一晩が過ぎても、僕の力は戻ってこなかった。
この状況を、懸命に“良いこと”なのだと思おうとしながらロビーにおりていくと、そこに氷河の姿があった。

「氷河、どうして」
つい日本語で尋ねてしまった僕に、
「夕べのうちに、ホテルをこちらに移したんだ。観光の連れがほしくて」
氷河が日本語で答えてくる。
「観光の連れがほしくて? 氷河、日本語がわかるの?」
「言っていなかったか? 俺は日本からきた」
日本から?
この青い瞳と金色の髪を持った人が、北の国ではなく、僕が10年を過ごしていた あの国にいた?
それはいったい――この符合は、いったい何?
僕はまた軽い目眩いに――多分、不安のせいで――襲われた。

もちろん、あの国は――特に都会は――たとえ同じ街に暮らしていても、人と人が知り合える可能性が極端に小さいところだ。
あの小さな島国には1億を超える人間が――ギリシャの10倍以上の人間が、他人との関わり合いを避けるようにして暮らしている。
日本は、他人のプライベートに興味を持つことが下品とされる国なんだ。
でも、どんな国、どんな地域にも、例外がある。
日本での例外は、マスメディアに採りあげられるような人間だった。

――10年前の化け物騒ぎを、氷河が憶えている可能性はあるだろうか。
彼が今20歳だとしたら、当時 氷河は10歳の子供。
大丈夫のような気がするけど――と考えて、僕は、僕が氷河のことを何も知らないことに気付いた。
歳も、どこに住んでいるのかも、家族がいるのかも――僕は氷河の名前と姿以外の何も知らない。
それを訊いたら、氷河は教えてくれるだろうか。
そして、それが普通の・・・人間のものだったなら――彼が普通の人間で、歳を取らない化け物などではなかったら――彼が僕の命を奪いに来た刺客ではないことがわかる。
そうすれば、僕は安心できて――安心できて、“普通”でないのは自分だけなんだという事実に打ちのめされることになるんだ。

「マナー違反なことを訊いていいか」
「なに?」
「瞬は歳はいくつなんだ?」
男子の年齢を訊くことがマナー違反に当たるのかどうかという問題はさておいて、まるで僕の考えを見透かしているみたいな質問が氷河の唇から発せられるのに、僕の心臓は大きく撥ねあがった。
「いくつに見える?」
どきどきしながら、僕は氷河に問い返した。
少しく考える素振りを見せた氷河から返ってきた答えは、
「14、5」
というもの。
僕の外見がそう見えるのなら、僕の本当の歳は24、5歳なんだろうか。
まさか そう言うわけにもいかず、ましてや10歳とも言えず、僕は、
「もう少し上。16だよ」
日本の“子供”が学校に行っていなくてもいい年齢を答えた。
そして、
「氷河は?」
と問い返す。

「いくつに見える?」
「外人さんの歳はわかりにくくて」
決して差別をするつもりはなくて、ただ考える時間を手に入れるために、僕は そう呟いた。
「10代にも見えるし――」
言い淀み、氷河の年齢を探るために、僕は初めてまともに正面から氷河の姿を見た。
力を奪われることを恐れて、彼の目を避ける必要は、もう僕にはなかったから。

氷河が若いのは確かだ。
体躯だけでなく、氷河は その肌にも所作にも 力がみなぎっている。
でも、その瞳は――さほど人生経験を積んでいない“若い男”のそれにしては、深みがありすぎる。
そんな気がした。
「20代にも30代にも見える」
目だけを見て判断していたら、もっと上ということもありえると、僕は考えていたかもしれない。

「もっと上かもしれない」
「え?」
まるで僕の考えを読んだかのような氷河の言葉に、僕はまた驚くことになった。
氷河は、僕の考えを読んだわけではないようだったけど。
「物心つく前に親を亡くして、本当の生年月日がわからないんだ。一応、国籍は日本ということになっているんだが、それは役所に特別措置を願い出て、手に入れたものだ」
「……」

氷河は、嘘をついているようには見えなかった。
事実、それは嘘ではなかっただろう。
嘘をつくなら、氷河はもっと普通の人間としての自分を装う嘘をつくことができるんだもの。
どんな嘘をつかれても、僕は氷河の主張の真偽を確かめることはできないんだから。
では、氷河のその言葉が嘘ではないとして――。
氷河が普通の人間だとしても、僕の敵でも、神の使いでも――この符合は いったい何なんだろう?
『本当の生年月日がわからない』

