星矢が持ち帰った“凧だったものの残骸”は、見事に凧の形を成していなかった。
「何の絵が描いてあったの」と尋ね、「タコ」という答えをもらった瞬が、その返答に何の疑問も抱かないほどに。
かろうじて判別できる程度に残っていた辰巳徳丸氏の頭頂部の絵を見て、瞬は星矢の答えを素直に信じたようだった。

「絵は俺が描いたんだけどさ、紫龍が骨の組み立てとか糸を張るのが上手くて、もうプロ並み。すげー調子よく揚がってたんだぜ」
「残念だったね。僕も見たかったなぁ」
あんなものを見て何になるのだと、言えるものなら、氷河は瞬に言ってしまいたかった。
辰巳の光頭を見ているくらいなら、白鳥座の聖闘士の顔を眺めていた方が よほど有益だろう――と。
氷河がそう言ってしまえなかったのは、自分の顔が辰巳の禿頭に勝る自信がなかったからではなく、ましてや、自身の驕りを自制したからでもない。
ただひたすら、瞬の好むものを否定して、瞬に“自分とは価値観の異なる人間”と思われることを避けるためだった。

「瞬のチェーンをそんなことのために使おうとするな! いや、そんなことのために瞬を使うな! 聖闘士の力は、そんなことをするためにあるんじゃない!」
代わりに、氷河は、心にもない正論正攻法で、瞬の凧揚げを阻止しようとした。
人には、その人に ふさわしい遊戯や趣味というものがある(はずである)。
タコの絵の凧揚げは 絶対に瞬にふさわしい遊びではないと、氷河は確信していた。
そんなことをしている時間があったら、瞬は 瞬に与えられた限りある時間を もっと有効に――たとえば、白鳥座の聖闘士と共に過ごすことで――利用すべきだというのが、氷河の考えだったのだ。

彼の力作である凧救出作業を“そんなこと”呼ばわりされて、星矢はかちんときたらしい。
氷河の正論に、星矢は否定しようのない事実で対抗してきた。
「冬場は役立たずの力しか持ってない奴が、偉そうに なに言ってんだよ」
星矢は、凧の有益ではなく、氷河の小宇宙の無益無価値を唱えることで、氷河の主張を退けようとしてきた。
当然、氷河も、凧ではなく小宇宙の有益性を俎上にあげて、星矢に対抗しなければならなくなる。

「少なくとも、俺の凍気は夏場には役に立つ。しかし、おまえの流星拳は何の役に立つんだ? おまえの流星拳は、春夏秋冬 1年を通して役立たずの技じゃないか」
氷河の答えを、おそらく星矢は見越していた。
それどころか、星矢は、氷河がそういう言葉を吐くことを、おそらく期待してさえいた。
そして、期待通りの答えを手に入れるや、星矢は、非常に わざとらしい一瞥を白鳥座の聖闘士にくれてきたのである。

「おまえ、俺たちが明日から聖域に行く理由を聞いてないのか?」
「俺たちが聖域に行く理由? 黄金聖闘士たちへの顔見せか何かなんじゃないのか? 俺たちは、クリスマスも正月も日本で過ごしていたし」
氷河の呑気な返事に、星矢が 今度は呆れた顔になる。
その顔は、仮にも命に関わる戦いを常に覚悟していなければならない聖闘士が これほど洞察力に欠けていてどうするのだと、無言で語っていた。
「そんな金にもならないことのために、あの沙織さんが わざわざ俺たちを聖域に呼ぶわけないだろ。敵が現われたわけでもないのに」
「それはまあ、確かに……」

星矢が突然、明日からの青銅聖闘士たちの聖域行きに言及してきた訳は わからなかったが、とりあえず氷河は星矢の見解に同意し、頷いたのである。
聖域と聖闘士たちを統べる女神であると同時に、グラード財団総帥でもある城戸沙織は、“得にならないこと”を徹底的に排斥する合理的な功利主義者だった。
その代わりに、有形無形を問わず、彼女自身や彼女の聖闘士たち、聖域、グラード財団、人類に益があると認めたことのためになら、巨額の投資を惜しまない。
虚礼などというものは、そんな彼女が最も厭う行為だった。
人類と地上に害を及ぼす敵が現われた時は別として、沙織がわざわざ青銅聖闘士たちを聖域に呼ぶ時、それは その聖域で聖闘士たちに何らかの仕事を――何らかの益を生む作業を――させるためであることが多かった。
どんな益ももたらさない“顔見せ”などのために、あの沙織が聖闘士4人分の旅費を出すはずがないのだ。

「沙織さんは、俺たちに何かさせるつもりなのか」
「そうに決まってるだろ。沙織さんだぜ」
今頃 気付いたかと言わんばかりに、星矢が片眉をあげてみせる。
どうやら星矢は、自分たちの聖域行きの理由を知っている――事前に聞かされていたようだった。

