アテナが本気で、瞬の身体を冥界に残し、瞬の心だけを地上に持ち帰るつもりでいるのだとは、アテナの聖闘士たちには思い難かったのである。
しかし、それは決して不可能なことではなく、アテナは『あるいは そんなことも本気でやりかねない』と思わせる女神だった。
しかも、アテナの言う通り、ハーデスの本体なるものは この上なく価値ある人質である。
アテナは、ハーデスとの対決を有利に進めるために、ハーデスを挑発しているにすぎないのだと 自らに言いきかせながら、アテナの聖闘士たちは胸中に生まれた不安を 完全に消し去ることができずにいた。

「瞬ほどの可愛げはないけど、これだって 見るに耐えないほど見苦しい器というわけでもないし、氷河もそれで文句はないわね?」
アテナが、瞬当人ではなく氷河に尋ねる。
氷河からの答え――即答――は、
「文句は大ありだ!」
というものだった。
「たとえ心が瞬でも――、いや、俺が好きなのはもちろん、瞬の身体ではなく心だ。身体が瞬で中身がハーデスなんてのは 論外の埒外の問題外だ。だが、いくら中身が瞬でも、見てくれがこりじゃ、抱く気も起きないじゃないか! いったい何なんだ、これは。瞬より10センチ――いや、20センチは上背がある!」

『俺より背が高い』とは言いたくないのか、氷河はそういう言い方をした。
氷河の男のプライドの微妙さに、沙織は 苦笑としか言いようのないものを、その顔に貼りつけた。
が、ハーデスには 氷河の発言は軽い苦笑で片付けられるようなものではなかったのである。
「だ……抱くとは」
瞬の姿をしたハーデスが、瞬ならば決して作らない引きつった表情を作り、それだけでは飽き足りなかったのか、その声までを引きつらせる。
アテナはハーデスの困惑など目にも耳にも入っていない様子で、彼女の聖闘士を叱責した。

「我儘 言うんじゃありません!」
ぴしゃりと そう言ってから、アテナは諭すような口調で言葉を継いだ。
「瞬の心を取り戻すことができて、地上の平和も維持できる。文句のつけようのない結末じゃないの。あなた方二人のことは あなた方二人で解決してちょうだい」
「そなた、何を言ってる。そなたは、余……余の身体をどうするつもりなのだ!」
アテナに無視されたハーデスが(どう考えても、アテナはわざとハーデスを無視したのだが)、アテナと氷河のやりとりに割り込んでくる。
「だから、どうもしたくないと言っているだろう!」
氷河は まとわりつく埃を鬱陶しがるように、声を荒げた。

「とにかく、細かいことは地上に戻ってから考えることにしましょう。こんなところに長居は無用よ。帰りましょ、帰りましょ」
弾んだ声でそう言って、アテナが ハーデスの姿をした瞬の手を取る。
「待たぬかっ!」
ハーデスはもちろん、このままアテナに帰られてしまうわけにはいかず、彼女を引きとめようとした。
そして、実は、沙織の言葉に素直に従ってしまえないのは、瞬もハーデスと同じだったのである。

「僕……沙織さん……」
まるで これからピクニックにでも出掛けようとしているように楽しげな目をしたアテナに手を引かれた瞬が、彼の女神の手に従うべきか否かを迷い、行き悩む様子を見せる。
瞬は、自分が他人の身体でこれからの人生を生きていくことなど 考えてもいなかったのだ。
ハーデスの本体を壊せば、ハーデスの野望を砕くことができる。
少なくとも、自らの身体を失ったハーデスは彼本来の神としての力を失い、アテナの聖闘士たちは人類の敵を倒しやすくなる。
力を殺がれたハーデスを、仲間たちは必ず倒してくれるだろうと、瞬はそればかりを考えていた。

「だから、細かいことはあとで考えましょう。今はとにかく、この陰気な場所を出るのが先よ。ここの空気はお肌にも悪そうだし」
アテナは ハーデスの姿をした瞬を連れて地上に帰る気 満々。
しかし、それで自身の半分を人質に取られることになるハーデスは、このままアテナを地上に帰すわけにはいかず、ハーデス同様 自身の半分を失うことになる瞬も、簡単にアテナの決定に従う決意を為すことができずにいた。

だが、もしかすると、その場で最もアテナの決定を受け入れ難いと思っていたのは、ハーデスでも瞬でもなく、白鳥座の聖闘士であるところのキグナス氷河だったかもしれない。
アテナに何を言っても暖簾に腕押し・糠に釘と悟ったらしい氷河は、働きかける方向をアテナから瞬へと転換した。
瞬が断固としてアテナの決定を拒めば、アテナもハーデスの姿をした瞬を連れての帰還などという とんでもない決定を覆さざるを得なくなるのだ。

「瞬! もちろん、俺はおまえの外見を好きになったわけじゃない。おまえは優しくて温かくて強くて、人間として最上級の価値を有しているというのに驕ったところがなくて、控えめで――おまえは すべてが俺好みの人間だ。俺が好きなのは、もちろん おまえの身体じゃない。しかし、俺は、おまえの姿も好きだった。おまえの優しくて温かい心にふさわしい美しい身体、笑った時の瞳、泣いている時の可愛らしさ。俺はすべてをひっくるめて、おまえが好きだったんだ。だが、今のおまえの その姿は全く俺の好みじゃない!」
「氷河……」
「俺が抱きしめたいと思うのは、小さくて華奢で可愛くて優しい おまえで――つまり、こんなゴツい男じゃない。こんな、可愛げがなくて嫌味なツラをした神なんかじゃないんだ!」

超の字がつくほどのナルシストが、自慢の外見を貶されて、瞬の顔でむっとする。
もはや すべてを面白がっているようにしか見えないアテナは、氷河の訴えも、瞬の当惑も、ハーデスの不興も どこ吹く風。
事ここに至って、アテナは いよいよ無責任の極致だった。
「別に、瞬だからって、無理に抱かなくてもいいでしょ。瞬の心が好きなのなら、瞬の心だけ愛でていればいいわ。あなたの大好きな瞬の心は、私たちと一緒に地上に帰るのだから」
アテナは涼しい顔をして そう言うが、瞬の身体も姿も大好きだったから、氷河は困っているのだ。
しかし、アテナは、氷河と違って、瞬の姿がハーデスでも困るようなことは全くない――らしい。

「一緒にいる時間が長くなれば、ハーデスの可愛げのない顔も可愛く思えるようになることもあるかもしれなくてよ。その気になることだってあるかもしれないわ」
「そんな時がくることがあるとは、俺には思い難い」
アテナの無責任発言に、氷河が呻くように言う。
いったいアテナと この金髪の男は何を言っているのか、“その気”とは“どんな気”なのかと、嫌な予感を覚えながら、ハーデスは その顔を引きつらせた。






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