サガの幻朧魔皇拳は、ある程度 小宇宙を操れる者になら、比較的 容易に会得できる拳だった。 おそらく この拳は、技を教示される側の者が 危険な技を教えてもいいほどの人物であると、師に認められるまでに長い時間を要する拳なのだろう。 その観察期間を口八丁でごまかしてのけた氷河は、サガを説得し終えてから 僅か2時間後、サガの幻朧魔皇拳の極意を会得していた。 これは、しかし、精神攻撃系の技の習得が そこまでお手軽なものだったからというよりも、氷河の情熱と熱心が、その習得時間を極端に短くしたのだといっていい事態だったろう。 なにしろ氷河には、『世界の平和と安寧を守る』などという漠然とした目的ではなく、極めて明確かつ切実な目的があったのだ。 もちろん、その目的は、『仲間の技を それは『瞬の愛を我が物にする』という、極めて高尚かつ美しい目的だった。 つまり、幻朧魔皇拳を会得して双児宮を出た時、氷河は、彼の当初の目的を綺麗さっぱり忘れてしまっていたのである。 ところで、瞬は『地上で最も清らか』をキャッチフレーズにしている聖闘士である。 個性の強い仲間たちの調停役。本気で怒っている時を除けば、基本的に大人しくて控えめ。人を傷付けることが嫌いで、誰にでも優しく親切。 そんな瞬に向かう自身の好意の強さと深さと永続性に、氷河は絶対の自信を抱いていた。 が、相手が そんな瞬だからこそ、氷河はこれまでずっと 自らの思いを胸中に秘め続けてきたという側面もあった。 『誰にでも優しく親切』という美徳は、恋においては 結構なネックなのである。 恋と好意の判別が難しい――という点で。 しかし、人の精神に影響を及ぼすことのできる拳を会得した今、その障害は氷河の前から取り除かれることになる。 会得した拳で、瞬の好意を恋に変えれば、ついにキグナス氷河 積年の思いは実ることになるのだ。 その希望、その喜び、その期待に浮かれ、突き動かされ、氷河はほとんど何も考えていない状態で、会得したばかりの拳を瞬に向けて打った。 幻朧魔皇拳を会得した その日のうちに――その日どころか、双児宮を出て 瞬の許に急ぎ、瞬の姿を見付けるや、その場ですぐさま。 『初心者は、技をかける相手が覚醒している時より、あまり緊張していない時にかけた方が うまくいくだろう。相手が眠りかけている時や目覚めたばかりの時だな』というサガの助言が脳裏をかすめたが、氷河は、瞬が眠りに落ちていく夜まで待っていられなかったのだ。 一刻も早く、瞬を恋人として抱きしめたい。 そして、あわよくば、今夜のうちに、ただの仲間同士ではできない行為に及び、完全に瞬を自分のものにしてしまいたい。 その思いで、氷河の頭はいっぱいだったのである。 『瞬が俺を嫌っているはずしないし、俺は瞬を死ぬまで大切にするんだから、俺が瞬に幻朧魔皇拳を打つことには何の問題もない』というのが、氷河の理屈だった。 多分に手前勝手な理屈で すべてを正当化し、氷河は瞬に、 『おまえは氷河を熱烈に恋するようになる。この暗示は、おまえの目の前で氷河が死ぬ時まで 解けることはない』 という拳を放ったのである。 「氷河、どこ行ってたの。星矢が凧揚げを始めたら、急に氷河の姿が消えちゃったから、僕――」 その時、瞬は、星矢の作った凧に呆れて双児宮に向かった氷河を捜してくれていたらしかった。 「俺が揚げた凧、見てなかったのかよー? すげー高いとこまで揚がってたんだぜ」 脇で星矢が何やら言っていたが、そんな雑音は氷河の耳に入ってこなかったし、意識されもしなかった。 氷河の心は、とにかく、ついに瞬が自分のものなるという、その一事にのみ向かっていて、他のことは意識したくてもできない状態になっていたのである。 氷河は、他のすべてのことを完全に無視して、彼の為すべきことをしたのだった。 「あ……」 瞬は、氷河の拳を受けると、数秒の間 意識を失っていたようだった。 倒れはしなかったが――瞬は、倒れはせず、虚ろな目に何かを映しているような様子で、氷河を見詰めていた。 やがて、その瞳に意思と意識らしきものが戻ってくる。 「瞬――」 瞬の瞳の焦点が一点に結ばれたことを確認し、氷河は期待に震える声で 瞬の名を呼び、その手を瞬の前に差し出した。 のだが。 「いやっ!」 瞬の反応は、氷河の想定外のものだった。 瞬は、自分の前に差し出された手を 恐ろしいほどの勢いで払いのけ、それから、憎悪と嫌悪そのものでできているとしか言いようのない目で氷河を睨むと、そのまま踵を返し、氷河の前から脱兎のごとくに走り去ってしまったのである。 思ってもいなかった瞬の反応に、ただ呆然とすることしかできずにいる氷河を その場に残して。 その時以降、瞬は徹底して氷河を避けるようになったのである。 自身の恋心に戸惑っているとか、恥じらっているとかいうのではない。 瞬は、氷河の姿を自分の視界に入れるのも不愉快と言わんばかりの態度で、氷河の姿を認めると露骨に眉をひそめ、彼に背を向ける。 その一連の動作表情を隠そうともせず――瞬はむしろ わざとあからさまに――氷河に見えるように――それらのことをしてのけるのだ。 瞬はどう見ても――氷河には信じ難いことだったが――白鳥座の聖闘士を蛇蝎のごとく嫌っていた。明瞭に、明白に、嫌っていた。 『避けている』ではなく、『嫌っている』なのである。 これは尋常の事態ではなかった。 そういう事態になって、瞬の仲間たちが初めて認識した事実が一つ。 それは、『瞬が何かを嫌っている』という事態に、瞬の仲間たちは これまで一度も遭遇したことがなかった――という事実だった。 人や物はもちろん、思想、習慣、趣味に至るまで、瞬が何かを嫌っている様を、彼等はこれまで ただの一度も見たことがなかった。 瞬の命を奪おうとする敵に対してすら――その言動を悲しみ、その罪を憎むことはあっても、瞬は瞬の敵その人を嫌うことはなかった。 苦手なものを(たとえば、足が8本以上ある昆虫などを)を避けることはあったが、それは瞬が その対象物を嫌っているからではなく、単に彼等に側にいられると困るから、だった。 その瞬が、初めて、明確に、何かを嫌っている。 しかも、その対象が、これまで命をかけた戦いを共にしてきた仲間の一人。 これは、前代未聞の大椿事だった。 |