「なぜだ! なぜ、こんなことになるんだ!」
「なぜだ――とか言われてもなー。俺の方が知りたいぜ。おまえ、瞬に何かしたんじゃないのか」
「したことはしたが――」
嘘を考える余裕もなかった氷河は正直に答えたのだが、氷河の正直な答えを、星矢は実に見当違いの方向に解釈し、身を乗り出してきた。

「したのか! やっぱ、あれか。ついに我慢の限界がきて、瞬を押し倒そうとしたのか!」
「どこから そんな発想が生まれてくるんだ! 俺が そんなことをするわけがないだろう! 相手は瞬なんだぞ。俺にそんなことができるわけがない!」
氷河の反駁の意味が『俺は瞬が好きだから、そんなことはできない』なのか『瞬にそんなことをしても手ひどい反撃を食らうだけだから しない』なのか、その正確な意図は星矢にはわからなかった。
星矢にわかったのは ただ、『氷河は瞬にそんなことをしていない』という事実のみ。
そして、星矢にはそれだけで十分だったのである。
瞬が氷河を嫌っている態度を露骨にしだした理由は他にあるということが わかっただけで。

「じゃあ、いったい何をしたんだよ! 瞬があんなになるなんて、よほどのことだぞ」
「うむ。力づくで犯されかけたくらいのことでは、瞬はあそこまで露骨に人を嫌う態度を見せるようなことはしないだろう」
アンドロメダ座の聖闘士は、性 穏和にして、寛恕かんじょの人。理不尽な理由で殺されかけても、自分を殺そうとした相手を許すことのできる人間である。
その被害の及ぶ範囲が己が身だけで済んでいる限り、瞬はその態度を変えることはないだろう。
瞬がそのポリシーを放棄するのは、自分以外の人間が何者かに傷付けられた時のみ、と決まっていた。
大抵の場合は、瞬の仲間のうちの誰かが。
しかし、今 現在、瞬の仲間たちの誰かが何者かに傷付けられたという事実はない。

だから、星矢たちには瞬の態度が解せなかったのである。
いったい何をすれば、人が 瞬にあそこまで嫌われることができるのか、星矢たちには見当もつかなかった。
それはそうだろう。
星矢たちは、まさか 彼等の仲間であるところの氷河が、
「それは、つまり……。瞬に俺を好きになってほしくて、そのためにサガを うまく言いくるめて、精神攻撃技の打ち方を教えさせ、瞬に『おまえは俺が好きだ』と信じ込ませる幻朧魔皇拳を打ったんだ」
などという 姑息な真似をすることがあるなどとは考えたこともなかったのだから。

「なにーっ !? 」
氷河のしでかした“よほどのこと”が、本当に よほどのことだったので、星矢と紫龍が揃って目を剥く。
20秒ほどの沈黙のあと、紫龍が呆れた顔で、
「なぜ、そんな無意味なことをしたんだ」
と、氷河に尋ねてきた。
「無意味とは何だ、無意味とは!」

真っ当な やり方ではなかったが――それは わかっていたのだが――、これは、言ってみれば 恋心が高じてのこと。
そして、どれほど小さな希望であっても、それに すがりたいのが恋する人間というものである。
間違った やり方ではあったが、氷河は氷河なりに必死だったのである。
それを『正しくない』と責められるならまだしも、『無意味』と断じられることは、恋する男には我慢ならないことだった。
それは『おまえの恋は決して叶わない』と決めつけられているも同然のことなのだ。
決して受け入れられる非難ではなかった。

が、紫龍は、そういう意味で氷河の努力(?)を無意味と評したのではなかったらしい。
そうではなかったことを、氷河は、星矢の、
「無意味でなかったら、“余計なこと”だよ。そんなことしなくても、瞬はどういうわけか おまえが好きだったんだから」
という補足説明によって知ることになったのである。

「なに?」
星矢と紫龍が、説明の必要も証明の必要もない確実既知のことのように語る その情報は、氷河が初めて聞く情報――まさに、寝耳に水のことだった。
「いや、俺も確かめたことがあるわけじゃないから、断言はできないけどさ。瞬は、いつもおまえのこと見てるし、気にしてるし――瞬って、誰にでも親切だから、かえって よくわかるんだよな。おまえに対する気配りだけ、他の奴等に対するのより 妙に念入りっていうか、思い遣りが一段 深いっていうか。俺と遊んでた方が絶対楽しいのに、何の芸もサービス精神もない仏頂面のおまえと一緒の場所にいたがるし、あれはどう見てもさあ……」
「そういうことだろうと、俺も思っていた」
「――」

