「あ……あの、沙織さん……氷河……僕……」 苦悩する氷河の様子を見せられて、瞬は、ハーデスの顔とハーデスの声で、泣きそうな目になった。 いくら全く好みでない姿をしているとはいえ、中身は瞬であるものを悪し様に罵り続けることは、氷河も本意ではなかったらしい。 ハーデスの姿で、心細げに 彼の女神と恋人を見詰める瞬の前で 一度深く吐息して、氷河は瞬に命じた。 「とにかく、ここに座れ」 「え」 「おまえの顔が俺の顔より上にあるのは不愉快だ。座れ」 「あの……はい……」 ハーデスの姿をしたものが、素直に氷河の命令に従って、ぺたんとその場に座り込む。 氷河の顔を見上げることのできる態勢になった瞬は、心置きなく(?)氷河の顔を見上げることをした。 「氷河……僕……」 元に戻れるものなら、瞬とて そうしたかったのである。 だが、それは、ハーデスの魂が瞬の身体を支配している限り、無理な話だった。 氷河の目の下に瞬(≒ハーデス)の顔がある。 中身が瞬だけあって、苦しげに頼りなげに眉根を寄せ、今にも泣き出しそうにしている その顔は、それなりに可愛い。 闇のように漆黒の瞳も、瞬が感情と表情を支配しているだけに澄んで美しく、ハーデスの造作をした瞬の佇まいは、全く可愛げがないと言い切ることもできないものだった。 「さすがに中身が瞬だけあって、これも可愛くないことはないが――。ほぼ完璧に俺に馴染むところまできていた瞬の身体を放棄するのは無念だ……」 「あら、そんなこと、大した問題じゃないでしょう。一から仕込み直せばいいだけのことじゃないの。地上が滅びさえしなければ 時間はたっぷりあるのだし、それも人生の一興。案外、新鮮で楽しい作業になるかもしれないわよ?」 氷河のそういった話には眉をひそめることの多い沙織が、笑顔で そんなことを語るのは、どう考えてもハーデスを挑発するため、もしくは、ハーデスを困惑させるためである。 沙織は、目的が正しければ多少の品性下劣は許されるという考えでいるのか、人類の存続と地上の平和を守るためという大義名分のもと、沙織の物言いは 露骨と下品のレベルをどんどん上げていった。 「私も楽しみだわ。ハーデスの姿をした者が、あなたにどうこうされて、瞬の元の身体がそうだったように、あなたなしでいられなくなってしまうの。これは見ものだわよ。氷河、頑張ってね。この私があなたを全面的にバックアップするわ!」 沙織が嬉々として語る ハーデス性奴隷化計画に、瞬の姿をしたハーデスは青ざめていた。 綺麗で清らかなものを好むハーデス自身の心と身体は はたしてが清らかなのか 清らかではないのか――という問題はさておくとして、ともかく アテナと白鳥座の聖闘士が何を言っているのかを理解することはハーデスにもできたらしい。 神話の時代から数千年、アテナとの聖戦を繰り返し、人類と人類の生きる世界を死の国に変える計画を実際に実行できるほど強大な力を持つ冥府の王ハーデスは、かくして知恵と戦いの女神の前に膝を屈することになったのである。 「ア……アテナ。取り引きをしよう。余はこの身体を瞬に返そう。そして、瞬は 余の身体を余に返す。それで、すべてが元通りだ。悪い話ではあるまい」 「それで、あなたはあなた自身の身体を使って、地上を滅ぼすの? 駄目駄目。あなたも覚悟を決めなさい。瞬もね」 もう少しでハーデスを降伏させられる。 勝利を確信した女神アテナは、もはや その上機嫌を隠そうともせず、けらけら笑い声をあげて、容赦なくハーデスに引導を渡そうとした。 ハーデスより先に覚悟を決めたのは、瞬の方だった(らしい)。 アテナの言葉に頷いて、ハーデスの姿をした瞬が、往生際の悪いハーデスに近付いていく。 ハーデスにとって、それは本来の彼の身体。恐れる必要などないはずのものである。 しかし、けらけら笑っているアテナとは対照的に 悲痛な目をした瞬に目の前に立たれたハーデスは、瞬の瞳がたたえる悲壮な覚悟と、おそらくは その上背に 「な……何をする気だ? この身体を傷付けたら、そなたは帰るところがなくなるのだぞ」 既に その言葉は脅迫として どんな力も持っていない。 瞬は、ハーデスの 脅しにもならない脅しを聞き流し、本来は瞬のものである小さな身体の うなじに右の手を伸ばしていった。 ハーデスはもしかしたら、本来は彼自身のものである手に首を絞められることを懸念し恐れていたのかもしれない。 が、瞬は、伸ばした手に力をこめることはなく、ただそっと“瞬”のうなじを撫でただけだった。 「ひ……」 ただそれだけの接触だったというのに、ハーデスが 彼らしくない掠れた声をあげる。 それは、瞬には想定どおりの反応だったらしく、ハーデスが洩らした小さな悲鳴に、瞬は驚いた様子もなく寂しげに微笑した。 「気持ちいいでしょ。僕、そこ氷河に触れられると、立っていられなくなるの」 「な……なに…… !? 」 「僕、僕の身体の弱いところ、知り尽くしてる。氷河ほどじゃないけど」 「お……おい、瞬、おまえ、なに言い出したんだよ」 氷河とアテナだけなら悪乗りの冗談で済むが、『地上で最も清らか』がキャッチコピーの瞬に そんな台詞を言われてしまっては、さすがに星矢たちも冷静ではいられない。 慣れ親しんだ身体の放棄を余儀なくされたことで、瞬は正気を失ってしまったのかと、星矢たちは案じることになったのである。 