目覚めた場所に、瞬は見覚えがなかった。 大理石の柱、高い天井。 聖域のどこか――おそらくアテナ神殿の一角なのだろうと、ぼんやりと思う。 瞬がそう思ったのは、瞬が十二の各宮や教皇殿の造りはほぼ熟知していて、聖域に知らない部屋があるのはアテナ神殿だけだったから。 つまり、そこは、瞬には見覚えのない場所だったのである。 「ここは……」 大理石でできた棺のような寝台。 なぜ自分は こんなところに死人のように横たわっていたのだろうと訝りながら 上体を起こした瞬は、自分の身体を異様に重く感じることになった。 白く濃い靄がかかったように、記憶もぼんやりしている。 その靄を懸命に払いのけ 思い出すことができたのは、自分がハーデスとの戦いのために冥界に赴いたこと。 ジュデッカで、ハーデスに身体を奪われそうになったこと。 圧倒的な力で 瞬の心を押し潰そうとするハーデスに、必死に抗いながら、兄や星矢たち、そして地上で死に瀕している人々を救うため、彼に打ち克てるほど強大な力がほしいと強く願ったこと――。 その思いが通じたのだろうか。 だから、今 自分はハーデスの存在を感じていないのだろうか――と、瞬は信じ難い思いで思った。 強大な神の力に、自分でも悲しくなるほど――まさに微力で、抵抗した。 徒労にも思えた その抵抗が効を奏し、自分は冥府の王の力に屈せずに済んだのか。 だから、自分の意思と心は消えることなく、ここに存在するのだろうか――。 瞬に形作ることのできた思考は、すべてが疑問形、すべてが仮定の形をとった希望的推測だった。 それは疑問であり仮定でしかなかったが、瞬には他に考えようがなかったのである。 自分の心が消えることなく、今 ここにこうして在ることを説明できる事情を、瞬は他に思いつけなかった。 ハーデスは、星矢たちは、いったいどうなったのか。 瞬は、ハーデスの存在を感じ取ることはできなかったが、仲間たちの小宇宙を感じることもできなかった。 もしかしたら自分は ハーデスとの戦いの中で死んだものと見なされ、ここに安置されていたのだろうか。 一度 死んで蘇った身だから、自分は自分の身体を 今 こんなに重く感じるのか――。 本当のところは何も思い出せないまま――そもそも、自分がそれを忘れてしまったのか、それとも 元々 知ることのできない状況にあっただけなのかもわからないまま――瞬は、自分のものとも思えないほど重い足を引きずるようにして、建物の出口に向かった。 そうして、瞬が、その建物の外に見い出した光景。 それは、一面の花園だった。 そこは花と光であふれていた。 だが、その光は陽光ではない。 それは瞬には初めて見る光景だった。 ここは聖域ではない。 では、どこなのか。 自分はまだ冥界にいるのか。 ここが冥界なのだとしたら、アテナの聖闘士とハーデスの戦いは続いているのか。 あるいは、それは終結したのか。 終結したのだとしたら、それはどういう結末を迎えたのか。 自分は なぜたった一人で、見知らぬ場所で目覚めることになったのか――。 何もかも わからないことだらけだった。 自分がジュデッカでハーデスに抵抗していた時から どれだけの時間が流れたのかということすら、瞬にはわからなかった。 そして、自分がこれからどうすればいいのかも。 何はともあれ、最後の記憶のある場所――ジュデッカに戻ってハーデスと仲間たちがどうなったかを 確かめなければならない。 この場所を脱出しなければならない。 そう、瞬は思ったのである。 間髪を置かずに、『だが、どうやって』と自身に尋ねられ、瞬は答えに窮することになってしまったのだが。 見渡す限りに続く花園は、果てがないようにさえ見える。 ここを出て、あの薄闇のジュデッカに戻ろうにも、果たして どちらに向かえばいいのかがわからない。 咲き乱れる花々を見おろす石段の上で 瞬が途方に暮れかけた時、瞬の立つ石段の下に、ふいに風とは違う力によって動くものが現われた。 金色と銀色の鎧をまとった二人の男。 