「沙織さん、アテネ郊外に超格安で土地を買ったんだよ。なんで格安だったかっていうと、整地されてない、使い物にならない古いビル付きの土地だから。つまり、ビル解体料分、安かったってわけ」
「それが?」
「だからさ、沙織さんは、俺たちを使ってタダでビルを解体するつもりなんだよ。俺の流星拳を使ってな」
「――」

ギリシャの建築法規がどうなっているのかについては つまびらかではないが、世の中にはビル解体を主業務とする企業があるくらいなのだから、それは真っ当にやろうとしたら相当に金のかかる作業なのだろうことは、氷河にもわかった。
“使い物にならない古いビル”の規模にもよるのだろうが、それは数百万、へたをすると更にゼロが一つ増えるほどの大工事なのかもしれない。
聖闘士たちの旅費を出しても、その買い物は赤字になることはないのだろう。
それだけの仕事を星矢の流星拳が本当に首尾よく成し遂げられるのであれば。
不審の念を露骨に顔に出した氷河に、星矢が両の肩をすくめてみせる。

「俺も よくわかんないんだけどさ、とにかく俺は、解体するビルのポイントポイントに流星拳を打ち込んで、みんなが外に出て安全になったとこで、最後の一発を打てばいいだけなんだと。それで、極めて安全かつ安上がりに、がらがらがらーっとビルは崩れるらしい。打ち込むポイントは既に計算済みだとさ」
確かに、聖闘士の拳をもってすれば、それは可能なのかもしれない。
だが、やはり、氷河は得心できなかった。
なぜ それが星矢の拳でなければならないのか――ということに。

「そんなことは 聖域にいる黄金聖闘士たちにやらせればいいだろう。黄金聖闘士たちを使えば、まず旅費がかからない」
というのが、氷河の考える合理性 及び 節約術だったのである。
が、沙織が旅費を出しても星矢を聖域に呼ぶのには、やはり星矢でなければならない理由があったらしい。
「黄金聖闘士たちの拳じゃ駄目なんだってさ。黄金のおっさんたちは、光速拳しか打てないだろ。つまり、力の加減ができないんだよ。その点、俺の流星拳は、小宇宙次第で音速から光速まで 自由自在にコントロールできるからな。紫龍の昇龍覇と俺の流星拳の 力が及ぶ範囲やら方向性やらを比較検討して、俺の音速レベルの流星拳が最適って結論が出たんだとさ」

業者に頼まず、タダでビル解体ができることが“役に立つ”ということなのなら、確かに星矢の流星拳は役に立つものなのだろう。
しかし、そんな役立ち方を 聖闘士がよしとしていいものなのだろうか。
あまつさえ、白鳥座の聖闘士の凍気より役に立つと誇っていいことなのだろうか。
氷河には、どうしても そう思うことができなかった。
「なら、おまえだけを呼び寄せればいいことだろう。沙織さんは、なぜ 俺たち全員を呼びつけるんだ」
「ああ、それは俺たちに、ビルを倒したあとの瓦礫の始末をやらせるつもりらしい。おまえの凍気は何の役にも立たないけどさ、俺の流星拳や紫龍の昇龍覇は、一度に大量の瓦礫の山を吹っ飛ばして砕いたり 場所移動したりできるし、瞬のチェーンは万能クレーンみたいなもんだしな。でも、黄金のおっさんたちはプライドの加減もできないから、そんな仕事やれって言われても、できないだろ」
「……」

これまで氷河は、黄金聖闘士たちの力を そんなふうに考えたことがなかった。
というより、聖闘士の力を そういう視点に立って考えたことがなかった。
氷河は、聖闘士の持つ力は強大であればあるほど“良いもの”“価値あるもの”だと思っていたのである。
だが、言われてみれば、確かに黄金聖闘士たちの力は、強大な力を持つ敵と戦う時にしか役に立たない――平時には融通がきかなさすぎて何の役にも立たない力だった。
巨人が、泣いている小さな子供の頭を撫でようとして、そっと頭に置いたはずの手が、子供の身体を地面に のめりこませてしまうように、それは有益どころか、時に有害な力になりさえするものなのだ。

「沙織さん、黄金聖闘士なんて 名前ばっかり立派で ほんと使えないんだから――とか何とか 吐き出すみたいに言ってたぜ。おまえは、その 使えない奴等と同レベルなんだよ」
「……」
黄金聖闘士と同レベル―― 一見すると――もとい、一聞すると、褒め言葉に聞こえないこともないが、それが 今ばかりは“役立たず”と同義の言葉である。
実際、氷河は全く褒められている気がしなかった。

