ジュデッカの様子は、瞬の記憶にある通りのまま、ほぼ変わっていなかった。
傷付いた星矢と兄がそこにいて、アテナの聖闘士たちを統べる女神がそこにいる。
ほぼ無傷の氷河と紫龍までがそこにいるのは、“ハーデス”が二人の男たちに『アテナの聖闘士たちの様子を確かめたい』と告げたからだったのだろう。
金銀の男たちは、ハーデスが口にした願いを完全に果たしてくれたようだった。

瞬の仲間たちは生きていた。
何よりもまず そのことに、瞬は心を安んじた。
もっとも、瞬は、そのまま いつまでも自らの心を安らげたままでは いられなかったのだが。
アテナとアテナの聖闘士たちがいる薄闇のジュデッカ。
そこには、瞬の仲間たちの他に、瞬の姿をした人物もまた、瞬が記憶していた通りの場所に立っていたから。
「ぼ……僕…… !? 」
今、自分の目に映っているものがアンドロメダ座の聖闘士の姿であるなら、今 自分が自分の意思で動かしている この身体は何なのか――。

「そなた――」
瞬の姿をしたハーデスは、その場にいる者たちの中で最も蒼白な頬をしていた。
「ハーデス様……? これはいったい――」
金銀の男たちを動じさせているものは、瞬の姿をした者の持つ威圧感。
「こいつ、何者なんだ」
そして、瞬の仲間たちが見ているものは、彼等が初めて出会った男が その瞳にたたえている戸惑いだったろう。

それで、瞬は、やっと理解したのである。
そんなことが起こり得るとは想像すらしたことがなかったので、無視していた違和感。
見知らぬ場所で目覚めたせいで気付かずにいた視点の高さ。
瞬が目の前に運んできたの指は、綺麗な指ではあったが、見慣れた自分のものではなかった。

瞬の意思は、瞬のものではない身体に宿っていたのだ。
冥界の住人である金銀の二人の男たちが疑う素振りも見せずに 瞬の命令に従ったところから察するに、おそらくは冥府の王の本来の肉体に。
いったいなぜこんなことが起きてしまったのかは、瞬にもわからなかったが、自身の身体をハーデスに奪われた瞬の魂は、たまたま虚ろになっていた冥府の王の身体に引き寄せられ、吸着させられてしまったらしい。
瞬は今、冥府の王の身体を我が物としていた。

その事実を認めた途端、先程まで瞬を苦しめていた すべての痛みが消えていく。
そして、その事実を認識した瞬の反応は素早かった。
瞬はほとんど弾かれたように、仲間たちに向かって叫んでいた。
「星矢! 兄さん、紫龍、氷河! 今すぐ この身体を壊して!」
「なに…… !? 」

なぜハーデス・・・・がそんなことをアテナの聖闘士に命じてくるのか。
彼等がその訳を理解したのは、ハーデスの姿をした者が その身にまとっている小宇宙のせいだったろう。
現状を理解した瞬の仲間たちの反応は、だが、瞬のそれほど迅速ではなかった。

「瞬……おまえなのか……?」
「こっちが瞬で、あっちがハーデス?」
「まさかそんなことが――」
「だとしたら、俺たちは どっちも倒せないじゃないか……!」
なぜ倒せないのだと、星矢の呻くような呟きを聞いて、瞬は苛立った。
もちろん、瞬とて、ハーデスの本体を滅ぼし去ることで ハーデスの野望を完全に打ち砕くことができるだろうなどという、甘い考えを抱いていたわけではない。

彼は、アンドロメダ座の聖闘士の身体で、彼の望み通りの死の世界を地上に築こうとするだけかもしれないし、それによって“瞬”の身体は今度こそ本当にハーデスのものになってしまうのかもしれない。
だが、神の身体に比べれば人間の身体は脆弱なものであるだろうし、もともと他人のものだった身体に、別の者の魂が問題なく親和することがあろうとも思えない。
脆弱な人間の身体を用いてハーデスが発揮する力が、神の本来の身体と魂が融合した状態で発揮する力より大きいものであるはずがない。
ハーデスの本体が失われることは、冥府の王に何らかのダメージを与えることになるのだ。
その分、アテナの聖闘士の敵は弱くなる。
そのはずだと考えて、瞬はもう一度叫んだ。