「瞬? どうかしたのか?」
黙り込んでしまった僕の顔を、氷河が気遣わしげな目で覗き込んでくる。
「あ、ううん。ただ、あの……僕もなの。僕も、本当の歳がわからないの。それで、ちょっと驚いて」
氷河の前で嘘を言っても仕方がないような気がして、僕は事実を彼に告げた。
もちろん、余計な“事実”は省いて。

「奇遇だ。意外によくあることなのかもしれないな」
氷河がまた、男性が女の子を引っ掛けるときの陳腐な常套句を口にするから――僕の肩から力が抜けていく。
氷河はもしかしたら その効果を狙って――僕の上から緊張感や警戒心を取り除くために、あえて陳腐な常套句を使っているんじゃないかと、僕は疑った。

「もう一つ、訊いていいか」
「なに? 住所? 携帯電話の番号? メールアドレス?」
常套句を多用する男性が次に知りたがる情報は何なのか。
肩の力を抜いて、半分笑いながら、僕は氷河に尋ねた。
残念ながら、僕の予想は全部外れてしまったけど。
氷河の次の質問は、
「恋人はいるか」
だったんだ。

氷河は僕が男子だっていうことを忘れてしまってるんじゃないだろうか。
少し不安になって、僕は質問者の顔を見上げた。
そんな僕の様子を見て、氷河が場を取り繕うような笑みを向けてくる。
「すまん。不躾すぎたか? 答えたくないのなら、無理して答える必要は――」
「あ、ううん。びっくりしただけ。いないよ」
「そうか! それはよかった」
「どういう意味」
「あ、いや、こんなに可愛いオトコのコの恋人なんて想像を絶するから。そんなモノを想像しなくていいのは助かる」
氷河は、僕が“オトコのコ”だっていうことを忘れてはいないようだった。
もしかしたら、彼は、男子である僕相手に、彼がいつも女の子にするのと同じ対応をしているから、結果が おかしなことになっているのかもしれなかった。

「同じ質問をしていい?」
「ああ、いないぞ。安心してくれ」
きっと そうだ。
氷河はいつも、他の女の子に、こんなふうに訊いて、こんなふうに答えているんだ。
くすくす笑いながら、僕は 氷河の戯れに付き合ってあげた。
「よかった。こんな綺麗な男の人の恋人なんて、想像できない」
「そうか? 俺は簡単に想像できる」
「どんな」
「今、俺の目に映っている」
「――」

氷河は、いつも、他の女の子にも こんなふうに言っているんだろう。
それまで笑って付き合っていられたことに、僕は急に苛立ちを――ううん、憤りを覚えた。
他のことなら笑って済ませられるけど、氷河の目のせいで力を失ってしまったのかもしれない僕に、僕にとっては特別な氷河の目を、こんなふうにナンパの道具の一つにされてしまうのは不愉快だ。
ああ、違う。
僕は――僕は多分、氷河にそんなことを言われて胸をときめかせてしまった僕自身に戸惑い、やるせなさと悲しさを覚えたんだ。
女の子みたいに、氷河の そんな言葉にときめいてしまった自分が悲しくて、腹が立った――。

僕は、無言で踵を返した。
「瞬!」
氷河が、彼に背を向けた僕の腕を捕まえようとする。
その心配は、今では無用のものなのに、彼の腕の骨を折ってしまわないよう その手をよけることで、僕は氷河との間に距離を保った。
「僕は、そういう冗談は嫌いなの! そんなふざけたことを言う人は、僕に近付かないで!」
「それは……残念だ」

氷河の青い魔眼が、悲しそうな暗い目になる。
本当に悲しそうな目。
もしかしたらって、僕は思った。
僕が氷河の青い瞳を特別な何かだと感じているように、もしかしたら氷河も、僕を特別な何かなのだと思ってくれているんじゃないか――って。
性別も気にならないほど特別な人間だと、僕と同じように感じてくれているんじゃないかって。
もちろん、それは僕の勝手な推測で――90パーセント以上が希望でできている憶測で――万一 その希望が事実だったとしても、だからどうなるっていうんだろう。

僕は、人を好きになる資格のない化け物だ。
今は その力が消えて普通の人間みたいにしていられるけど、僕は依然として不老の化け物なのかもしれない。
そんな僕に、いったい何が言えるっていうの。
氷河は悪い人じゃない。
でも、だからこそ、このやりとりが冗談で済むうちに離れた方がいいんだと、僕は思った。
もし氷河が冗談でそんなことを言っているのでないなら、なおさら。
氷河の声と視線を振り払い、僕は自分の部屋に戻って、そして泣いた。






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