氷河には、本当に すべてが寝耳に水のことだった。
氷河は――氷河も もちろん、いつも瞬を見ていたが、自分に対するものと 自分以外の人間に対するものとで、瞬の態度に違いがあるなどということに、氷河は気付いてもいなかったのである。
氷河は、“瞬がいつも誰にでも優しく親切なこと”しか見ていなかった。
氷河の目のフォーカスは 基本的に瞬一人に固定されていて、その周囲にあるものは、人でも物でも あまり明確に認識されていなかったのだ。
瞬だけを見ている男には、瞬の周囲の人間と自分とを比較検討することはできないし、氷河は その必要性を感じてもいなかったのである。

「過ぎたるは及ばざるがごとしというからな。もともとおまえを好きだった瞬の心に、おまえの放った幻朧魔皇拳が何らかの作用を及ぼし、変化を生んで、瞬の中にあった おまえへの好意が真逆のものに変質してしまったのかもしれない」
「それって、可愛さ余って 憎さ百倍ってやつか?」
「それは何とも……。とにかく、瞬は、以前は氷河を好きだったが、今は好きではなくなったということだろう」
「『好きではなくなった』じゃなく『嫌いになった』だろ」
持ってまわった婉曲的な言い回しより直截簡潔を よしとする星矢が、見事にわかりやすい要約を披露してみせる。
星矢の一言に 地獄の底まで落ち込んだ氷河は、だが すぐに地獄の底から這い上がってきた。
今は優雅に落ち込んでいていい時ではないのだ。

「俺は……俺は、どうすればいいんだ!」
「知るかよ、この馬鹿!」
星矢が、身も蓋もない言葉で 情け容赦なく氷河に痛棒を食らわしてくる。
しかし、今ばかりは、下手な慰めよりは容赦のない罵倒の方が より良いものだったかもしれない。
星矢の勢いのある罵倒のおかげで、氷河は じめじめと辛気臭い落ち込み方はしなくて済んだのだから。

「サガの幻朧魔皇拳なら、暗示を解く条件があるはずだろう。どうすれば解けるんだ」
立ち直ろうとする気概が まだ氷河の中にあることを見てとった紫龍は、この危機的状況打開のために 氷河に協力する気になったらしい。
紫龍に そう尋ねられた氷河は、一瞬 言葉を淀ませてから、事実を仲間たちに告げた。
「俺が瞬の目の前で死ねば、暗示は解けることになっている」
氷河は、もちろん それは今から何十年後かのことと想定して、自らの放つ拳に そういう条件付けをした。
自分が死んでからなら 瞬が他の誰かを見つめることになっても致し方ない、自分が死んでしまってからなら そういう事態にも 自分は かろうじて耐えられるだろうと考えて。
つまり、自分が生きている間は自分だけを見ていてほしいという我儘、自分が死んでからなら勝手にしていいという我儘である。

「……おまえ、ほんとに自分のことしか考えてないな。よくも 瞬に そんな卑劣な技をかけたりなんかできたもんだ!」
氷河が設定した幻朧魔皇拳解除の条件を聞いた星矢が、軽蔑の色を隠そうともせずに氷河をなじってくる。
氷河は、星矢に対して、いかなる弁明を為すこともできなかった。
「普通は、真実の愛の口付けとか、そういうもので暗示が解けて、瞬は真実の愛に目覚め、めでたしめでたしとなるところなんだが、そういう条件をつけたのか……」
「真実の愛の口付けなんてもんが解除の条件だったとしても、んなこと させてもらえそうにないじゃん。それでなくても瞬の防御は鉄壁だっていうのに、あれだけ氷河を嫌ってるんじゃ無理無理無理」
「まあ……今の瞬は、氷河の顔を見るのも嫌そうな様子をしているからな」