「沙織さん、他にもいろいろ考えてるみたいだったぜ。俺たちの力を戦場以外の場所で有効利用する方法」
「他にもいろいろ?」
聞いても あまり楽しい気持ちにはなれそうにない新たな情報を、更に星矢が提供してくる。
我知らず、氷河は その眉根を寄せることになった。

「たとえば、紫龍の昇龍覇をさ、洪水とか津波とか雪崩とかを逆流させるのに役立てることはできないかとか。もちろん、俺たちの拳は、言ってみれば一発芸みたいなもんで、打ち続けられても4、5分が限度だけど、それで避難のための時間を稼ぐことはできるだろ。そんで、瞬のチェーンは、俺にでも いくらでも使い道が思いつくくらい器用な万能ツールだし。おまえの凍気だけが、微妙に役立たずなんだよ。たとえば、絶対零度で食料の冷凍保存ができたって、解凍できなきゃ意味ないし。おまえ、チルド保存なんて器用なこと できないだろ」

『俺は冷凍冷蔵庫なんかではない!』と、本音を言えば、氷河は叫んでしまいたかったのである。
氷河がそうしなかったのは、まず第一に、“役に立つ”聖闘士の側に瞬がいたから。
第二に、今 この場で そんなことを叫んでしまったら、自分だけが本当に 役立たずの穀潰し聖闘士だという評価が定着してしまう――と考えたからだった。
それで、自身の凍気の有益性を主張せず、
「一輝の幻魔拳だって役立たずだろう」
という発言で、役立たず仲間を増やそうとする方向に走ってしまったのが、彼の不幸(?)だった。
星矢が、氷河の主張をあっさりと退ける。

「沙織さんは そうは思ってないみたいだったぜ。一輝の幻魔拳だの、サガの幻朧魔皇拳だの、カノンの幻朧拳だのの精神攻撃技って、使いようによっては いちばん役に立つ技なんじゃないかって考えてるみたいだった。心理療法とか、情操教育とか、精神力を養うのにも使えるはずだとか何とか言ってたな」
「心理療法に情操教育だと? 一輝の幻魔拳でか?」
それは、氷河には あまりにも意想外なことだった。
聖闘士の中で最もデリカシーに欠け(と氷河は思っていた)、最も力で押す戦い方をする鳳凰座の聖闘士の技を使って、人間の営みの中で最も繊細かつ複雑な感情や情操をどうこうしようなどという企みは、愚行を通り越して無謀である。
しかし、星矢は――もとい、沙織は、本当にそんな馬鹿げた考えに取り憑かれているらしい。

「一輝の幻魔拳で、傲慢な奴を謙虚に、無謀な奴を慎重にできるはずだとか、そんなこと言ってたぞ。あと、ほら、今時の子供って、実際に喧嘩したことないから、力の加減がわからなくて、最悪の事態を招くことってあるじゃん。ゲーム感覚にずっぽり浸かってるせいでさ。けど、一輝の幻魔拳でなら、実際に――って言い方も変だけど、実際に痛みを味わわせてやることができるだろ。つまり、苦痛付きで 喧嘩や死を疑似体験させてやれるわけ」
「それはそうかもしれないが――」
「甘やかされて、挫折や失敗や我慢を知らないせいで 切れやすくなってる子供に、挫折の体験をされてやるのも効果的だろうって言ってた。甘やかすことしかできない親や社会に代わって 失敗の体験をいっぱいさせてやって、そういうことへの耐性をつけさせれば、切れにくい子供ができあがるんじゃないかって」
「……」

本気でそんなことを考えているのなら、(脳の血管が)切れているのは沙織の方だと、氷河は真面目に思った。
そういうことを子供に学ばせるために、家庭や学校や社会がある。
家庭と学校と社会の仕事を 一輝一人に負わせるなど、それこそ人間社会の否定ではないかと。
「そう上手くいくものか。聖闘士の技は、基本的に 敵に打撃を与えるためにあるものだ。情操教育や人格育成のために、聖闘士の技を使うなど――」
「一概にそうとも言えないぜ。実際、おまえ、殺生谷で一輝の幻魔拳を食らって、ちょっと謙虚になったじゃん。それまでは一人で暴走気味だったのが、チームワークを意識するようになった」
「あれは、外的な他の状況もあって、結果的にそうなっただけで――」
「結果的にそうなればいいんだよ」
「――」

『結果的にそうなった』と、先に認めてしまったのは氷河自身だったので、氷河は続く言葉に詰まることになった。
あれは 一輝の技が精神攻撃系の技だったからではなく、単に 自分に打撃を与えられるだけの力を持つ人間も この世には存在するのだという事実を知ったことによる変化だったのだと、本当のことを言葉にするのも癪である。
言いたくないことは口にせず、氷河は、別方向から異議を唱えることをした。
というより、氷河は、そうすることしかできなかった。

