氷河はもう このホテルにはいないだろうと覚悟して、翌日 僕がロビーにおりていったのは、昼近くになってから。 一晩 泣き明かした僕の瞼は腫れてしまっていたんじゃないかと思う。 なのに、氷河はそこにいたんだ。 多分、朝からずっと、僕が部屋から出てくるのを、氷河はそこで待っていた。 「瞬。今日はどこに行くんだ?」 昨日までと何も変わったところのない声で、氷河が僕に尋ねてくる。 僕の瞼が腫れていることに、きっと氷河は気付いている。 「もう、ああいう冗談は言わない。それならいいか? おまえの側にいても」 なのに、氷河はそう言ってくれて、僕はまた 目の奥が熱くなってきた。 氷河の側にいたい。 それが、今の僕のたった一つの願いだったから。 僕は、一瞬しか迷わなかった。 僕は、自分が何者なのかを知らない。 力は失われたのか、それとも いずれまた復活するのか。 僕は相変わらず不老の化け物なのか。 そして、不死なのか。 氷河が僕の何なのかも、僕は知らない。 でも、もう、そんなことはどうでもいいんだ。 もう氷河には会えないんだと思って、夕べ一晩 泣き続けた。 今こうして氷河の側にいられることが、泣きたいほど嬉しい。 僕は、氷河と離れたくない。 「うん……」 泣きたい。 いっそ大きな声をあげて、氷河の前で泣いてしまいたい。 僕は、氷河を好きになってしまっているんだ。 絶対に、僕みたいな化け物には人を愛する資格なんてないのに。 愛されることを望む資格は なおさら、僕にはないのに。 『それは、心があれば自然に生まれる思いだ』 あの人が言っていた言葉。 あの人は、僕が化け物だっていうことを知っていたのに、僕を愛していると言ってくれた。 だから、僕も同じ言葉を返すことができた。 でも、氷河には――。 氷河には、本当のことを打ち明けずに好きだなんて言えない。 それは卑怯で卑劣な行為だ。 でも、だからって、氷河に自分がどういう生き物なのかということを正直に打ち明けることは、僕にはできそうになかった。 氷河は、最初から僕が普通の人間じゃないことを知っていた あの人とは違う。 『僕は あの人に憎まれているんだ』っていう覚悟から同居が始まった あの人とは違う。 あの人は、僕の父親みたいなものだった。 あの人は、僕の家族だった。 どんなに無様で みっともない姿を見せても絆が消えることのない家族と 恋人は違う。 僕は、本当のことを打ち明けて、氷河に恐れられたり嫌われたりすることが恐かった。 だから、僕と氷河は友人でいるしかないんだ。 旅先で知り合った、行きずりの友人でいるしか。 「今日はまだ、どこに行くか決めてないんだけど……僕、聖域という場所を探しているの。氷河、聞いたことない?」 まるで小さな子供みたいに――氷河が勧めてくれたサワーチェリーのシロップ漬けとカフェオレで、僕は落ち着きを取り戻していた。 ほんとはチェリーのシロップ漬けなんかじゃなく、また氷河と一緒にいられるようになったことに安心して、まともに会話ができるようになっただけだったんだけど、どっちにしても氷河のおかげなことに変わりはない。 「聖域?」 「うん。ギリシャに そう呼ばれる場所があるはずなんだ」 「聖なる場所というなら、神殿はどこもそうなんじゃないか?」 「そうかもしれないね……」 なら、僕は、出掛けていく場所はどこでもいいよ。 氷河と一緒に行けるとこなら、どこでも。 氷河の行きたいところが、僕の行きたいところだ。 「氷河は――ルーツを探すために この国に来たって言ってたけど、あれは本当?」 あれは、僕に調子を合わせてくれただけだったのだと、僕は勝手に決めつけてたけど、本当にそうだったのか。 僕が尋ねると、氷河は、僕の勝手な決めつけを肯定するような否定するような、何だか不思議な彼の旅の目的を僕に教えてくれた。 「俺がこの国に来たのは、英雄伝説調査のため――かな」 って。 「英雄伝説調査?」 「ああ。ギリシャ神話には、人間の力を超えた英雄が多く登場するだろう。ヘラクレス、ペルセウス、テセウス、イアソン、アキレウス。ああいう人間たちはどうやって生まれたのかを調べるために、俺はギリシャに来たんだ。ああいう英雄たちは、現代には生まれ得ないのかと思ってな」 僕は化け物の聖地探しで、氷河は英雄伝説調査。 僕と氷河のルーツは随分違うんだね。 「彼等が超人的なのは、神の血が混じっているからでしょう?」 