だが、瞬は、正気――完全に正気でいるようだった。 むしろ、瞬の前で取り乱しているのは、華奢で小さなハーデスの方だった。 「や……やめ……」 「僕にとっても、これは大切な身体なんだけど……地上の平和には代えられないから、潔く諦めます」 「諦めるなーっ !! 」 こうなると、神としての威厳もプライドもあったものではない。 ハーデスは、小さな白い瞬の手で ハーデスの手を払いのけ、ジュデッカに金切り声を響かせた。 「アテナ! アテナ、何とかしろ! 瞬の身体は返してやる。返したいと言っているのだ!」 日頃の気取りをすっかり忘れているハーデス。 対するアテナは、余裕の笑み。 彼女は、瞬の顔であるにもかかわらず 今ひとつ可愛らしさの足りないハーデスに、勿体ぶった態度で、わざとらしく溜め息をついてみせた。 「すべて元通りになるだけじゃねえ……。せめて、あなたが地上に手出しをしないという保証をもらえなくては」 「それは保証する」 「口約束だけもらっても、どうしようもないわ」 「余の言葉が信用できないと言うのか」 「ええ、信用できないわ。私はそこまで お人好しではないわよ。だから諦めてちょうだい。この身体はもらっていくわ」 すっかり冷静さを失っているハーデスに、アテナが冷酷に言い放つ。 そうしてから 彼女は氷河に向き直り、白鳥座の聖闘士に 血も涙もない命令を下してのけた。 「氷河。これからは、こっちがあなたの瞬よ。キスくらいしてあげなさい」 アテナの企みの真の狙いは、さすがに氷河にもわかっていた。 アテナは、瞬の心と身体を取り戻すつもりでいる。 決して瞬の身体を諦めるつもりはない。 それだけでなく、アテナは地上の平和も確保するつもりでいる。 今では それはわかっていたのだが、それでもアテナの命令を聞いた氷河は、その顔を引きつらせないわけにはいかなかった。 「沙織さん、冗談は顔だけに――」 「これが冗談を言っている顔に見えて? それとも、氷河。あなた、まさか、私の顔が冗談そのものでできているとでも言うつもり?」 「そうは言わないが――」 アテナの顔は、冗談ではないにしても悪気そのものでできている。 ――と、氷河は危うく言ってしまうところだった。 幸い、すんでのところで抑制が利いて、氷河はアテナの機嫌を損ねずに済んだが、一難去って また一難。 勝利を確信したアテナが、瞬を氷河の前に連れてきて、石の床に座らせる。 彼女は、そうして、氷河の背中を押し、彼女の聖闘士たちに彼女の命令の遂行を強いたのである。 氷河は、できれば それは避けたかった。 瞬の身体を取り戻せることは、既に確定事項と言っていい。 何もそんな駄目押しまがいのことまでしなくても――というのが、氷河の本音だったのである。 当然、同じ気持ちでいるだろうと思っていた氷河は、 「僕じゃだめなの? もう僕にはキスもできない?」 という瞬の訴えに出合って、2度3度、目をしばたたかせることになった。 ハーデスの顔をした瞬が上目使いに氷河の瞳を覗き込んでくる。 その表情を作っているのは瞬。 瞬の顔ではないのに、瞬の表情。 それが それなりに――否、かなり――可愛いから、氷河としても対応に困るのだ。 「できなくはないが……」 「僕の心は、これからずっと、この身体の中にあるの。氷河……僕を好きでいてくれるのなら――」 瞬が、あろうことか真顔で迫ってくる。 瞬は 本気でそれを求めているのか、それとも沙織の企みを承知の上で 不本意ながら彼女の悪乗りに協力しようとしているだけなのか――。 氷河には判断がつきかねた。 だが、その目だけを見ると、今 氷河の目の前で切なげに 白鳥座の聖闘士を見上げているのは、確かに瞬なのだ。 いつもなら、キスを待つ時には必ず瞼を伏せる瞬が、今日に限って、まるで 恋人の心を見極めようとするかのように、一途な目で氷河を見上げ、見詰めている。 その目を見詰め返しているうちに、氷河は 頭がくらくらしてきた。 瞬の澄んだ魔眼に操られるように、その手を瞬の肩に手を伸ばし、置く。 瞳がこれほどまでに瞬なのであれば、その唇も瞬のものであるはず。 ぼんやりと そう思いながら、氷河は自身の唇を瞬のそれに近付けていった。 途端に、 「やめぬかーっ !! 」 という、ハーデスの悲鳴がジュデッカの壁という壁を揺らす。 それは、冥府の王の完全敗北宣言、アテナとの不平等条約の調印を決意した悲鳴だった。 「アテナ! 余は 余の魂をそなたに預ける。そなたに封印されてやる。もう一度長い眠りに就いてやる。だから、そのような いかがわしい男の手が余の身体に触れることを許すなっ!」 ついにハーデスに無条件降伏を受諾させた認めさせたアテナは、喜色満面で ハーデスの敗北宣言を受け入れた。 そして、相手が負けを認めると、苛烈な戦いの女神は、すぐにハーデスへの温情を示し始めた。 「あなたが覚悟を決めてくれて嬉しいわ。安心して。あなたの大切な身体はエリシオンの宮に安置してあげるから、心置きなく眠ってちょうだい。ヒュプノスとタナトスには、これまで通りにエリシオンでハーデスの身体を守り続けることを許します」 アテナの寛大な計らいに、ヒュプノスとタナトスが軽く頭を下げる。 ハーデスの今の有りさまを見たら、アテナの判断決定は十二分に情け深いものと、彼等には思えたのだろう。 |