すべてはアテナの計画通り。
それはわかっていた。
しかし、氷河と瞬は、それでも この事態にあっけにとられないわけにはいかなかったのである。
何といっても 彼等はまず、ナルシストの気持ちがわからなかった。
魂を閉じ込められ、自由意志を奪われても、その肉体を守りたいとは。
それはナルシストとして標準的な価値観で、標準的な判断なのだろうか。
だとしたら、氷河と瞬には、それは彼等の理解の範疇を超えた“標準”だった。

が、アテナはハーデスの決断に納得しているらしい。
もっとも、彼女の満足げな様子は、ハーデスの決意に対するものではなく、自身の計画の完璧さに悦に入っているだけのことなのかもしれなかったが。
「それでこそ、ハーデス。まさに、ナルシストの鑑だわね」
いったいアテナは、冥府の王を褒めているのか貶しているのか。
おそらく その両方であるに違いないアテナが、宙に両の手をあげる。
すると、薄闇のジュデッカの虚空に、どこからともなく封印のための壺と護符が出現した。

情に篤いのか冷徹なのか、アテナがにっこりと微笑んで、ハーデスに その魂の移動を促す。
今はまだ瞬の姿をしたハーデスは、一瞬、アテナの指示に従うことを ためらう様子を見せた。
ハーデスの姿をした瞬を見詰めて、そのためらいを振り払う。
覚悟を決めたらしいナルシストの鑑は、金銀の二人の男たちの上に その視線を巡らせた。
「ハーデス様……」
「アテナの封印の効力が切れるまで――醜悪な人間たちの滅亡の時が、ほんの数百年 先になるだけのことだ。余は必ず蘇る。余は滅ぶことのない命を持つ神なのだからな」

いかにも彼らしい厳かな口調で、眠りに就く冥府の王の身体を守護する二人に告げたが、彼が言っていることは、つまり、『遠大な野望より、我が身が可愛い』ということだった。
それでも、なにしろハーデスは、天体を動かす力を有するほど強大な神である。
金銀二人の男たちは、己が主人を侮る素振りも見放す素振りも見せず、冥府の王の言葉を 神の尊い決断として受け入れたようだった。
永遠の命を有する神であるハーデスは、これから再び 長い眠りに就くというのに、自らのしもべたちの従順と忠誠を確認すること以外、為さねばならぬことを持っていなかったらしい。

「では、ごきげんよう、ハーデス」
アテナが告げた別れの言葉にも無言のまま、ハーデスの魂はアテナの手によって、その収まるべきところに収まった――ようだった。
その事実を、アテナの聖闘士たちは、瞬の身体がその場に崩れ落ちかけ、少し遅れてハーデスの肉体が動きをとめたことで知ったのである。

氷河が瞬の身体を抱きとめる。
氷河の腕の中で、5秒と経たぬ間に、瞬は伏せていた瞼を開けた。
そこに現われた瞳は、氷河が見慣れた瞬の瞳だった。
冷たさと傲岸の色が消えた瞬の瞳には、瞬らしい優しさと温かさが宿っていた。
「瞬!」
たちの悪い冗談としか思えない悪夢の果てに、やっと再会できた瞬の美しく澄んだ瞳。
その再会に感極まって、氷河は、瞬の身体――瞬の心を宿した瞬の身体――を、思い切り強く抱きしめたのである。
その勢いのまま、氷河は、先程 危うくハーデスの唇にしてしまいそうになった行為を、これまた思い切り 瞬の唇相手に実践したのだった。

「瞬。俺は、おまえの優しく強い心をこそ好きになったのだと思っていたが、この身体も好きだったことがよくわかった。二度と離さないぞ」
「僕も、やっぱりこっちの身体の方がいい。あの身体はなんだか違和感があって――それに、僕、氷河には見おろされている方が好きみたい。その方が、氷河の目が優しく見えるんだもの」

人類の存亡がかかっていた熾烈かつ壮絶かつ最大かつ究極の戦いが 男同士のラブシーンで終幕するという現実が、今回の聖戦の どたばた振りを物語っている。
神話の時代から幾度も繰り返されてきた、女神アテナと冥府の王ハーデスの戦い――聖戦。
過去の聖戦のほとんどが敵味方双方の全滅で終わり、彼等の壮絶な戦いは、ただ壮絶悲壮なものだったと語り継がれてきた。
今回のように聖闘士の犠牲者皆無の 聖域完全勝利は、長い聖戦史上、空前にして絶後のものであるに違いない。
しかし、この完全勝利の内実を他者に知らせ、未来永劫 語り継がれることだけは避けたいと、氷河と瞬のラブシーンを眺めながら、星矢たちは思っていた。

「これは、人のために自分の命を捨てて戦おうとした瞬の犠牲的精神が、不滅の魂を持ちながら 己れの肉体に対する執着を捨て切れなかったハーデスに勝利したということかしら。とても哲学的で崇高で 含蓄のある戦いだったわね」
数百年という長いインターバルを置いて開催される大イベントを、『どたばた劇』『茶番劇』といった言葉で総括するわけにもいかなかったらしいアテナが、神妙な面持ちで この聖戦を概評する。
「そうかぁ〜?」
神への不信でいっぱいの星矢が疑惑の声をあげたが、アテナの睥睨に合って、星矢は それ以上の突っ込みはできなくなった。
星矢が口をつぐむのを確認し、アテナは改めて満足げに頷いた。

「本当に よかったわ。私たちの命をかけた戦いのおかげで人類と地上の平和は守られ、壮絶を極めた聖戦は私たちの勝利で終わったのよ。見事な大団円ね」
アテナは、この聖戦をそういうものだったことにしてしまうつもりらしい。
事実が外部に洩れ、人様に『あの どたばた聖戦に関与した恥ずかしい聖闘士』と後ろ指を差されて嘲笑われるよりは、確かに、美しい嘘で糊塗し、この聖戦を壮絶な戦いだったことにしてしまった方が 後々のためにはいいのかもしれない。
そう考えて、星矢たちも、この聖戦に関してはアテナの決定に従った方が賢明と判断したのである。
その方が利口、我が身の名誉を守ることなのだと。

が、その場には、この聖戦とこの聖戦の結末を どうあっても受け入れることのできない男が 約一名いたのである。
いわずと知れた瞬の兄、鳳凰座の聖闘士フェニックス一輝が。
「何が大団円だと?」
凄みを帯びた低い声が、主のいなくなったジュデッカに 不気味に木霊する。
一輝の攻撃的小宇宙は、一筋に、白鳥座の聖闘士に向かっていた。






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