「なら、なぜ、沙織さんは役立たずの俺まで聖域に呼ぶんだ」
「役に立つ俺たちだけ呼んで、おまえ一人だけ日本に残しといても角が立つからじゃねーの。おまえは留守番もできない役立たずなんだよ。でも、まあ、俺がビルを倒して、紫龍や瞬が瓦礫を片付けたあとの掃き掃除くらいなら、おまえでもできるだろうし」
「……」
別に氷河は、自分を世界一強い男だと思っていたわけではない。
彼は、経験不足のせいで切れやすい今時の子供と違って、挫折も 敗北も 絶望することさえも知っていた。
しかし、わざわざギリシャまで出掛けていって、聖闘士である自分にできる仕事が“掃き掃除くらい”とは。
ここまで大々的に虚仮こけにされては、白鳥座の聖闘士の立つ瀬がない。
だが、適切な反駁の言葉をすぐに見付け出すこともできなかった氷河は、仲間たちの前で 口を への字に引き結ぶことになった。

「そんな むすっとすんなよ。俺だって、本気で おまえの凍気が役立たずだなんて思ってるわけじゃないって。ただ、おまえが流星拳の利用方法を訊いてきたからさー。それに、冬場に おまえの凍気が役立たずの無用の長物で、むしろ邪魔物で、百害あって一利なしってのは事実だろ」
自慢の(?)凍気を馬鹿にされ、すっかり ふてくさってしまった氷河を見て、さすがに言い過ぎたと思ったらしい星矢が、氷河をなだめにかかる。
それが全く慰撫の言葉になっていないところが、星矢の星矢たる ゆえん。
氷河の こめかみがぴくぴくと引きつり始めたのを認めて、瞬は慌てて二人の執り成しに入ることになった。

「そんなことないよ。今、地球は温暖化がいちばん大きな問題になってるんだから、氷河の凍気は貴重だし有意義だし、もしかしたら、いずれ 氷河の凍気が地球を救うことだってあるかもしれないよ。冬場にだって、暖冬の時には、氷河の凍気は スキー場とか屋外スケートリンクの低温維持のために役立てられるだろうし、それに何ていったって、夏場は氷河の独壇場だもの」
「でも、それって、秋冬春は役立たずってことじゃん。そんで、今は冬なわけ。特に今年は、世界中が寒波で悲鳴をあげてる、暖冬じゃない冬」
「星矢……!」
仲間の執り成しを 見事に水泡に帰してくれる星矢の言葉。
星矢の名を呼ぶ瞬の声には非難の色が混じることになった。

だが、おそらく――否、確実に――星矢に悪気はない。
彼にとって“言葉”というものは、事実や自分の考え・感情を あるがままに伝えるためのツールであって、人の心を静めたり 怒らせたり 傷付けたり 騙したりする目的のために用いるものではないというだけのことなのだ。
要するに、星矢は、正直で率直なだけなのである。
そして、人が正直で率直であることが、必ずしも良い結果を生むとは限らない。
実際、星矢の正直で率直な言葉は、『この生意気な口をきく馬鹿野郎を、いっそ氷の棺に閉じ込めてやろうか』という考えを、氷河の中に生じさせた。

もっとも、氷河はすぐに そんな報復行為の無益と不都合を悟り、脊髄反射のような報復行為に及ぶことを すんでのところで思いとどまったのだが。
怒りにまかせて星矢を氷の棺に閉じ込めてしまったら、それこそ星矢は反省も謝罪もしないだろう――そのための時間が与えられないことになる。
もちろん、手や足だけを凍りつかせることはできるが、それで星矢の手足が使い物にならなくなったら、それは聖域の戦力を減じることになってしまうのだ。

しかし、このまま引き下がることはできない――と、氷河は思ったのである。
星矢は、彼の仲間である白鳥座の聖闘士の力を 役立たずの無用の長物と評しただけでなく、仲間の凍気の有益性に言及してくれた瞬の思い遣りの気持ちまでを踏みにじってくれたのだ。
星矢には どうあっても 何らかの罰が与えられなければならなかった。
星矢は、黄金聖闘士たちを、力の加減ができない者たち、その力を融通のきかない力と断じていたが、星矢自身も相当“加減を知らない”男である。
適当なところで仲間の力を認め、なあなあで 済ませておけば、事態は大きな波風も立たずに収拾に至っていたのに、星矢にはそれができない。
一つの同じ目的のために戦う聖闘士たちのチームワーク維持のため、地上の平和と安寧のため、何より 瞬の優しさや気遣いを無にする愚を二度と星矢に為させないために、星矢の悪癖は矯正されるべきだと、氷河は(一人で勝手に)強く思ったのだった。






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