二人はいつのまにか そこに忽然と現われ、そして、瞬の足下に跪き、 「慶賀の至りです。再び、ハーデス様との拝謁の栄に浴することができるとは。このヒュプノス、どれほど この時を待っていたことか」 「この時をお待ち申し上げておりました。ハーデス様、このタナトスにご命令を」 そう言って、二人の男は その顔をあげ、瞬を仰ぎ見た。 金色の髪と金色の瞳、銀色の髪と銀色の瞳。 二人は どう見ても人間ではない。 では彼等は何者なのかということを、瞬は考えなかった。 ハーデスに跪く者たちがアテナとアテナの聖闘士の味方であるはずがない。 それさえわかれば、瞬には十分だったのだ。 ともあれ、二人のアテナの敵の登場によって わかったことが一つ。 花で埋め尽くされたこの場所が(信じ難いことではあるが)冥界であること。 そして、自分がまだ冥界にいるということ。 もしハーデスとアテナの聖闘士たちの戦いが終結しているのなら、たとえ その身体が死んでいても、瞬の仲間たちが瞬の身体を冥界に放置していくはずがない。 それが仲間のものだからという理由もあったが、瞬の身体がハーデスに悪用されるのを回避するためにも、それは考えられないことだった。 にもかかわらず、アンドロメダ座の聖闘士の身体が冥界にあるという状況から考えられる可能性は二つだけ。 一つは、アテナの聖闘士たちがハーデスとの戦いに敗れ、この冥界のどこかに屍をさらしている場合。 もう一つは、星矢たちが ここではない場所で、ハーデスとの戦いを続けている場合。 もちろん後者であるに決まっている――と、瞬は思った。 ならば自分もすぐに その場所に行かなければならない――と。 金色の男ヒュプノスと銀色の男タナトスは、瞬をハーデスだと思っているようだった。 この身体を動かしている力は 冥府の王の意思なのだと、彼等は信じている――誤解している。 誤解させておいた方がいいだろうと、瞬は咄嗟に判断した。 そうすれば――彼等に、本当は冥府の王でない者を、アテナの聖闘士たちの許に運ばせることも可能かもしれない――と。 「アテナの聖闘士たちは……」 掠れ震える声で、瞬は二人に尋ねた。 声を発した途端、ひどい頭痛に襲われる。 それは立っているのがやっとに思えるほど激しい頭痛だった。 むしろ、身体のすべてが、融合しない心と身体の軋みに悲鳴をあげているような痛み。 だが、ここで倒れるわけにはいかない。 瞬は持てる力のすべてを振り絞って、ふらつく身体を何とか支えぬいた。 「さて。我々は きゃつらは そろそろコキュートスあたりに落とされたものと思っておりましたが」 「ウジ虫共が片付いたから、こちらにお見えになったのではなかったのですか」 「そうだった……気もする……。少し、頭が重くて――」 「長く眠っていらしたのです。ご無理はなさらない方が」 「アテナの聖闘士たちの様子を確かめたいの……だ。彼等の許に行かなくては」 「お供いたしますが」 「あ……今すぐ、彼等の許に連れていって」 瞬は貧血というものを経験したことがなかったが、おそらくそれは、今 自分が味わっている苦痛に耐え切れなかった人間が起こす現象であるに違いないと、瞬は思った。 頬から――否、身体中から、血の気が失せているのがわかる。 瞬の蒼白の頬を見詰めて、金色の男は怪訝そうに眉をひそめた。 「ご自分で ご移動も叶わぬほど、御身がご不調なのでしたら、やはり こちらでお待ちを。エリシオンを出るのは あまり気が済みませんが、我等が様子を見てまいります」 「直接、この目で確かめたいのだ。ぼ……余をアテナの聖闘士たちのいる場所に運べ! 今すぐにだ!」 ハーデスの口調はこんなふうだったろうか。 全く自信はなかったが、二人の男たちは、瞬の命令を聞くや、即座に瞬の願いを叶えてくれた。 態度もおかしく、口調も雰囲気もハーデスとは異なる瞬の命令に、彼等が異議も挟まずに従った訳を瞬が知ったのは、瞬の意思によって動く その身体がジュデッカに運ばれてから。 そこで、瞬が仲間たちに再会した時だった。 |