そんなふうに これまで通り 健全清らかに終わった氷河と瞬の図書館デートの翌日。 紫龍の言っていた『瞬はこのところ、体調が優れないように見える』の言葉が気にかかっていた星矢は、紫龍の懸念が思い過ごしでなかったことを、その目で認めることになったのだった。 いつもの時刻に「おはよう」と言ってラウンジにおりてきた瞬の顔色が尋常でなく悪かったのである。 「瞬、おまえ、なんか、顔色悪いぞ。まっさお……てか、まっしろ」 「え? そ……そう……? あ、僕、夕べ、窓を閉めずに眠ったから、そのせいかも」 「窓を閉めずに寝た……って、この真冬にかよ?」 「空調がきいているところだと、ぬるま湯につかってるみたいに、頭がぼうっとして、身体と周囲の空気の境界がどこにあるかわからなくなって、それがいやなの。寒い方がいい。頭も身体も緊張させていられるから」 「緊張させていられるから――って、睡眠ってのは心身を休ませるためにするもんじゃないのかよ」 「うん……そうだね……」 要領を得ない瞬の答えに、星矢は眉をひそめることになったのである。 仮にも瞬は、アンドロメダ座の聖衣を預かる アテナの聖闘士の一人である。 十分な休息をとれていない者は、いざ戦闘開始となった時、戦いに必要な緊張感や集中力、持続力を発揮できないくらいのことは、瞬も よく承知しているはずだった。 「わざわざ寒いところで就寝とは、まるでキリスト教の修道士のようだな」 渋い顔になった星矢の横から、以前から瞬の不調に気付いていたらしい紫龍が、おそらくは 瞬に探りを入れるために、そんな話を持ち出してくる。 その“探り”に先に反応したのは、だが、瞬ではなく星矢の方だった。 「キリスト教の修道士って、そういうことすんのかよ? わざわざ寒いとこで寝るわけ? それが修行になるのか?」 休息を取らないことで肉体を鍛える修行というものがあるのなら、聖闘士の一人として その仕組みを知っておきたいし、それが効果的なものなのであれば、自分には無茶に思える瞬の行動を責めずに済む。 それは、そういったことを期待しての質問だったのだが、紫龍から返ってきた答えは、星矢の渋面を更に渋くさせるだけのものだった。 「キリスト教では清貧が美徳とされているからな。現世の幸福や肉体の充足・安楽を求めず、むしろ意図的に遠ざけて、精神の鍛錬に努めることをよしとする。冬場に火を起こさず、寒さに甘んじるというのも、その一手法だ。身体を鍛えるためにではなく 精神を鍛えるために、わざと自分の身体を痛めつけるんだ。イエスが処刑前に受けた鞭打ちを体験するために、鉄鎖で自分の背中を打つなんてことも、一部では行なわれていた――いや、今でも実践している宗派があるらしい。イエスが経験したものと同じ苦痛を体験することで、自分も神の国に近付けると考えているわけだな、つまり」 「自分で自分を鞭打ち〜? それってヘンタイって言わねーか?」 神の国に近付くための厳しい鍛錬も、星矢にかかると変態行為になる。 身も蓋もない星矢の評価に、紫龍は苦笑いをすることしかできなかった。 「確かに、全く科学的ではないな。が、まあ、価値観というものは人それぞれだ」 「価値観の相違っていうより、間違ってるだろ、それ。んなことしても、体力消耗して弱るだけだ。くだらない我慢大会で精神の鍛錬なんかできねーよ。我慢大会は我慢大会。ただのゲームでしかないぜ」 星矢の主張は実に尤も。 その意見に対しては、紫龍も反対意見を述べる気はないようだった。 代わりに、この場にいない人物の姿を探すように、一渡り ラウンジ内に視線を巡らせる。 「睡眠がおかしくなっているのは氷河もだな」 「え?」 「瞬が早寝早起きの いい子なら、氷河は夜更かし朝寝坊の悪い子の典型だったのに、最近、奴は、とんでもなく早起きになっている。今朝は、4時に庭に出ていったようだったぞ」 「氷河が……?」 紫龍が探していた人物は、室内にはいなかった。 つまり、毎朝いちばん遅く仲間たちの前に姿を現わす氷河は、今朝もまだ その姿を仲間たちの前に見せていなかった。 紫龍に 氷河が早起きになったという事実は、瞬には寝耳に水のことだったのだろうし、その理由にも、瞬は心当たりがないようだった。 「今の時季の4時ってたら、朝じゃなくて夜だろ。まだ真っ暗じゃん。氷河の奴、そんな時間に庭先で何してたんだよ」 「俺は、奴が庭に出ていく気配を感じただけだ。敵の襲撃があったわけでもないようだったし、氷河の珍奇な行動を確かめるためにベッドを出るのも面倒で、俺はまた眠ってしまった」 「そりゃそーだ」 冬の朝に、しなくてもいい早起きをすることは、星矢にとっては、それこそ変態行為と大差のない無意味無駄な行為だった。 紫龍が氷河の変態行為の謎の解明に立ち上がらなかったことは、至極 真っ当かつ自然なこと。 星矢は その件に関しては不満を覚えなかったし、不平を言う気にもならなかった。 今 自分たちが優先して解明すべきは、真っ当で自然なことではなく、異常で不自然なことの方なのだと考えて、星矢は瞬に向き直った。 「氷河が普通じゃないのは いつものことだから、それは置いとくとして――夜更かしするようになっても、瞬は相変わらず早起きだし――おまえ、夕べは何時間寝たんだよ」 「……3時間は眠ったと思うけど」 「3時間〜っ !? 」 瞬の答えを聞くと、星矢は、明確に責める口調で 瞬が口にした睡眠時間を復唱した。 そうして、瞬の白い顔を睨みつける。 「おまえは、ナポレオンでも目指してんのかよ! 道理で顔色が悪いと思った」 「うむ。いくら何でも 3時間は少なすぎだな。レム睡眠とノンレム睡眠、1セット90分。我々の年代なら、これを4セットか5セット、6時間か7時間半の睡眠がとるのがベストだ」 「そうだね……。うん。今度から気をつけるよ」 瞬が仲間たちの叱責と忠告に、素直に首肯する。 瞬が仲間たちの意見に逆らわないのは いつものことなのだが、瞬の異常に短い睡眠時間の原因が解明されていないだけに、星矢と紫龍は、瞬の素直さを、今日ばかりは信じてしまえなかったのである。 ところで、星矢と紫龍が 氷河の早起きの謎の解明に さほど意欲を燃やさなかったのは、彼の行動の理由に思い当たることがあったからだった。 そして、それは間違った推測ではなかったらしい。 その日、瞬のいないところで氷河を捕まえて、彼らしくない早起きの理由を尋ねた星矢と紫龍に、氷河は彼等の予想通りの答えを返してきた。 「まあ、その何だ。ろくでもない夢を見るんでな」 「夢?」 紫龍に反問された氷河が、隠す様子もなく自分の言葉に補足説明を加えてくる。 「夢というか、半分覚醒している時の」 「あー、それは淫夢というやつか」 「……まあ、そんなところだ」 そんなところだろうと、実は 星矢も紫龍も思っていた。 氷河の異様なまでの早起きは、実は大した謎ではないのだろうと。 「瞬が相手では仕方がないか。まあ、寝不足で倒れるようなことにだけはなるなよ。瞬に理由を説明できない」 「ああ、気をつける」 氷河の行動は謎ではない。 謎が残るのは、やはり瞬の異様なまでに短い睡眠時間の方だった。 とはいえ、その謎も、さほどの間を置かずに解明されることにはなったのだが。 |