星矢たちの言葉は全くの事実で、しかも、それは氷河自身の身から出た錆、自業自得。
星矢たちが何かを言うたび、氷河は、鋼鉄製の巨大ハンマーで頭を殴られているような衝撃を受けることになった。
それでも氷河は、その衝撃に負けず挫けず、頑張った。
このまま瞬に嫌われている状態が続けば、キグナス氷河の未来にあるものは、生ける屍としての時間のみである。
そんな事態だけは、氷河は何としても避けたかった。
永遠に ただの仲間でいることになっても構わない。
そうなっても構わないから、瞬には この世界にあるものすべてを愛していてほしかった。
そんな瞬に戻ってほしかった。
そんな瞬を見ていたい。
瞬が本来の瞬に戻ってくれさえすれば、この恋が叶わなくても、自分は生きていられるだろうから。
今となっては、それだけが、氷河に望むことのできる ただ一つの望みだった。

「とにかく どうにかせねばなるまい。今のままでは、俺たちの聖闘士としての戦いにまで支障が出る」
「どうにかって言ってもなー。ほんとのことを正直に言って、謝るしかないだろ」
「それで許してもらえるとも思えんが……。いっそ、無理やり真実の愛の口付けとやらを やらかして、ショック療法を試みてみてはどうだろう」
「毒をもって毒を制す、か。でも、それって意味なくないか」
「しかし、真実の愛の口付けというのは、大抵の場合、すべての時代・人種・場所を超越したオールマイティのスーパーアクトだ。もともと好きだったところに、重ねて 好きになれと命じられて、瞬は氷河を嫌いになったんだ。そこに更に『好き』の象徴ともいえる行為で畳みかけてやれば、元に戻るということもありえなくはない――かもしれない」
「マイナスにマイナスを掛けてプラスになってところに、もう一度マイナスを掛けて、元に戻すって理屈かー。どうせ他の手は思いつかないんだし、やってみてもいいかもな。何がどうなったって、状況が今より悪くなることはないんだし」

紫龍は いかにも自信なさげで、星矢は いかにも投げ遣りだった。
それでも、仲間公認で(?)瞬にキスができる(かもしれない)のである。
多少 胸がときめくくらいのことがあってもいいだろうと思うのに、氷河の心は一向に浮上してこなかった。
もしそんなことができたとしても、瞬は 白鳥座の聖闘士を嫌っているのだ。
自分を心底から嫌っている相手に 無理な理由をこじつけてキスができたとしても、それは全く楽しくない行為である。
そういう行為は、瞬の許しを得て――瞬に望まれて行なうのでなければ 全く意味がないと、氷河は思ったのである。

そう思ってから、幻朧魔皇拳を用いて 自分が瞬に為そうとしたことは、まさに その“楽しくないこと”“意味のないこと”だったという事実に、氷河は今になって気付いたのだった。
瞬が自分を好きでいるのかどうかということを確かめもせず、使ってはならない手を使って、手っ取り早く 瞬の心を自分の方に向けようとした。
瞬は本当は大して氷河を好きではなかったのかもしれない。
仲間としては好きでも、それ以上の気持ちなど持っていなかったのかもしれない。
だとしたら、暗示で瞬の心を手に入れようとすることは、瞬の心をレイプするようなもの。
そんな卑劣な行為を、自分はしようとした――実際にしてしまったのだ。
氷河は後悔していた。
そして、生まれて この方、1、2度ほどしか経験したことのない自己嫌悪にも陥っていた。

――人生というものは、苦難の連続である。
それでなくても10年に1度あるかないかの どん底レベルにあった氷河に、運命は更なる追い討ちをかけてきた。
自らの悪の所業を正直に打ち明けて、この事態打開のために“真実の愛の口付け”を試させてくれと申し出た氷河を、瞬は にべもなく拒絶してくれたのだ。
それも、
「いや、いや、いや、絶対にいや。氷河とそんなことするくらいなら、僕は死んだ方がましだよ。僕は氷河なんか大っ嫌いなんだからっ!」
などという、苛烈無慈悲な言葉で。

仲介役として その場に同席していた星矢と紫龍も、その冷酷な断言には 全身から血の気が引いていく思いを味わうことになったのだが、氷河が受けた衝撃は彼等の比ではなかった。
いつでも誰にでも優しく親切な瞬に与えられた、この特別待遇。
ショックのあまり、氷河は、白目を剥いて、その場に ばたーんと倒れてしまったのである。






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