「お願い、この身体を壊して!」
そうすることで、アンドロメダ座の聖闘士の心と魂が行き場を失い消滅することになったとしても、それが何だというのだろう。
それこそアテナの聖闘士の本望、アンドロメダ座の聖闘士らしい戦い方と勝利というものではないか。
「早く! ハーデスが何かする前に」
瞬の必死の訴えに応えてきたのは、だが、彼の仲間たちではなかった。
「出ろ! 今すぐその身体から! それは余の身体だ」
「いやです。あなたには僕にそんなことを命じる権利はない」
当然すぎる瞬の反駁に、瞬の姿をしたハーデスが 続く言葉を失う。

瞬の身体にハーデスの魂。
ハーデスの身体に瞬の魂。
瞬の仲間たちも、ハーデスのしもべらしき二人の男たちも、そしてハーデス当人も、自らの行動に迷っていた。
自分がどう動くべきか、誰と戦うべきか、その場にいる誰もが わからずにいた。
わかっているのは、ハーデスの姿をしたシュンひとりきりだったのである。

「星矢、早く!」
「そんなこと言われても、無理だって……!」
「兄さん!」
「瞬、しかし――」
「紫龍!」
「そんなことをしたら、おまえはどうなるんだ」
「氷河、お願い……!」
「――」

自らがどう動くべきなのかが わからず、困惑し立ちすくむばかりのアテナの聖闘士たちの中で、氷河の表情だけが他の三人とは違っていた。
彼は 迷っているふうはなかった。
白鳥座の聖闘士には、瞬を、あるいはハーデスを、倒す意思が全くない。
ただ彼は ひどく不愉快そうな面持ちで、瞬(あるいはハーデス)を睨んでいた。
仲間や地上にいる人類を救うために自らの命を投げ出そうとしている瞬を哀れむ心も、氷河は全く抱いていないようだった。

「本当におまえなのか」
「僕じゃない、ハーデスだ! 氷河……!」
瞬は、問われたことに 悲鳴のように答えたのだが、その訴えは 氷河の心を動かすことも 身体を動かすこともなかった。
氷河はただ、その不機嫌の度合いを更に深めただけだった――そのように見えた。

地上を、そこに生きるすべての人間を滅ぼそうとしている“敵”を倒そうとしてくれない仲間たち。
敵を目の前にして、むしろ戦意を喪失していく仲間たち――。
こうなったら、頼れるのは神しかいない。
瞬はそう考えて、救いを求めるように、彼の女神の名を呼んだのである。
「アテナ……!」

人類が、人類の営む世界が、危機に瀕している今この時、何らかの行動を起こさずにいたのは、神であるアテナも 彼女の聖闘士たちと同じだった。
その彼女が、気難しげな目をして、瞬の姿をしたハーデスを見、ハーデスの姿をした瞬を見る。
そうしてから、もう一度 その視線を 瞬の姿をしたハーデスに投げたアテナは、次の瞬間、陰気で薄暗いジュデッカに、けたたましい笑い声を響かせ始めた。
「まあ……まあ、なんて愉快なこと! これだから、生きていることはやめられないわ。瞬、本当にお手柄よ。素敵な人質が手に入ったわ!」
「人質……?」

アテナが口にした思いがけない言葉に、瞬があっけにとられる。
ハーデスの姿をした彼女の聖闘士に、アテナは楽しそうな様子で頷いた。
「さあ、瞬、みんな。帰りましょう。このまま、今すぐ地上へ」
「へっ」
アテナの想定外の命令(?)に、星矢が、それでなくても丸い目を 更に丸くする。
「このまま、今すぐとは――。ハーデスはどうするんです。瞬は――」
紫龍が至極当然の疑念を彼の女神に投じ、彼の女神は彼女の聖闘士に、これまた至極当然の顔をして答えてきた。

「瞬は、私たちと一緒に地上に帰るわよ。当然でしょう。私が 地上で最も清らかな魂を 冥府の王なんかに渡すことがあるとでも思っているの。瞬は、もちろん、私たちと一緒に光の中に帰るのよ。ハーデスの身体がこちらの手にあったら、ハーデスは地上に手を出すことはできなくなるでしょう。ハーデスは超の字がつくほどのナルシストですもの。自分の身体ほど大切なものはないわよね」
アテナは楽しそうに そう言って、瞬の姿をした冥府の王に、いかにも腹に一物あるという様子の笑みを向けた。






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