが礼儀というものだ」
「うん、そうだよね、きっと」
今は、氷河になら、何を言われても嬉しい。
神ならぬ人間の身で、神が守るべき礼儀を説く氷河にも、瞬は今は笑い返すことしかできなかった。

「じゃあ、これまで僕が何度も聞いた『好き』は、全部氷河の声だったんだ」
「俺以外の誰かが、おまえにそんなことを言ったら、俺はそいつをぶちのめすだろう」
「氷河以外にはいないよ。こんな奇抜なこと思いつく人なんて。あとは せいぜいロシアの大劇作家くらい」
「では、奇抜じゃないことをしよう」
これまで瞬に幾度も『おまえが好きだ』と告げてくれていた氷河の唇が、瞬の唇におりてくる。
スタート地点で足踏みを繰り返していたような二人の関係が、とんでもないスピードで進展していくのに、瞬は軽い目眩いを覚えさえしたのである。
だが、その目眩いは もしかしたら 混乱や戸惑いがもたらしたものではなく、むしろ待ち焦がれていたものを ついに手に入れた喜びによって作られた陶酔だったかもしれない。

実際、瞬は、氷河の唇が運んでくる熱と感触に陶然となり、名残り惜しげに その唇が自分のそれから離れていった時には、その触れ合いをやめたくなくて、つい氷河の唇を追いかけてしまいそうになったのである。
氷河が温かいのは唇だけではないことを、彼の胸が教えてくれなかったなら、瞬はどこまでも氷河の唇を追いかけ続けていたかもしれなかった。
氷河の胸に、頬を押し当てる。
氷河の手と指と腕が、瞬の肩と首と背中に 別の熱を運んできてくれて、瞬は それらの温かさにうっとりした。

「僕、もう思い出せないんだ。僕がどうしてあんなに戦うことを恐がっていたのか……」
「そうか」
「アテナのため、地上の平和と安寧のため、この世界に不幸な子供を生まないため――戦いの目的は明確で、僕には戦う力もある。なのに、なぜ、僕はあんなに戦うことが恐かったのか……」
「理由はわかったのか」
氷河は瞬に尋ねてきたが、彼は その理由には さほど興味を抱いていないようだった。
殺生谷以降の瞬の戦いを見て、それは とうに克服された問題なのだと、彼は思っていてくれたのかもしれない。

「僕は兄さんに再会して、兄さんを失った――悲しかった。僕は、兄さんを失うと同時に 仲間を手に入れた。兄さんを失ったように、僕はいつか この仲間たちをも失うのだと思った。あの時は、失わないはずがないって思ったんだ。でも、不思議だね。僕、失いたくないものは、あの頃よりずっと増えたのに、今はちっとも恐くないんだよ」
「俺が死なないとわかったからだろう。おまえが俺の側にいてくれさえすれば、俺は死なない。おまえが俺を生き返らせてくれるから。おそらく、おまえは星矢や紫龍を生き返らせることもできるだろう。だから、おまえが戦いを恐れる必要はない」
「うん! うん、そうだね! 僕が氷河たちを守ってあげる!」

そんな簡単なことに気付かずにいた以前の自分が、瞬は不思議でならなかった。
失いたくないのなら、失わずに済むように、自分の力で守ればいいのだ。
必ず失うと決めつけず、失わないために戦えばいい。
その戦いのための勇気を持てばいいだけのことなのだ。
以前の自分は おそらく、そのための勇気を生む術を持っていなかっただけなのだと、瞬は今なら思うことができた。

瞬に その勇気をもたらしてくれたのは、戦いの中でいつも聞こえてくる あの言葉だった。
最初は空耳かもしれないと思った、小さな短い一言。
ささやかな その短い一言で、瞬は、自分を見詰めていてくれる人がいるのだということに気付かされ、戦いを恐れる気持ちを忘れてしまった。
それは ごく些細なことなのかもしれない。
だが、その些細なことに気付くことができないと、人は戦う勇気を持つこともできないのだ。
へたをすると一生。
気付くことができてよかった――と、瞬は思ったのである。

失うことを恐れているのは自分だけではなかったこと。
失いたくないものを守るために戦っている人がすぐ側にいて、その人が失いたくないと思っているものが、彼の臆病な一人の仲間だったこと。
その事実に気付くことができて本当によかったと、瞬は今、心の底から思っていた。






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