僕は何だかとても切ない気分になって、力ない口調で一般論を口にした。 氷河が――なぜだろう? ――僕より苦しそうな目をして、僕を見詰めてくる。 ちょっと不自然なほどの間を置いてから、氷河が告げた言葉は、僕には驚くべきものだった。 「瞬、もし、俺が、そういう英雄の一人だったら――人間離れした化け物だったら、おまえは俺を不気味だと思うか。気持ち悪いと思うか」 そう、氷河は僕に訊いてきたんだ。 僕は、大きく瞳を見開いた。 僕の その様子を見て慌てたように、氷河が急いで言葉を付け足してくる。 「あ、いや、そう大したことはないんだ。恋をしたら力を失うのか、おまえに会ってからは力が弱まっているし――」 「氷河……」 氷河は何を言っているのか。 いったい何を、氷河は言っているのか。 「恐がらないでくれ。変なことを言う奴だと思わないでくれ」 『恐がらないで』って、それは僕が言うべき言葉だ。 僕が氷河に言うべき言葉。 「僕は……ギリシャに来たから、力が弱まっているのかもしれないって思ってた。でも、やっぱり氷河のせい……僕の力が弱まっているのは、氷河が僕の側にいるからなの?」 「瞬……?」 「氷河、石ころを指先で砕くことができる? 10メートルくらい、助走なしで跳べたり、自動車と同じ速さで1時間も走り続けることができたり……する?」 「できる。瞬。どうして」 「僕もなの。氷河、どうしよう、僕も……僕も氷河と同じなの……!」 ああ、こんなことって! 氷河が僕の敵じゃなく、僕と同じものだったなんて! そんなことがあるんだろうか。 「瞬……おまえも? おまえも俺の……仲間?」 「氷河は、いったい、いつから――どんなふうに、この世界に現れたの? 僕たちが何者なのか、氷河は知っているの?」 そんなことがあるはずない。 そんな夢みたいなことが。 でも、そうだったんだ。 僕たちは対立者同士じゃなく、同じもの同士だったんだ。 同じもの同士が出会って、力が相殺されて――だから、僕の力は氷河と出会うたびに弱まり消えていった――? 驚きと喜びと、他にもいろんな気持ちが混じり合って、筋道だった思考を形作ることができない。 ティー・テーブルに身を乗り出すようにして 矢継ぎ早に氷河に質問を投げかけていった僕の腕を、氷河の手が掴む。 氷河は、興奮している僕を落ち着かせるために そうしたんだと思って、僕は一度 唇を引き結んだ。 質問攻めにされたら氷河だって困るだろうと思って、僕はそうしたのに、氷河の意図は全く別のところにあったみたいだった。 僕の言葉を遮ると、今度は氷河が僕に訊いてきた。 「瞬、なら、言っていいか。その言葉をおまえに言う資格が俺にあるのか」 「え」 「知り会って たった3日で こんなことを言う軽薄な男だと思わないでくれ。俺はおまえを愛している。離したくない。離れたくない。ずっと一緒にいたい。俺はおまえを愛しているんだ!」 僕に力を奪われることが恐くないのか、氷河の視線は 一直線に僕の瞳に向かってくる。 切なく、熱っぽく、僕よりずっと強い歓喜と興奮に捕まっているような氷河の瞳は、まるで10代の少年のそれに見えた。 そんなことを言っている場合じゃないと 言おうとしたんだ、僕は。 でも、僕の意思に反して、僕の唇は、あとまわしにしていいはずの言葉を、ためらいがちに氷河に告げていた。 「氷河……。僕……僕にも同じ言葉を言う資格があるのかな」 途端に、氷河が 掛けていた椅子から 勢いよく立ち上がる。 そして、あろうことか、氷河は、真昼のホテルのティーラウンジの中央で、僕の身体を抱き上げた。 「氷河……!」 「今日はどこにも出掛けない。ずっと俺の部屋にいる」 「氷河、おろして。みんなが見てる」 「瞬が可愛いからだ。このホテルに移ってきた時から気に入らなかった。ここの客たちがおまえを見る目は非常に不愉快だ。おまえは俺だけのものなのに」 「氷河、冗談はあとで聞いてあげるから、すぐ僕をおろして」 『僕を おろして』と言いながら、僕の右手は氷河の肩にまわされ、しがみついていて、僕の頬は氷河の肩に押しつけられていて――だって、恥ずかしくて、顔をあげていられない。 「どれほど物見高い奴等も、部屋の中までは追いかけてこないだろう」 氷河は、僕を抱きかかえたまま、衆目の中、ティーラウンジを突っ切り、エントランスホールを抜け、ロビーの前を通り過ぎ、そして、エレベーターに乗り込んで、ボーイに彼の部屋のある階数を告げた。 |